俺の見つけた宝物



 俺は喫茶店の駐車場から道路に飛び出してすぐに、第五環状線に入り時計回りに西の方向へと進む。
 環状線に入って2秒で、赤の軽を確認できた。受信機を調べてもドンピシャ。乗ってるだろうサカタユウコは、全然尾行なんか気にしてないらしく、ごく普通の運転をしている。これじゃあ、追跡行を楽しむどころじゃないな。できることは、追い抜かないようにスロットルを開けすぎないように気をつけるぐらいだ。俺にはそれが一番ストレスがたまることでもあるわけだが。
 尾行している間、少し時間があるので、ここでN◎VAの街でも説明しようか。
 トーキョーN◎VAは、昔で言う東京湾にできた街だ。<災厄>によって氷河期へと移行した地球は、その海面を大幅に下げた。そのため、東京湾は干上がって地上になったというわけだ。
 <災厄>とは、地軸のずれによって生じた災害と、それに起因した世界レベルの紛争を指していうわけだが、その当時まだ生まれてなかった俺には、それがどんな大変なことだったかは伝聞でしるのみ、だ。
 ただ、昔と今では北の位置が90度近くずれているというから、どれぐらいの地軸のずれだったのか、そしてそれがどれぐらいの災害を引き起こしたのかを想像するのは難しいことじゃない。
 今のトーキョーN◎VAでは、南へ進めばチバとの境があるし、西へ進めば太平洋。北へ進めばヨコハマ。東北に進めばトーキョーへと至る。もっとも、日本は鎖国しているから、トーキョーに入るなんてことは、一部のハイランダーにしかできることではない。あ、ハイランダーってのは「日本国民」という意味も持っている。トーキョーN◎VAは昔の海底にできた街だから、日本よりもかなり低い位置にあるわけだ。日本は200mほど高い位置に存在している。だから、日本のことは「ハイランド」なんて言い方もできるわけで、そこに住んでるヤツラはハイランダーってわけ。
 もっとも、N◎VAにいる日本国民ってヤツは、総じて特権階級の者が多い。そして、特権階級のヤツラの中には、衛星軌道上に住んでるようなヤツラもいるわけで、位の高いヤツって意味でもハイランダーってのは使う呼称だ。
 トーキョーN◎VAは、日本が作った「世界と交わる唯一の出島」だから、N◎VAを取り仕切る連中ってのは日本国民ってヤツが多い。もっとも、多国籍企業が乱立し、そいつらの発言も無視できないから、日本国民以外の連中が参画してないかっていえば、それもまた違うらしい。詳しいことは俺にはわからないが、ガキの頃に教え込まれた知識によると、そういうことになる。だから、ハイランダーって言うのが日本国民だけを指すってわけでもない。
 それと、日本国民っていうのは、日本に国籍を持っている連中のことを指す。日本人っていうのはまた別で、日本民族の血をひいていれば日本人ってことになる。N◎VAでは混血も多いから、純粋な日本人がどれだけいるのかは疑問だけど。ちなみに、俺も一応日本人って分類に入ることになる。
 N◎VAの中心は北よりに位置している。そこには何があるかっていうと、ブラックハウンドの本拠地があって、そこの地下には日本との唯一の出入り口である「天岩戸」ってのがあるらしい。
 ブラックハウンドの本拠地を中心として、同心円状に走ってる道路が環状線。内側から第1、第2と名前がついている。放射状に走ってる道路もあって、それが放射路と呼ばれてる。
 んで、ブラックハウンドの本拠地の周りに企業アーコロジービルが林立している。うちの実家もその中の1つだな。ここいらは企業の集まってる地域で中央区って呼ばれている。ブラックハウンドと企業の雇った私兵どもがパトロールしてるんで一番治安がいい場所だ。
 それから、その周りに中流階層の住んでいる住宅街が広がっている。西の郊外には高級住宅街も広がっていて、大学があったりハイソな娯楽施設が並んでいたりとここも治安はいい方に入る。しかし、住宅街も外縁部に行くに従って段々治安が悪くなってくる。うちの事務所や、サカタの店があるのがこの辺りになるな。
 南にはアサクサって歓楽街があって、さらに南にはスラム街。ストリートとも呼ばれるここが、一番治安が悪い・・・っていうか、治安なんて言葉とは無縁の場所だ。
 西には倉庫街やタタラ街がある。タタラ街ってのは、技術者どもが自分の研究所を構えていたり、企業の工場などが並んでいる場所だ。
 そして、どうやら、サカタユウコの目的地もそこらしい。
 第五環状線からタタラ街へと延びる放射路(中央区から放射上に延びている道路の1つ)を左折すると、目の前にタタラ街が近づいてきた。
 近づき過ぎないように、それでいて見失わないように注意して赤の軽の後を走っていると、赤の軽は1軒の戸建のガレージへと入っていった。俺はその家の前を通過すると、少し離れた位置で単車を停めた。
