小金井くん、まんだらけに行く



 小金井くんは28才で独身である。
 ちなみにサラリーマンだが、同僚の女性社員にはあまり評判が良く無い。
 さえない小金井くんは、自分があまりモテないのは、自分に魅力がないせいなのかと、最近ちょっと思う。
 でも、そんなはずがないさ、とすぐに思えてしまうところが、小金井くんの質の悪いところである。
 ある休日、小金井くんは、昨年の冬コミで買い集めたエロ同人誌を売る為に、渋谷のまんだらけに向かっていた(そうして得た小銭で、小金井くんは古本エロ同人誌を買い集めるのだ)小金井くんは、今日もいつもとかわらぬ日々を過ごし、大量のエロ同人誌を仕入れてお家に帰るつもりだったのだ。
 それなのに、フと気が付くと小金井くんは、高度10000mの高空を飛ぶフランス傭兵部隊(ピジョン)所属の兵員輸送機の中で、本物の小銃を胸に押し付けられ、言葉も通じぬ若い兵隊に無理矢理、降下用落下傘を押し付けられている。
 小金井くんはつぶやいた。
「・・・・僕はまんだらけに行きたかっただけなのに・・・・・・・・」

 ある休日、小金井くんは、生まれて初めて大空に舞った。
 ある休日、渋谷の街で同僚と待ち合わせをしていた、小金井くんの同僚、高畑さゆり嬢(23・OL)は109の前で、上空を飛ぶ航空機の音を聞き、舞い降りる小太りの兵士を見た。
 のちに彼女が証言するところによると、その姿は「舞う」というより、若手リアクション芸人に対する罰ゲームのようであったという。


「ちっ...あのヘボ助教授め、たいした研究もしてないくせにレポートばっかり書かせやがる。」
 その日、山号寺タカシ(24・学生)は渋谷の街を道玄坂方面へ歩いていた、右肩にはギターケース、左手にはエフェクター等の入ったアタッシュを下げている。
 のろのろと歩きながら胸のポケットから煙草の箱を取り出す。箱の中には飲み屋でもらったライターと煙草が数本入っている。そのライターには「シャトル」と書いてあった。
 煙草を取り出し、立ち止まらずに煙草に火をつける。風が気になるが、なんとか火をつけると、思いきり吸い込み、ゆっくりと長く吐き出す。
 体にニコチンが吸収されると、意識がはっきりし、くだらない思考ルーチンを繰り返していた脳細胞が別のルーチンワークに流れ出す。
「あの曲にはディストーション使ってみるかな...」
 思わず独り言がこぼれる。
 その日はタカシが組んでるバンドの練習があったのだ。

 と、そのとき目の前に何かが落ちてきて、そして数メートル先の路上にぶつかる。
 メシャッ、とも、グシャッともつかない奇妙な音。
 何か濡れたものを叩きつけるような、そんな音。
 足下を見る、黒の編み上げのブーツに赤い斑点がいくつか...
 そして数メートル先にはボロクズの様な”何かわけのわからないもの”を中心に広がる赤黒い大きな花...
「アートだ!」
 タカシは思わず叫んでいた。

 小金井洋平が初めて飛んだ日。
 そして小金井洋平が生まれて初めて死んだその日。
 山号寺タカシは生まれて初めて心の底から感動し、涙した。
 さらに付け加えるならば、その日はとても良く晴れ、2月にしてはポカポカと暖かい日だったという。


 その男はお好み焼きの匂いがした。
 火浦功の表現を借りるとそういうことになる。
 しかし、これは比喩的表現ではない。単に、お好み焼き臭いだけである。
 もっとも、彼はお好み焼きを食べてきたわけでも、店の店員でもない。
 彼は私立探偵なのである。 そして、今は「仕事」でお好み焼き屋の店員を調査中なのである。
 彼は目立たない路地裏に立っていたが、そこは通風孔の下であり、とにかくお好み焼き臭い。
 おかげで、いっちょうらのコートはすっかりお好み焼き臭くなってしまった。
「必要経費にクリーニング代をいれよう」
 と、心に誓ったりもしている。
 彼、高梨賢治が調査しているのは、「山号寺タカシ」。

