決して忘れられない1日


2.Fight!!

 岬は不安な気持ちを押し殺して、その建物の門をくぐった。最後まで反対していた父は何とか説得した。もう後戻りはできない。ダメだったら帰ればいい、そんな弱気は禁物だった。何より、この場所は岬には聖地である。陸上をやっていた頃、地元のヒロインでいい気になっていた自分の実力を思い知らされ、無力感にさいなまされていた時、ひょんなことから出会った沼女のレスラーがどんなに真直ぐで光り輝いて見えたことか。自分もあんなふうに輝きたい、そう思ったのは浮ついた気持ちではなかったはず・・・岬は不安でつぶされそうになる心を叱咤し、道場へと足を踏み入れた。
 道場には、もうかなりの数の入団希望者がいた。この中の何人が入団を許されるのだろうか、岬はその中の一人に自分が絶対になることを心に誓った。
 岬は希望者たちを見回してみた。おそらくはほとんどが岬よりも年下だろう。女子プロの世界は寿命が短い。限られた一握りのレスラー以外の多くの者は、20代後半までにはリングを去っていく。そういう世界だ。中卒の者と高卒の者とでは、同じ歳で引退するとしても3年間現役でいられる時間が違うのである。高卒でレスラーになる、それはもしかしたらハンデになるかもしれなかった。
 しばらくすると、沼女の関係者が現れた。岬も含めて入団希望者は一列に整列させられた。岬は横に並ぶ自分と同じレスラーの卵たちを、何とはなしに観察していた。その中で岬は、一人の少女に強烈に瞳を吸い寄せられた。
 おそらくは中卒なのだろう。155cmぐらいの小柄な少女だ。やんちゃな少年にも見えなくもない容姿をしていた。ただ、その右目の周りには青い痣を作り、口の端にはバンソウコウを貼っていた。空手の道着を着ているから、空手をやっている娘なんだろう。
 なぜ自分は彼女に見入ってしまっているんだろう。岬は一瞬考えたが、すぐにその答えが出た。彼女は回りの少女たちとは違っていたのである。不安がないわけでも、緊張してないわけでもないだろう。なぜなら、彼女はギュッと拳を握り締めているし、体だって小刻みに震えている。しかし、顔は違った。軽く顎をあげ、口をとがらせ、まるで挑みかかるかのようにジッと前を見据えている。そして、その瞳には強烈な意志の力があった。自分という存在、自分の中でわだかまるエネルギー、それを放出させる瞬間を待ちわびる、そんな戦いに挑む瞳だった。

 カーン、とゴングが鳴り響く。あまりにも簡単に岬のデビュー戦の開始は告げられた。岬は赤コーナーからリングの中央へと歩み寄るが、恵は青コーナーから動かない。しかし、その瞳は真直ぐに岬を見つめている。恵の口が軽く動く。その声は聞こえなかったが、岬は理解した。恵は「いくよ、岬」と言ったのだ。
 恵は楽しそうに口の端を上げると、猛然と岬につっかかる。何てことはない、単なる体当たりである。岬はそれを真っ向から受け止める。体格では若干ながら岬に分がある。恵もこれで岬にダメージを与えられるとは思ってなかったのだろう。間合いを取ると、今度は下段蹴りを放ってくる。恵のローキックは内腿をとらえるので、芯でくらうととても効く。岬はそれをポイントをずらして受けると、今度は自分から牽制のローキックを放つ。
 しかし、恵はそれを防御しようともしない。岬のしなりのきいたキックが恵の左足に決まる。ビシッという音が場内に響いた。恵はその痛みを味わうと、嬉しそうに顔を上げた。
「ハハッ、楽しいな、岬。楽しいよ」
 そして、恵はそのまま一歩踏み込んでくる。強烈な張り手が岬の左頬を見舞う。岬は少しよろめくが、何とか踏みとどまった。恵に視線をやると、恵は楽しげに彼女を見つめていた。
「今度はそっちの番だよ、ほら」
 恵は自分の左頬を岬に示してみせる。張ってこいと挑発してるのだ。岬はコクリとうなずくと、その左頬を張った。しかし、恵は軽く頭を振っただけで、さらに岬を挑発する。
「本気でやってんの、岬? ちっとも効かないよ」
 そしてもう一度左頬を指し示す。
 岬は今度はさっきよりも力を入れて恵の頬を張る。今度は岬は数歩たたらを踏む。
「少しは体が暖まった? せっかく岬とやるんだ。全開でやろーぜ、全開で」
「ええ、望むところよ」
「よっし、じゃ、次はあたしの番だな」
 恵は今度は中段回し蹴りを放つ。岬はそれを体を沈めてガッチリと受け止めると、おかえしにとばかりに右足を高々と蹴り上げる。恵はそれをスウェーしてかわすが、岬の振り上げた足は止まらない。そこから足を蹴落とす。
 かかと落としである。恵は慌ててガードをするが、衝撃を殺し損ねた。ガックリと膝を落とす。
「そーだった、岬にはこれがあるんだっけ」
 恵は岬を見上げて不敵に笑ってみせる。それに岬も笑いを返す。
「これだけじゃないわよ」
 岬は恵が立ち上がったところに、一旦体を沈めてから、下から突き上げるような膝蹴りを繰り出す。岬が「ライジング・ニー」と呼んでいる技である。しかし、恵は今度はそれをしっかりと受け止め、そのまま水車落としで岬をそり投げる。
 お互いに立ち上がって見合うと、恵が笑ってみせた。
「デビューの相手が岬だなんて、美佐子ねーさんも粋なことしてくれるよね、いくよ、岬」
 しかし、岬にとっては、恵がデビューの相手であることに不満があった。岬はデビュー試合が決まった日に、美佐子に泣きついたのである。


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