 それから1時間ほど、俺は単車に跨ってうとうとしながら待った。タタラ街のど真ん中で単車に跨って陣取るってのが、怪しまれるような行動だとは分かってはいるが、他にどうしようもない。タタラって連中が、自室に閉じこもってあまり外界のことは気にしないという風聞がある程度事実だと知っているから、こうしているわけだが。何か聞かれたら、運び屋のフリでもして誤魔化そうとは思っているが、この1時間、驚いたことに外を歩く人の姿を見かけなかった。
 サカタの家から、赤の軽が元来た道を引き返していく。サカタユウコは荷物を届けただけじゃなくて、昼飯も済ませたのだろう。俺は数分待って受信機に表示される輝点が家の中を示していることを確認すると、ゆっくりと単車をサカタの家の前へと進ませた。
 さて、どうしよう。
 結局のところ、扉を開けさせる有効な手段というものは何一つ浮かばなかった。これはもう、修理を頼んだ若いカブトが、心配で訊ねてきたということにするしかないか。
 断られたらそれまで、という気持ちで、俺はインターホンのボタンを押す。
 俺がボタンを押すと、扉横の操作盤に“こなまいきなアヒル”のホロが投影された。DAKのバディのデフォルトであるのは言ったよな。そいつが、デフォルトではあり得ない言葉遣いで、俺が何者か尋ねてきた。
「おい、何か用か? このすっとこどっこい!」
 すっとことどっこいってのは何だ? 俺が意味を掴みかねて首をひねっていると、さらにDAKが言葉を続ける。
「おい、何とか言いやがれ。耳ついてんのか? それとも喋れねぇのか、このうすらとんかち」
 しわがれたようなジジィの声で、羽を振り乱しながらアヒルがわめいている。“すっとこどっこい”とか“うすらとんかち”の意味は分からなかったが、俺は気を取り直してDAKに来意を告げる。
「あー、ここのタタラに用があるんだけど? 取次ぎをお願いできないかな」
「何? お前、名前は?」
 俺は一瞬、偽名を名乗ろうかとも思ったが、あまり嘘をついてしまうと本当のことを喋る時に信用がなくなるわけで。俺はサカタの娘は詳しいことは知らないと読んでいる。なので、できるなら味方につけたいという気持ちもある。もしも親の悪事を知らないとしたら、親に悪事を辞めさせるには娘に説得させるのが一番だと思うわけだ。それに・・・俺の名前が少し知られたぐらいでは、そんなに大勢に影響ないだろう。なので、俺は本名を名乗った。
「片瀬明」
「カタセ アキラだな。ちょっと待ってろ」
 そして、アヒルのホロは姿を消す。暫く待っていたら、またアヒルが現れた。威嚇するように羽を広げている。
「やぃ、メグミはお前なんか知らないって言ってるぞ、このおたんこなす。おとといきやがれ」
 俺はそのアヒルの剣幕に苦笑すると、
「さっき店に預けた銃について話があるって言ってくれないか」
 と穏やかにアヒルに告げる。
「そうか、ちょっと待ってろ」
 そしてまたアヒルが消える。暫く待つと、今度はアヒルは現れなかった。その代わり、扉が薄く開いて隙間から女の子が覗き込んでいる。用心でチェーン錠をしているが、これは当たり前のことで、スラムだったらこうして扉を開くこと自体が危険なことだ。俺は安心させるように微笑むと、上着を両手で開いて見せて、銃を持ってないことを示す。スペアのハンドガンは単車に突っ込んでおいたのだ。
「今朝、店の方に銃を預けたんだけど」
「え、えぇ、はい。さっき受け取りました」
 俺の言葉にメグミは頷く。緊張した響きはあるが、可愛らしい声だ。鈴を転がしたような、という比喩がぴったりな声である。
 俺は頷くと、言葉を続ける。
「銃を扱ってれば分かると思うんだけど、あの銃は、俺の命を何度も救ってくれた大事な銃でね。本当は他人の手に整備を任したくはないんだ。だけど、店頭に並んでた銃の状態が良かったんで頼む気になったんだが、やっぱり心配なんだよ。1回ちゃんと整備してくれる人にお願いしとかないとね。だから、銃の整備してるタタラの人に取り次いでもらえないかな?」
 メグミが銃の整備をしてるタタラだろうという推理を立ててはいたが、そこまで調べてるというのを知らせないためにも、他にタタラがいるとして話を振ってみる。その方が警戒もされずに済むだろう。
「あの、どうして、この家がサカタの工房だって分かったんですか?」
 警戒してるなぁ、ま、当然か。
「あの銃はホントに大事な銃でね。失くさないようにしてあるわけ。それで分かる?」
 逆に警戒心高めるかもしれないが、俺は本当のことを言う。入れてくれなければそれでいい。とりあえず顔は拝めたし、銃を受け取った後にお礼に来るって手段も残されてるし。
「・・・発信機!」
 数秒考えていたメグミが、気づいて俺の顔を見る。俺は「正解」と頷くと「グリップエンドの中に仕込んである。グリップの調整するときに、取り去らないように気をつけるように言ってくれよ」と笑顔で答える。
「あの・・・ですね?」
 メグミが、おずおずといった感じで俺の顔を見上げている。俺は首を傾けて先を促す。
「あの・・・修理しているの、私なんです」
