決して忘れられない1日


5.Awaken

 最初に感じたのは、両頬に感じる痛みだった。
 痛み、というよりも、それは心地よい刺激かもしれない。とてつもなく眠いのに、母に揺り起こされているような、そんな感覚である。
 薄目を開くと、白濁した視界の中、自分を見下ろしている顔が見えた。今にも悔し泣きしそうな表情で自分を見据えている。童顔のその顔は、よく知っている顔だった。
 誰だっけ・・・いつも一緒にいて・・・とてもよく知っている・・・
 次に回復したのは聴覚だった。ヒュッという風をきる音に続いて、バチンという派手な音が自分の頬からあがる。その音が鳴る度に、次第に意識が明瞭になっていく。
 そして、遠くに観客の声・・・
 一気に意識が明瞭になった。恵の回し蹴りで、自分は意識を失ったのだった。そのまま勝つこともできたのに、恵は音だけが派手な、気付けの張り手をしてくれていたのだ。
 観客には、恵が倒れた岬に馬乗りになって、追いうちの張り手を続けているように見えることだろう。
 あたし、まだ、戦えるのね、ありがとう、恵。岬は心の中で礼を言うと、下から恵を張りかえした。目が覚めたということを伝える、返事の一発であった。
 恵が、その一撃でよろめく。もちろん、岬が立ち上る隙をわざと作っているのだ。岬もそれに乗じて立ちあがる。
 岬は軽く足を振って、ダメージの蓄積を確かめる。大丈夫。膝は笑ってない。意識もしっかりしてる。まだ、これからが本番だ。自分はまだ何も見せていないのだもの。
 岬と恵はリング中央で四つに組み合った。クォータースタイルと呼ばれる形だ。つまり、お互いの右腕で相手の首をおさえようとし、左腕でそれを阻止する形だ。そして、お互いの右側の頭同士が擦れあう。
 その時、岬の右耳から、押し殺したようなすすり泣く声が聞こえてきた。
「岬、どうして本気になってくれないの? 岬はそんなもんじゃないじゃないか。あたしが一番知ってるよ、岬とずっと一緒にいたあたしが」
 何も良いところを見せることのできなかった自分に、本当に悔しさを感じていたのは、自分じゃなくて恵だったのだろうか・・・自分の不甲斐なさに泣くほどの悔しさを、岬は感じていなかった。その事実に、岬は気づかされた。
「あたしじゃ、物足りない? あたし相手じゃ、岬は本気になれないの?」
 その言葉に、岬の不甲斐なさを、恵は自分の不甲斐なさと捉えているのだと、岬は悟った。岬が本気になりきれない一番の理由は、ずーっと心に残っているわだかまり――ずっと一緒に練習してきた恵相手に倒すつもりで技をかけれない――なのである。しかし、恵は、自分の力不足で岬が手加減していると受け取っていた。自分の不甲斐なさが恵を侮辱していることに、岬は初めて思い至ったのであった。
 勝ちを譲る、とまではいかないものの、それに似た感覚を持っていたことに、岬は初めて気がついたのだ。そして、その考えがどれだけ恵を侮辱していたのか・・・
 そうだ。恵はそんな相手じゃなかった。あたしが全力で戦って、それでも勝てるか分からない、そーいう相手じゃないか。勝つ負けるなんて問題じゃなかった。今まで一緒に練習して身につけた技を、お互いに精一杯出せばいいんだ。恵なら、みんな受け止めてくれる。受け損なって怪我したりなんてしない。
 勝つか負けるか・・・そんなもの関係なかった。一番の友達と思いっきりやりあえる・・・そうだよね、手加減なんかしたら、恵に失礼だ。
「恵、ゴメン。あたし、勘違いしてた。でも、もう大丈夫。気持ちも身体も暖まったよ。恵のおかげで。こっからは気ぃ抜かないでよ。怪我されちゃうとイヤだから」
 岬の言葉に、恵のすすり泣きが止まった。感情の起伏と変化の激しさは相変わらずだと岬は思う。でも、自分も負けない。結果はどうでもいい。一生懸命さでは恵に負けたくない。負けられない。これからが本当の勝負なんだ。
「やっと、お目覚め? 遅いんだよ、あたしは、もう完全に火が入っちゃってるんだからね」
 恵は言うや否や、岬の頭を脇に抱え込む。しかし、ヘッドロックに完全にとられる前に、岬は恵をロープに振る。戻ってきた恵の腹にキチンシンクを叩き込む。たまらず恵が倒れると、今度は足をとってアキレス腱固めである。恵の口から小さい悲鳴がもれる。しかし、恵も決められていない左足のかかとを、極めている岬の腕に落とす。岬は4発耐えたが、5発目で手を放した。慌てて恵が立ち上る。
 開いた間合いが、磁石で引き合うかのように縮まる。組みにいった岬に対し、恵は下段蹴りを放つ。牽制ではない。斜め下に打ち抜く本気の蹴りだ。岬の出足が止まる。そこに、掌打で顎をかち上げる。のけぞって空いた脇に手を差し込み、フロントスープレックス。
 流れるような技の連携に、観客から声援が飛ぶ。岬は立ち上ると、軽く頭を振った。
 さすが、恵。格闘センスはホントに一流。空手の技を要所でまぜてプロレス技に移行するのが上手いったらありゃしない。でも、あたしも負けてはいない。あたしだって、ずーっと練習してきたんだもの・・・
 立ち上った岬に一気に詰め寄る恵に、今度は岬の返礼が飛ぶ。右ローキックで出足を封じ、右足を地につけることなくそのまま右ミドルキック。そして、右足のひきに乗じて左足をステップインさせると、地につけた右足をすぐさま高く跳ね上げる。
 高く上がった岬の足は、綺麗な弧を描いて恵の頭に吸い込まれる。恵は左腕をあげたのだが、完全に衝撃を受けきることはできなかった。がっくりと膝をつく。
 ロー・ミドルの片足二段蹴りから、ハイキックへとつなぐ、岬独自の連携技。右足だけでの3連打は、高校の頃、三段跳びで鍛えた脚力がなせる技だった。そして、入団以来1年間、黙々とサンドバッグを蹴り続けた成果でもあった。
 そして岬は、膝をついた恵に対し、立ち上るのを待ったりはしなかった。


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