 学生、24歳、バンドマン。
 お好み焼き屋のバイト。

 依頼人であるところの彼の彼女は、最近彼がおかしくなったという。
 何でも、死体本とか猟奇殺人の本や、手術の本にこりだしたという。
 どれもぐろいスプラッタものだ。
 それを調査するのが、今回の彼の「仕事」というわけだった。
「・・・・それにしても、代わり映えのない毎日だぜ。」
 高梨は、路地裏に漂うお好み焼きの臭いにむせながら、一人呟いた。
 彼が呟いた「代わり映えのない日常」とは、彼自身の過ごす日々のことでは決してない。
 高梨は私立探偵である、いくら日本の私立探偵の概念が「浮気調査」であったとしても、街を行き交う顔の無い会社人間に比べれば、その日常は多分な刺激に満ちていると言えるだろう。
 まして高梨は、自分の仕事に誇りを持っている、近年極希少価値の高い「私立探偵」であった。
 今回のターゲットが、渋谷駅前のスクランブル交差点を渡り、高梨の潜む裏道を通り過ぎていった。こちらに気付くでもなく、立ち止まり、煙草に火を付け、また歩き出す。
「また、定例のバンド練習ってわけか。」
 高梨はそう呟くと、通風口の下を離れ、ソース臭い空気に別れを告げた。
「・・・職業病かな、独り言ってやつは。」
 苦笑しながら、また無意識に一人呟いている。
 口煩いあの女の事ことが、高梨の頭をフとよぎる。彼の相棒は今頃、先日のクライアントとの報酬交渉に嬉々として取り組んでいるはずだ。金に五月蝿い相棒を持つと、その片割れまで貧乏性が身に染みこんでしまうようだ。
 かわらぬ日常。
 「山号寺タカシ調査」のクライアントが、高梨には少し滑稽に思える。
 浪人して大学に入り、その後はバイトとサークルにどっぷり没頭。たまに講座に顔を出したかと思えば、助教授にレポートを突き返され、その足でバンドの練習へ。
「スプラッタ趣味ねぇ。いいんじゃないの、個性があって結構。」
 ターゲットの後ろ10mに張り付いた高梨は、呟きながら、ふと空を見上げた。
 彼、高梨賢治は見た。
 抜けるように青い2月の渋谷の空と、空満面に無数に咲き誇る白い花を。
「ロケか・・・・・映画の・・・ん?」
 そう呟いた時、高梨は奇妙な音を聞いた。激しく、何かが潰れたような音。
 空を見上げながら、煙草に火をつけ、思い出したかのように視線をターゲットに移す。
 一瞬、高梨にはなんにも理解できなかった。
 彼のターゲットが、泣いている。泣きじゃくっている。まるで赤子のように。
 その体を、地面にまき散らされた肉片にまみれさせながら、哭いているのだ。

・・・・・・・・・・・ダダダダダッ!・ダダダッ!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 どこからか激しい銃声が聞こえ、高梨が山号寺の体を回転寿司屋の看板の裏に引きずり込んだのは、それから約十数秒後のことであった。