 やっぱり。これで推理の確認が取れたわけだ。だけど、俺は「そうなの?」と驚いてみせる。いや、推測してたとはいえ、本当だったってことで、半分は本気で驚いている。こんなコがあんなにメンテできるとは。
「へぇ、そりゃすごいね、その若さでね。店に並んでた銃、新品同様っていうか、新品をチューンしてあるぐらいだったじゃない? それじゃ、任せても大丈夫だな。でも、独学で? 誰かに学んだんだろ?」
「あ、うん。あのね」
 と、メグミは話を続けようとして、それから目の前のチェーン錠に目を止めた。
「あ、あのね?」
 それからまた、おずおずといった感じで俺の顔を見上げている。軽く頬を染めて、上目遣いで。よくよく見ると、このコ、すっごい可愛いコかもしれない。扉の隙間からなんで、きちんと顔が見えないのが残念だ。室内が外より暗いからよく見えないのも。
「何?」
 今度は口に出して先を促すと、メグミは勢い込んで大声になった。
「もしっ、よかったらっ、中でお話しませんかっ?」
 それから、下を向いてしまった。ポニーテールにしてるので露になっている耳が真っ赤になっている。俺は内心でガッツポーズを取りつつ、「んー、まぁ、夜まで暇あるし」と素っ気無くなるように頷く。目当てだったと思われたくなかったのもあるけど、何だろう。単純に喜んではいけないような気がしたのだ。調査相手の娘であることを忘れちゃいけない、と。
 俺は単車をガレージに入れさせてもらうと、チェーン錠の開いたドアから中に通される。先導するメグミの後ろを歩きながら、ざっと間取りを確認する。玄関から廊下が続く。廊下には2階へ上がる階段。外から見た限り、この家は2階建て。地下への階段はないようだ。おそらくトイレのドアと洗面、風呂へのドアがあって、廊下の突き当たりのドアの向こうは居間。居間はかなりの広さだ。「ここに座ってください」とソファを示された俺は、座りながら室内を観察する。カウンターがあってその奥はキッチンだな。他に奥への扉が一つ。外から見た家の大きさから思うに、扉の先には大き目の部屋が1つか、小さめの部屋2つってとこか。
 2階の間取りは分からないが、外から眺めた感じではベランダがあって南向きに部屋が2つ。もしかしたらもう1つ部屋があるかないか、ってとこかな。
 とりあえず間取りを頭に入れると、キッチンでカチャカチャと何か用意しているメグミの後姿に目をやる。
 身長は150cmってとこ。ストレートの艶やかな黒髪をポニーテールにまとめていて、覗くうなじや顔は色白。作業着を着ているのはタタラならではってとこか。俺が見つめていると、お盆にティーセットとお菓子を乗せて戻ってきた。
 明るい場所で見ると、このコはかなり可愛いコだった。着飾ってWEBで活躍しているカブキなんかに負けないぐらいだ。化粧っ気は全くない――つまりはスッピンなのだが、とにかく可愛らしいという印象を与えるコである。
 髪型はポニーテールで、前髪は軽く垂らしている。前髪から覗くおでこから頭頂部にかけてのラインが丸っこくて、つい撫でたくなるような感じ。眉は理知的な感じで、すっきりと細長くのびている。この眉だけがちょっと大人っぽい感じかな。目はくりっと丸く大きめ。瞳の色は茶色で、とても表情のある目をしている。鼻は小さいけど、それなりにきちんと高さもあって、唇は薄めで口も小さめ。だけど、喋ると途端に大きくて、笑うと顔を占領しそうな雰囲気だ。
 しげしげと俺が見つめていると、メグミは首を傾げて訊ねてくる。
「あ、紅茶でよかったですか? コーヒーもあるけど」
「お構いなく。俺は口に入るものなら、何でも平気。スラム暮らし長いんでね」
 これは本当のこと。俺の言葉に、メグミは良かったというように笑う。予想した通り、にっこりとした口が顔の下半分を占めるような勢いだ。いや、小顔なんだな。だから、パーツは小さくても大きく見えるのかもしれない。俺が見とれていると、メグミは持ってきたティーセットを机に並べ始める。
「私もね、スラム育ちなんですよ。だから、こういう美味しい紅茶とか飲めるようになったの、結構最近なんです。コーヒーは飲めなくはないけど、苦いから苦手なんです」
 そして、「どうぞ」と俺に紅茶を淹れてくれる。
 俺は張り込んでいる所長とチャーリーに悪い気がしたが、有難く紅茶を頂くことにした。実を言うと、俺は結構紅茶にはうるさい。まぁ、飲めれば別にいいってのも嘘じゃないんだが、母さんが生きている頃は毎日3時にお茶の時間というのがあった。母さんは紅茶好きで、それで俺も幼少の頃に本当に美味い紅茶というのを覚えてしまったのだ。スラムでは紅茶なんてしゃれた飲み物は滅多に口にできるものじゃなかったから、紅茶らしき飲み物で我慢していたのも事実。
 俺はティーカップを手に取ると、口に運ぶ。香りもいい。淹れ方も悪くない。渋みが出ないがしっかりと味の出る淹れ方ってやつだ。
「うん、美味いな」
 俺が飲むところをじっと見つめていたメグミは、俺の言葉に嬉しそうに笑う。その表情がとてもまぶしく見えて、俺は少しどきっとした。
