決して忘れられない1日


1.Ring In

 明衣岬、彼女には決して忘れることのできない日が何日かある。たとえば、そう、初めてリングに上がったあの日のような。

 ベートーベンの第九が会場に流れ始める。800人で満員となる小さなホール、その第一試合。しかし、そんなことは岬の心の高揚の妨げとはならなかった。
「さあ、出番だよ」
 先輩に背中を叩かれて、岬は控え室から足を踏み出した。プロとしての確かな第一歩。それは暖かい目で岬を見守る先輩に押し出される格好となった。しかし、一歩踏み出せばもう止まることはない。戦うことへの不安と恐怖。しかし、それを上回る歓喜と期待が岬の背中を後押ししているのである。
 リングに上がると、会場の照明が落ちる。そして、リングアナウンサーにスポットライトが当たる。
「本日は沼袋女子プロレスリングにご来場いただき、まことにありがとうございます。それでは、本日の第一試合を始めたいと思います。両者、これがデビュー戦となります」
 ここでリングアナが間をあけると、会場から歓声がおきる。今後の沼女を担うかもしれないレスラーのデビューに立ち会えたことに対する興奮なのか、それともデビューを迎えた少女たちへの暖かい声援なのか。うねるようなその歓声はどちらでもあるようであった。
「青コーナー」
 リングアナが青コーナーを指し示す。そこには岬のデビュー戦の相手がいる。彼女はコーナーポストに額を押し当て、精神統一をしているようだ。その彼女にスポットライトが落ちると、会場は静まっていく。
「極心館空手2段の使い手。その拳はブロック塀も打ち抜きます」
 どよどよと観客がうずまく。超実践空手極心館2段というのに、格闘技通がざわめいているのだろう。そして、一際高くリングアナが声を張り上げる。
「160cm、56kgぅー、三笠ぁー、恵ぃー」
 観客から声援が飛ぶ。確かに恵の肩書はデビュー戦とはいえ観客に期待させるものだ。恵はリング中央に歩み出ると、右拳を左手で包み四方に礼を行う。そして、また自分のコーナーへと戻る。
「赤コーナー」
 今度はリングアナが赤コーナーを示す。すると、恵のもとから岬のもとへとスポットライトが移る。まばゆい光に包まれて、岬には周りが何も見えず、この光に包まれた世界に、自分一人しかいないように感じられた。今まで受けることのなかった自分だけのスポットライトが、確かに岬を照らしているのである。
「高校時代はIHの陸上選手。その脚力を生かした多彩なキックは新人No.1」
 うつむいていた岬が顔を上げると、またもや観客がざわめき始める。岬は美人だし、よくひきしまった体つきをしている。まるでモデルででもあるかのような岬を見て、観客はどよめいたのである。
「167cm、62kgぅー、明衣ぃー、岬ぃー」
 観客から恵に勝るとも劣らない声援が飛ぶ。観客に与えるスター性、それは岬のほうが恵よりも上回っている。これで岬に実力が伴っているのならば、岬は沼女の新人のエースとしてファンに受け入れられていくだろう。
 リングアナがリングから去ると、会場に照明が戻る。明るく照らし出されたリングの上には、岬と恵とレフェリーしかいない。レフェリーが岬と恵に中央に来るように促す。岬が歩み寄ると、恵も歩み寄ってくる。軽く顎を上げ、口をとがらせ、まるで挑みかかるかのようだ。そして、爛々と光る強い意志のこもった目が、真直ぐに岬に向けられている。
 ふと岬は、こんな恵をどこかで見たのを思い出した。そう、あれは入団テストの日だった。


戻る | 次へ