決して忘れられない1日


3.Discontent

 岬は自分のデビュー戦を心待ちにしていた。同期のレスラーたちが一人、また一人とプロとして リングに立っていく。緊張した、しかし、それ以上の喜びに顔を輝かせ、スポットライトを浴びる同僚たち。自分も早くプロとしてリングに立ちたい。その気持ちは日ごとに増していったのである。
 しかし、そんな希望に膨らんだ胸は、対戦相手の名前を見て一気にしぼんでいった。そこには「三笠恵」と書かれていたのである。岬は一週間後のその試合の書かれた対戦表を見るや、営業部長である青野のいる事務所へと駆け込んだのである。
 慌しくノックすると、返事も待たずに事務所に入る。そこには、この慌しい入室者にも驚いた顔を見せない青野の顔があった。
「どうした、岬。そんなに慌てて」
 青野は落ち着いた声を出す。その台詞には用意されていたとしか思えない冷静な響きがあった。
「あんまりです。何であたしのデビューの相手が恵なんですか」
「恵が相手では不服かね? 彼女もデビュー戦だ。ちょうどいいと思うがね」
「不服だとか、そういうことではありませんわ」
 岬はかみつかんばかりの勢いだが、青野は手を上げて岬をおさえる。
「まあまあ、君の相手には恵がいいというのは美佐子くんのアイディアでね」
 そして、穏やかに笑ってみせる。文句なら美佐子に言えと示しているのである。
「分かりましたわ」
 岬はきびすを返すと、荒々しく事務所を出て行った。
「ふむ、美佐子の言った通りになったな」
 青野は激しく閉められたドアを見ながらつぶやいたが、岬の耳には届かなかった。
「美佐子先輩、失礼します」
 岬は美佐子を休憩室で捕まえた。
「お前たち、席をはずしな」
 美佐子は自分の付き人たちを下がらせると、岬に向き直った。
「やっぱり来たね、岬。甘ちゃんなお前のことだ。きっと文句を言いに来ると思ってたよ」
「た、確かにあたしは甘ちゃんです。でも、今回ばかりは納得できません」
 岬は直立不動の姿勢で美佐子に反論した。しかし、美佐子は怒るでもなく、すごむでもなく、岬に対した。
「なあ、岬。お前は何になりたいんだ、言ってみな」
「は、はい。プロレスラーです」
 岬は突然の質問に驚いたが、躊躇なく答えた。
「そうだ、プロだ。プロってのは、お客に試合を見せて金をもらうわけだ。たとえ、それがどんなカードだろうと、全力を尽くして戦う。それがプロじゃないのか?」
「・・・」
 岬は答えられなかった。岬と美佐子は同じ年齢である。しかし、プロとしては3年の違いがある。ましてや美佐子は今や若手のエースであるし、岬にプロを目指させるきっかけとなった人でもある。しかし岬は、気圧されながらもなおも反論した。
「そ、それは分かってます。で、でもデビュー戦ですよ。あたしと恵は一緒にデビューを勝利で飾ることを目標に頑張ってきました。それはあたしたちを指導してくださってる美佐子先輩が一番分かってるはずじゃないですか。それを・・・」
 美佐子は岬の反論をさえぎると、一歩詰め寄って岬に質問する。
「おい、岬。戦いってのはな、勝った人間と同じだけ敗者がうまれるんだ。そいつらだって勝つために努力してきたんじゃないのか?」
「そ、それは分かってます。だけど、だからって、何もデビュー戦で同室の恵とやらせなくてもいいじゃないですか。相撲だって同部屋対戦はないんですよ。それを・・・」
 そうなのである。岬がここまで恵にこだわる理由。それは入団してからの一年間を恵と同室で暮らしてきたからなのである。沼女では、デビューしていない練習生――デビューすると新人と呼ばれることになる――は、2人部屋で過ごし、同室の者と協力して練習や雑務をこなす規則なのである。そして、デビューすると一人部屋が与えられることになる。つまり、デビュー戦が行われるまでは、そう、来週の試合が終わるまで、恵と同室で暮らさねばならないのだ。
 ちなみに、寮を出ることができるのは、デビュー2年目からである。そして、デビュー戦では同室の者同士の対戦は避けるというのが今までの慣例だったのである。美佐子はそれをあえて破ったのである。岬でなくとも文句の一つも言いたくなるものである。
「いいか、岬。もう一度だけ教えてやる。プロレスには勝敗も重要だが、それ以上にいい試合をすることが必要なんだ。そこが相撲とは違う。勝敗で負けても内容で勝っている方が、強さを見せつけた者の方が、プロレスでは勝ったことになるんじゃないか? 恵相手に戦えないようじゃ、岬、あたしはお前をプロのリングに上げるわけにはいかないんだよ。分かったか? 分かったんなら、少しでもいい試合ができるように練習するんだ。恵と二人でいい試合をして、あたしをうならせてみろ。あたしにいい試合だったと言わせてみろ。相手が恵だからこそ、いい試合ができるんじゃないのか。お前のその甘ちゃんなところはプロとしては致命的なんだ。分かったな。分かったなら、もう行け」
 美佐子はそれだけ言うと、岬から視線をはずした。
「分かりました。ありがとうございました」
 岬は深々と頭を下げると、美佐子の前から立ち去った。
 (あたしは期待してるんだよ、岬。お前のその甘さが抜けた時、お前はいっぱしのプロになるってね。何たって岬、お前はあたしに憧れて入ってきてくれた、初めての娘なんだからさ)
 美佐子は去っていく岬を、心配そうな眼差しで見つめ続けていた。


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