 恵は自分でもティーカップを手に取ると、ふーふー冷ましてから口に運ぶ。それから、美味しいって顔を作ると、
「良かった。美味しく淹れれて。この紅茶、美味しいんだけど、一人でお茶するのって淋しいから、最近あまり飲んでなくって。実は美味しく淹れれるか、ちょっと心配だったの」
 メグミは舌を出して笑って見せると、それから思い出したように、
「あ、そういえば、自己紹介もまだだったわよね。私、サカタメグミです。15歳」
 ああ、そうか、俺は情報として知ってたから、つい気がつかなかった。あれ? 15歳? 確かブラックハウンドの情報では14歳ってなってたんだが・・・俺は苦笑すると、データを検索して年齢を15歳に修正しておいた。
「俺は片瀬明。18歳だから、3つ上だな」
「カタセ アキラさん、ね。あ、あの、アキラってのはどういう字を書くの? あ、あたしのメグミって字はね、恩恵の恵って字よ」
「明るいって字。俺自身はそんなに明るいヤツでもないんだけどな」
 笑って言う俺の言葉に、恵は真剣な顔で首を振ると、
「全然、そんなことないですよ! だって、すごく話しやすいし、それに、スラムの人なのに全然怖くないし、笑った顔、すごく優しいですっ」
 勢いこんでそんなことを言う。言われた俺の方がすごく照れるような言葉だ。何と言えばいいか分からなくて、困って苦笑していたら、そんな俺の姿に気づいたのか、恵は急に不安そうな顔になると、心配そうな目で俺のことを見る。
「あ、あの・・・私、何か気に触ること言いました?」
 さっきまでの元気で明るい雰囲気が急に曇ったことに、なぜか俺はすごく辛い気分になる。俺は慌てて手を振る。
「いやいや、思ったよりよく喋るなってビックリしただけ」
「おしゃべりなコは、嫌い、ですか?」
 恵は不安げに俺のことを見上げている。俺は安心させるように微笑むと、「いいや、どっちかっていうと、好きな方かな」と、安心させてあげる。
 これはまあ、本音でもあるわけだが。俺はこっちの気分も浮き上がらせてくれるような、そういう明るい子が好きだ。そして、明るい子っていうのは、大抵おしゃべりな子が多いわけで。妹の龍子なんかがそのタイプ。あいつの明るさに励まされたことも数え切れないほどある。龍子と会わせたら面白いかもしれないな、すぐに意気投合しそうな気がする。
 そういや師匠も、落ち着いた人ではあったけど、話し始めると――特に酒が入ると饒舌で、にこにこと笑いながら色々と話をしたっけ。
 俺の言葉に、文字通り恵は顔を輝かせると、「良かった」と笑う。
「嫌われたらどうしよう、って思っちゃった。私、同じ年代の知り合いが一人もいないの。友達も。だから、私、いつもここに一人でいるのよ。最近はパパもママもあまり帰ってきてくれないし。WEBがあるから、話し相手とかはいないわけじゃないけど。でも、やっぱり、生身で顔をあわせておしゃべりしたいもの」
 言い終わると、淋しげな笑みを浮かべる。
 俺にはこの淋しさはよく分かる。孤独感だ。こんな広い家に一人でいるのは、とても淋しいことだろう。イントロンしてWEBで会話をしたとしても、気分は紛れるとしても、孤独感が癒えるものではない。WEBってのは秘匿性が強いから。相手は――自分もだが――仮面をかぶっているのが当たり前なのだ。
 俺は実家にいた最後の数年は、家族から隔離されて、家庭教師と暮らす日々が続いた。姉や妹に会えたのは、食事の時と、1日に1時間ほどの休憩時間の時だけだった。それでも、その時間があったから、俺を理解してくれている姉妹と会うことができたから、少しは耐えることができたのだ。あの牢獄に、もしも一人でいたのだとしたら・・・それは、想像したくもないことだ。きっと、もっと早く耐えられずに家を出たことだろう。
 ましてや、恵は女の子である。15歳だから、俺が家出したときと大して歳は変わらない。俺は14で家出したから。この広い家で独りで暮らし、淋しさを紛らわせるのがWEBしかないとしたら・・・俺のような男が相手でも、訊ねてきたら嬉しくて、話がしたくて家に上げてしまうのも分からないことではない。
「うん、分かるよ、それ。俺も同年代の友達って少ないしな。スラムで暮らすと、どうしてもそうなるよな」
 俺の同年代の友達といえば、相棒でもあるチャーリーと、後はサイゾウぐらいしかいないわけで。俺が友達少ないのは、幼少時代に同年代の友達を作れなかったのが大きな原因だが、その後もスラムで暮らしていたっていうのが大きい。スラムは本当に危険が多い。子供たちだけでグループを作ったりして徒党組めば別だが、たとえば俺みたいに師匠について大人に混ざって暮らしていたり、恵みたいに親の元で暮らしていたとすれば、同年代の友達を作るなんてのは基本的にはあり得ないことだ。道端で子供が無邪気に遊ぶなんて光景とは無縁の場所なのだ。
「それじゃあ!」
 恵は身を乗り出すと、