 フラッド・キニスン大佐(38・軍人)は不機嫌だった。
 決して乗り心地がいいとは言えない輸送機のシートに座り、眉間に皺を寄せている。
「なんだって、こんな極東の島国にまで来て、黄色いブタを突き落とさなきゃならないんだ...」
 彼はフランス傭兵部隊(ピジョン)に所属している叩き上げの大佐である。
 そして今回のミッションの実行部隊の責任者であった。
「被験者はいぜん降下中、パラを開くそぶりはありません。」
 オペレータの報告を聞きながら彼は思う。
「被験者か...なにがなんだかさっぱりわからない...理解不能だ...」
 今までフラッドは幾多の戦場を駆け巡り、数々の栄誉をになってきた。
 それが今回のミッションでは、適当な人間を拉致し、輸送機の中からたたき出す、そんな役回りだった。しかも繁華街のど真ん中に落下させるのだ。
 このミッションが何のために行われ、このミッションによって何がもたらされるか、一切明かされてはいない。
 今までも内容が明かされていないミッションは多くあった、だが、今回ほど彼の理解を超えたミッションはなかった。
「このミッションになんの意味があるというのだ...」
「被験者はそのまま地上に激突したと思われます、死亡しました。」
 オペレータは他人の死に関して無感情だ。
「地上部隊に連絡、速やかに遺体を回収しろ。日本の警察が動き出す前にな。本機はこれより帰投する。」
 ひとつ深呼吸をすると彼は胸に手を当てる。現在彼は禁煙中だった、そこを探っても煙草があるはずはない。
 苦笑いを浮かべつつ、オペレータに向かって言う。
「地上部隊の指揮官はクヌギ少佐か...任せておいても大丈夫だろう、ところで煙草を持っていないか?」
 なにも考えたくない時は煙草を吸うのが一番だ...彼はそう思う。


「何よ、その臭い!!ちょっと、入ってこないでってば!!」
 高梨が山号寺を連れて自分の事務所の扉を開けると、罵声が飛んできた。
 これ以上はないっていうぐらい色っぽい女が鼻をつまんでこっちを睨んでいる。
 彼女の名は「新井夕美」。高梨の相棒であり、有能美人秘書である。
 彼女は怒っているその顔ですら、”むしゃぶりつきたくなる様な”色っぽさをもっていた。
「あいにくと、銭湯は3時からなんでね」
 高梨は肩を竦めてつぶやくと、事務所に足を踏み入れた。
「ちょっと入ってこないでってば。それなら、3時までその辺で時間つぶしてきなさいよ」
「おいおい、ここは”俺の”事務所だぜ?臭かろうとなんだろうと、ここに俺がいるのは俺の勝手だろ?」
 高梨は軽口を叩いたが、次の一瞬、綺麗な回れ右を披露した。
 彼が山号寺を押しやりながら部屋を出るのと、閉じられた扉に灰皿がぶつかるのとがほぼ同時だった。
「面接の時は、こんなに手の早い女だとは思わなかったんだけどなぁ」
 高梨はつぶやくと、山号寺に向き直った。
「危険手当は君からもらえばいいのかな?」

 顛末は、こうだ。
 銃弾の雨が降る中、山号寺を抱えて回転寿司屋の看板の裏にとびこもうとしたまでは良かった。
 しかし、高梨はこういった展開にむいた男ではなかった。
 もっとも、私立探偵に小隊規模の軍隊に対抗できる人間はいるまいが。
 彼は、山号寺をひっぱり路地裏に逃げこんだ。
 その時に、ポリバケツとごみ袋の山(生ごみ満載)につっこんだのである。
 しかし、それが幸いした。小隊の一兵士が路地裏を覗いたとき、彼ら2人はごみの山に埋もれていたのだから。
 その後、高梨は山号寺に「仕事」で君を「護衛」していた私立探偵だと告げたというわけである。
 そして、こうなったら直接話を聞いてやれと開き直って、事務所に連れてきたというわけだった。


「おいおい勘弁してもらいてぇなぁ、その風体はちょっと勘弁してもらいてぇなぁ。」
 銭湯の親父が言うことももっともである。
 なまゴミの臭いが染み込んだ高梨はともかく、その隣に立つ血まみれの若造はちょっと勘弁ならない。
 銭湯「なまの湯」の親父は、そう思った。親父がそう思うことも、もっともである。
「まあまあ、そう言わないでよ親父さん。俺とあんたの仲じゃない。」
 と高梨は、いかにももっともらしい取りなしをする。
 だが、親父にはちょっと勘弁ならない。もっともである。
 親父は頭の捩じり鉢巻きを外し、額の汗を拭いながら言った、
「そんなこといったってさぁ、高梨ちゃんよ、他のお客への手前ってもんもあるしさぁ、ちょっと勘弁してもらいてぇよなぁ。」
 親父は、心の底から勘弁してもらいそうである。
 ああもっとである。
 高梨は、自分の隣に立つ山号寺を横目でチラリと見て、心から思った。
「ああ、もっともだな。」
 と。