「あの、ですね? 私、明さんの友達になりますっ」
 また、唐突だな、この子は。俺が面食らった顔をしていると、もじもじして俺を上目遣いで見上げてくる。
「あの、明さんは、私の初めての友達になるの・・・嫌ですか?」
 とんでもない、大歓迎。俺はなるべく優しい笑顔になるように努力する。
「最初の友達か、光栄だね。じゃあ、恵・・・ちゃんは、俺の最初の女友達だな」
 調査対象の娘、って言葉が脳裏をよぎるが、俺はそれを意識の外に追い払った。こんな可愛くて、それで淋しさに震えているような女の子を見捨てるようじゃ、男が廃るってものだ。
 それに、俺も女友達はほしいしね。俺も18にもなるっていうのに、今までの人生で女友達という存在は皆無だった。師匠は、師匠であり、母の様でも、姉の様でも、恋人の様でもあった人だけれど、それでも友達という関係ではなかった。師匠の仲間たちも、あくまでも師匠の仲間であって、俺のことを目にかけてくれたけど、それでも友達ではなかった。
「嬉しいっ」
 顔を輝かせて恵・・・ちゃんが喜ぶ。あー、何だ、恵ちゃんって呼び方は恥ずかしいが、友達ならいきなり呼び捨てるのも変だしなぁ、うん。
「それに、その・・・恵ちゃんって呼んでくれるのも嬉しいです」
 にこにこと嬉しそうに笑う恵ちゃんを見ていると、何だか、非常に照れる。この子は結構恥ずかしくなるようなことを臆面もなく言えちゃう子なのかもしれないなぁ。それだけ素直な子なのかもしれない。
 俺は、この子の父親が家に帰ってこない気がしれない。そして同時に、帰ってこないのではなく、帰ってこれないのかもしれないと思った。サカタの父親は、この子の素直な純真さの前に姿を出せないのではないか。自分の後ろめたさというか、汚れた部分が恵ちゃんのこの素直さの前で、非常に辛いのではないか。
 俺は、恵ちゃんの父親の悪事を調べているという事実に――そして、その調査が第一目的でここに訪れたことに、罪悪感を感じている。本当に修理を頼んだだけなら良かったのに、と。
 そして、この子は本当に父親のやっていることは何も知りはしないのだと、理解した。こんな子がスラムで育ってきたということは奇跡のような気がする。でも、それは多分、サカタの両親がそれだけこの子を可愛がって育てたことの証明なのだ。だから、悪事を働いているとしても、それはしょうがなくやっていることなのかもしれない。
 だとしたら、まだ取り返しはつくかもしれない。悪事から手を洗わせて、恵ちゃんに両親と暮らす生活を取り戻させてあげることが、できるかもしれない。
 そのためにも、恵ちゃんからそれとなく聞けることは聞かなくちゃならないんだけど・・・
「明さん、甘いものは嫌いですか?」
 小首を傾げて聞いてくる恵ちゃんを見て、俺のそんな思いはふっとんだ。とりあえずは、友達として振舞うことにしよう。うん、まずはそれから。
 俺は、「嫌いじゃないよ」と答えると、「それじゃあ」といって差し出されたクッキーを受け取って口に放る。甘さ控えめのチョコクッキーだった。
「このクッキー、美味しいでしょ? 私、大好きなんです。WEBで取り寄せてるんですよ」
 それから、恵ちゃんは自分でもクッキーを手に取ると、「るん♪」という感じにクッキーを食べる。サクサクっという音が心地よい。
「うん、美味いね」
 俺の言葉に、恵ちゃんも「でしょう?」と微笑んで答える。うん、最近にはなかった時間だな、これは。
 俺はそれからの数時間、恵ちゃんとのお茶の時間を楽しんだ。ほとんど恵ちゃんのお喋りを聞いてる時間だったけど。でも、楽しい時間だ。
 恵ちゃんの仕事場も見せてもらった。居間の奥には仕事場があって、そこで恵ちゃんはタタラとしての仕事をしているのだ。綺麗に片付けられた部屋には大きな作業机があって、そこに色々な道具と、修理中の家電とか銃が置いてあった。その中には、俺のマグナムも置いてあった。俺の銃はすでにばらされていた。
「ああ、俺の銃も整備してくれてるんだ?」
 俺の言葉に、恵ちゃんは頷く。
「うん。急ぎの仕事だって聞いたから。でも、明さん、本当にこの銃、大事にしてるのね」
「まあね。この銃は俺にとってかけがえのない相棒だから。この銃に何度命を助けられたか分からない。だからいつも、心をこめて整備してる。だけど、俺は整備のプロじゃないからね。どうしても細部の調整はできなくてさ」
「ほとんど、私の整備なんて必要ないぐらいですよ。でも、若干、銃身が疲れてきてますね。少し左にずれちゃいません?」
「正解。さすがだね。ちょっと見ただけで分かっちゃうんだ」
 俺が感心すると、恵ちゃんは照れたように笑う。
「でも、銃身はデリケートですからね、ホントはあまりいじりたくないんです。この銃、元のつくりも凄くいいですから。もちろん、やるからにはきちんと最善尽くしてやりますよ? だって、明さん、危ない仕事・・・してるんでしょ?」
「まあ、ね。カブトをやってる」
 俺が頷くと、恵ちゃんは真剣な顔をする。
「だから、私、責任重大なんですよね。いつも、銃の整備するとき思うんです。私の調整がイマイチで、それが元で銃を使ってくれた人が危ない目に遭うなんて嫌ですもん。それに、今回は友達が使う銃だし。私のせいで明さんに何かあったら後悔するぐらいじゃすまないです。ホントに、責任重大」
 それから、恵ちゃんは、真剣な目で俺のことを見る。
「でも、気後れしてるとか、不安に思ってるわけじゃないですから。私、こう見えて、銃を扱うようになってから長いんです。最初に銃を組んでから、もう7年ぐらいになるのかなぁ」
 それから、懐かしいなぁって顔をする。
「最初は、すっごい怒られたんですよ。それはそうですよね、見よう見まねで8歳の女の子が銃を組んでるんですから。何かあったら大変ですもんね。でも、おじいちゃんは、物凄く怒ったけど、その後、怪我がなくて良かったって抱きしめてくれて、それから、そんなに興味があるなら、って色々教えてくれたんです。ちゃんと、事故が起きないで銃とか扱えるように」
「おじいちゃん?」
 俺の反問に、恵ちゃんは笑って頷く。
「うん、おじいちゃん。といっても、血はつながってないんだけど。パパが雇って、一緒に暮らしてたタタラのおじいちゃんなの。凄く腕のいい人だったんです。そうそう。明さん、うちのDAKのあひるの言葉、どう思いました?」
 俺は扉の前でのやりとりを思い出す。
「なんていうか、気風がいいっていうか、知らない単語が多かったけど、威勢がいいよな」
「あれ、おじいちゃんの口調をサンプリングしたんです。私も全部覚えてるわけじゃなかったから、思い出しながらだったですけど。どういう意味か詳しくは分からないんだけど、けなされてるみたいでもあんまり落ち込まないっていうか。おじいちゃんが怒ったりするときも、あんな感じだったんですよ」
 恵ちゃんは楽しそうに話していたが、急に泣きそうな、辛いことを思い出した顔になる。
「どうしたんだい?」
 心配した俺の声に、恵ちゃんは「あ、ごめんなさい」と首を振ると、無理に笑ってみせる。
「なんでもないんです、ちょっと辛いこと思い出しちゃっただけで」
「辛いこと? それって、そのおじいさんが、今ここにいないことと関係あるのかな?」
 なんとなく、何があったかは察しているのだが、俺はあえて聞いた。過去の事実関係を知りたいというのももちろんだが、多分、このコは吐き出した方がいいのだ、色々と。発散した方が楽になるということはいくらでもある。家族には言えないことでも、他人になら言えることもあるだろう。
「何があったか、話してごらん? その方が楽になることもあると思うよ」
 俺の言葉に恵ちゃんの心のタガが外れたのだろうか、みるみるうちに目に涙をためると、俺にしがみついて泣き始めた。俺は優しく肩を抱いてやると、居間に戻ってソファに座らせた。隣に座って、頭を撫でてやる。しばらくそうしていると、落ち着いたのだろうか、恵ちゃんは涙を拭うと顔をあげた。
「ありがとう、明さん。うん、話した方が、聞いてもらった方が楽になるのかもしれない。あのね、おじいちゃん、殺されちゃったんです」
 ああ、やっぱり。俺の予想は間違っていなかったわけだ。俺は頷いて、先を促す。
「スラムにいる頃なんですけど、もう1年ぐらい前になるのかな。私が工房で作業してたら、外で銃声が聞こえたんです。スラムだからそんなに珍しいことじゃないですけど、それでもいつもよりも凄い近くで聞こえたから。それでビックリして外の様子を窺っていたら、車が走り去るような音がして。おそるおそる外に出てみたら、うちの前におじいちゃんが倒れてたんです」
 そして、その時の光景を思い浮かべたのか、恵ちゃんはまた目に涙をためる。
 俺はスラムで2年ほど生活していた。そして、それはただ普通に暮らしていたのではなく、カブトとして仕事をこなしていた師匠のもとで色々と学びながら手伝いをしていた生活だった。師匠はカブトではあったけど、師匠の仲間たちは護衛だけではなく、色々な厄介ごとを解決するために働いていた人たちだった。そう、師匠が依頼人を守っている間に、依頼人が命を狙われる元を断つのである。俺はそういった事件について、解決した後にどういうことだったのかを聞いたりもしていたわけで。
 だから、そのタタラの老人の殺害こそ、今のこのサカタにまつわる事件の発端ではなかったのかと疑っている。
「強盗だったのかい?」
 俺は、自分の疑問を恵ちゃんに訊ねてみる。おそらくは、強盗ではないはずだ。狙いは、サカタを追い込み、自分たちの手駒として活用するための第一歩。そうにらんでいる。
 俺の問いに、恵ちゃんは首を横に振る。
「ううん、違うと思う。だって、おじいちゃんは見るからにお金を持っているような人じゃなかったし。それに、何も盗られてなかったもの。スラムでのことだから、ブラックハウンドの人もあまりちゃんと捜査してくれなかったけど。恨みを買うような人でもなったのよ? ただ、パパは、心当たりがないわけではないって言ってた。私には詳しくは話してくれなかったけど」
「ああ、おじいちゃんは、ほとんど給料をもらってなかったんじゃない? 一緒に住み込みで働ければそれでいいって言ってなかった?」
「うん。そんなようなことは言ってた。パパがお給料を上げようかって言うと、いつもね、老い先短い人間にはそんなに金はいらないって。美味しいご飯を食べさせてもらって、寝るところがあればそれで十分だって。でも、どうして分かったの?」
 恵ちゃんの言葉に俺はうなずく。でも、それは表面的な見方だ。裏にはそれを利用した狙いがあるはずで。でも、それは恵ちゃんは知らないでいいことだ。だから、俺は表面的な部分だけを恵ちゃんに説明した。
「お父さんのお店はね、値段が安いんだよ。それは多分、おじいさんが相応の賃金を受け取らなかったから、その分安くできたんだと思う。だけど、それは他の店からすると、妬みの対象になる。俺たちのようなスラムの人間は、そんなに金持ってないから、同じぐらいの商品なら、当然安い方を選ぶからね」
「それじゃあ、同じような商売の人に狙われたの?」
「まあ、詳しくは分からないけど、多分そうじゃないかな」
「そんなのって、ヒドい! だって、だからって殺せばいい、だなんて。おじいちゃん、ほんとにいい人だったのに・・・」
「残念だけど、それがストリートだからね。だからこそ、俺のような仕事が成り立つわけでさ」
 そして、俺は憤慨している恵ちゃんの頭をくしゃっと撫でる。俺の想像していることが正しければ、ことはそんなに簡単なことではないのだが、これはあくまでも俺の考えでしかない。推理は所長の仕事だから、後のことは所長に任せることにしよう。
 ただ、俺の推理もあながち的外れではないと思う。それは、師匠の下で修行しながらストリートで裏稼業――師匠は仲間たちと『守護天使』という名前でトラブルシューターの仕事をしていた――に触れていた経験からでもあるからだ。確かにストリートでは人間の命なんてゴミみたいなものだが、だからといってそんな簡単に殺すこともない。殺すぐらいだったら攫って自分たちのために働かせるぐらいはやる。まぁ、今は長々と考える時間じゃない。
 俺は、曇ってしまった恵ちゃんの顔を眺めると、ティーカップを空にして掲げてみせる。
「美味しいから、もう空になっちゃったよ。おかわり、くれるだろ?」
 辛い話は、もういいだろう。差し出した俺のカップを受け取ると、恵ちゃんはにっこり笑ってポットにお湯を注ぐのだった。

 それからまた暫くの間、二人で他愛のないことを喋っていた。お互いの小さい頃の話やスラムでの苦労話とかなんだが、スラムもエリアが違うと結構文化が違うし、俺と恵ちゃんは結構趣味というか価値観が近くて、話をするのは楽しかった。
 しかし、まあ、楽しい時間はすぐ過ぎていくもので。俺は視野の隅に表示されている現在時刻が18時を示しているのを確認すると、そろそろ帰らねばならないことを思い出した。今夜はサイゾウと会う約束をしているのだ。
「さて、俺はそろそろ帰らないと。あんまり恵ちゃんの仕事の邪魔をするのも悪いし、今夜は友達と会う約束があってね」
 そして席を立とうとすると、恵ちゃんは心底悲しい顔になった。親に捨てられた子供みたいな顔だ。
「もぅ、帰っちゃうの?」
 みるみるうちに瞳が涙で潤んできた。あー、目の淵に涙が溜まって・・・零れ落ちた。
 まずい、このコ、独りにしておけない・・・
 俺は浮かしかけた腰を再びソファに落ち着ける。
「あーうん、それじゃあ、もう少しいようかな。でも、友達と約束してるから・・・そうだな、7時半には帰るから」
 とりあえず、すぐに俺が帰るわけではないと知って、恵ちゃんは涙を拭うと笑顔になった。
「それじゃあ、もういっぱい、おかわりしてくださいね?」
 そして、嬉々として紅茶を淹れる恵ちゃんを見て、俺は何となく深いトコまで入り込んだことを悟った。友達とはそういうものなのかもしれないが、俺はもう、このコを見捨てることは絶対にできないに違いない。
 1時間半たって、実際に帰らなければならなくなった時のことを考えると、俺もまた切ない気持ちになるが、別に二度と会えなくなるわけではない。だから、楽しく時間を過ごさなければ損、だよな。
 それから、俺は色々と心配になって、今の恵ちゃんの生活について聞くことにした。確かにタタラ街はスラムなんかに比べれば治安は格段に良いとはいえ、15歳の女の子が独りで過ごすには向いていない場所だ。師匠みたいに腕っ節があれば別だが、恵ちゃんは普通の――タタラとしては一流だけど――女の子だ。たとえば暴漢に押し入られたら、一たまりもないだろう。
 普通、これぐらいのタタラの工房に女の子が独りでいるとは思わないから、物盗りなんかが来ることはないだろう。ただ――もしもこの状況が知られたら、そういうわけにはいかない。だからこそ、恵ちゃんの父親は店で俺がタタラに会わせてくれと頼んだとき、必死になった拒んだのだろう。あれは自分の身を顧みない覚悟の篭った眼だった。
「恵ちゃん、普段、ここに一人って言ってたよね? 本当に両親は全然帰ってこないのか?」
 俺の確認に、恵ちゃんは頷く。
「そっか・・・それ、心配だな。俺でも心配に思うんだ、両親はもっと心配してるだろうな」
 俺の言葉に、恵ちゃんは「どうかしら」と首を傾げる。
「だって、たまには帰ってきてって頼んでも、全然帰ってきてくれないのよ? ママはお昼にご飯つくりにきてくれるけど、パパの顔はここ何ヶ月見てない気がする。私が仕事さえしてれば、それできっといいんだと思う。パパはいい暮らしをするためだって言うけど・・・私、こんな大きい家に独りでいるぐらいなら、スラムでもいいから家族3人で暮らしたい」
「そうだな。でも、お父さんが心配してないってのは違うと思うぞ? 俺、最初はタタラに会わせてくれってお父さんに頼んだんだ、お店でね。だけど、断られたんだよ。ちょっとすごんでみたりしたんだけど、絶対に引かなかった。あれは、お父さんが恵ちゃんのこと心配してるからだよ。裏技使って会いにきちゃったけど、だから、お父さんには俺がここに来たこと、内緒だな。すごく心配するだろうし」
「そうなの?」
 恵ちゃんは、少し顔を輝かせる。
「でも、だったら、それこそ家族で暮らしたいなぁ・・・」
「まあ、スラムで暮らすってのは賛成できないけど、確かに家族で過ごした方がいいとは思うけどな。恵ちゃんをここで独りにしておくのは心配だ。悪いヤツが侵入してきたらまずいだろ」
「パパがいても変わらないと思うけど。だって、銃を撃ったことだってないのよ」
 くすくすと恵ちゃんは笑う。それでも、本気で心配している俺の目に気づいたのか、「一応ね」と仕事場を指し示す。
「あっちの部屋の床下にね、隠れられる場所があるの。内側から鍵をすれば外からは開けられないの。パニックルームっていうんだって。パパがこの家を建てるときに作らせたんだけど。だから、ブラックハウンドとSSSに通報して隠れることはできるのよね」
 なるほどね。父親も一応考えてはいるわけだ。ただ、ブラックハウンドがタタラ街までそんな簡単に出張ってくるとは思えないし、SSS――N◎VAで最大手のセキュリティ会社だ――は、使えるのが一部ってのも事実。スラムではSSSってのは“数は多いが使えない”なんて意味を表すスラングだったりもする。
「それじゃあ」
 俺は居間のDAKの端末に歩み寄ると、メモ帳ソフトを立ち上げて、自宅とポケットロンのアドレスを打ち込む。
「俺の番号も教えとく。何かあったら連絡しろよな。ただ、仕事中だと出れないこともあるから、その時はすまないけど」
 それから、俺は「ああ」と思い出した振りをして付け足す。
「別に特別な用事なくても、かけてきてくれていいから。俺も暇だったら、いくらでも付き合うよ」
 俺の言葉に、恵ちゃんは心底嬉しそうな顔をして頷く。
「だから、俺はもう時間だから帰るけど、淋しがらずにいてくれよ? 銃の整備は頼んだぜ」
 俺の言葉に、恵ちゃんはコクンと頷く。
「うん、次に会えるの楽しみにして待ってる。銃の整備もきちんとやる」
 また独りの夜を過ごすことが淋しいのだろう。でも、神妙にしてその淋しさに耐えている恵ちゃんがいじらしくて、俺は恵ちゃんの髪をくしゃっと撫でる。
「ほらほら、笑えって。恵ちゃんは笑ってる方が可愛いんだから。俺だって次に会うの楽しみにしてるからさ」
 なーんか、すっげぇ気障っていうかクサくないか、今の俺・・・でも、不思議と照れくさくも恥ずかしくもない。普通にこんな言葉が口をつくのだ。恵ちゃんは俺のことを見上げると、微笑んでみせる。
「よしよし、笑えるなら大丈夫だな。じゃあ、連絡しろよな? 俺も暇ができたら連絡して会いにくるからさ」
 そして俺は、かなり後ろ髪をひかれるものの、恵ちゃんの家を後にした。
 これからサイゾウに会わなくちゃならない。そして。
 恵ちゃんに家族団らんを返してあげなくては。俺にはもうないものだから、だからこそ、恵ちゃんには俺と同じような思いはさせたくない。あんなコを育てた親なのだ。悪い人間では絶対にないはずだ。
 俺は、単純に仕事だからというよりも、もっと深い使命感を胸に抱いた。公私混同だけど。でも、それでもいいんじゃないか。

 師匠が亡くなる前に、俺もそろそろ一人立ちしなくてはという時に話してくれた言葉が、師匠の真剣な瞳とともに脳裏に浮かぶ。
「明、依頼人を守る時は、本当に親身にならなくちゃダメよ。もちろん、ビジネスではあるんだけど。だけど、それだけじゃ護りきれない時があるから。私は、明に出会って、そのことが分かったわ。明にも、そういう人ができるといいんだけど」
 その時は何となくしか分からなかったけど、今なら師匠の気持ちが分かるような気がする。
 恵ちゃんのことを、護ってあげたい。


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