 大田区池上本願寺駅前商店街内「なまの湯」の親父は、女癖が高じて身持ちを崩したことで有名な男である。
「親父さんも好きだね、まったく。」
「まあ、そう言わないでよ、高梨ちゃん、ままま、ゆっくりしてってよ、ね、ねねね。」
 そんな会話があった少し後、高梨と山号寺たかしは、なまの湯の大浴槽に浸かっていた。

「戸田、目標を視認できるか?」
 なまの湯の脱衣所で、身に着けた上着を脱ぎながら、生方三尉は小声で囁いた。
「目標は浴槽内にいます。例の探偵も一緒です。他にもだいぶ先客が来てるみたいですよ。」
 生方より一足先に全裸になっていた戸田久志陸曹は、日頃の訓練で引き締まった躯を大鏡に映しながら、上官への返答を行った。
 同じく全裸になった生方は、戸田陸曹の隣に立つと、小声で戸田に告げる。
「目線を浴場に送るな。先客に警戒を呼び掛けるようなものだぞ。」
「やっぱり、どこかの回し者ですかね、先客さんは。」
 戸田の顔に緊張の色が走る。
「わざわざ自衛隊機を偽装するような奴らだ。渋谷に降下した連中も、御丁寧に日系人部隊とくる。それに・・・・・・」
「それに・・・・・・・?」
「渋谷に降下した連中だけじゃないようだな。」
「と、いいますと・・・・・・・?」
「俺達より数分前に黄色い桶もって入っていった奴がいただろう。」
「ああ、あのケロヨンの・・・・・・」
「あの日系は、元KGBのスタリノフだよ。見覚えがある。その前にはピジョンのクヌギだ、奴とは因縁がある。」
 戸田は、自分の風呂桶の中に隠ぺいした拳銃を指で確かめながら、上官に訪ねた。
「何の為に奴らは自衛隊の姿を借りて、民間人を渋谷上空から叩き落としたりしたんでしょうかね。」
「・・・・目標に接触するぞ。」
 生方は、浴場に繋がるガラス戸に手を掛けながら、冷静に部下に告げた。
「あの目標は何者なんですか、一体。」
 戸田は依然納得できないようだ。
 生方は振り返ると、戸田の目を睨み付けた。
「奴が何者だろうが、連中の目的がなんだろうが、そんなことは俺の考えることじゃない。そんな面倒臭い事を考えるのは、他の奴に任せておけばいいんだ。」
「ハッ!了解いたしました。生方三尉殿!!」
 敬礼はしないまでも、戸田は気持ちを切り替える意味を込めて、上官へ答礼をした。
「いくぞ、目標の身柄を確保する。」
 生方は曇ったガラス戸を開けると、各国のエージェントでごった返す浴場に足を踏み入れた。

 カッポーン

「土曜の昼間っから、ここがこんなに混んでるなんて、めずらしーなー」
 椅子に座って体を洗いながら、高梨は何とはなしにつぶやく。
「それも、筋骨たくましい傷痕だらけの男たちときた」
 周りの男たちからはただならぬ気配が常に立ち上っている。
 しかし、それは高梨たちばかりに向けられたものではない。お互い同士にも向けられている。
「自衛隊の銭湯日ってやつ?」
 これは山号寺に向けられた言葉だったが、山号寺は緊張したおももちで体の血を洗い流すだけで、高梨の洒落には反応しない。
「あ、これはね、銭湯と戦闘をひっかけたんだけど、分かった?」
「分かったけど、笑えない」
 ぼそっと山号寺は返事する。高梨はいたく傷ついた表情をしてみせる。
「おまいなー、暗いよ。こーゆー状況でこそ、明るくいかなきゃ」

 トラブル・イズ・マイビジネス。

 高梨は、この状況をかなり楽しんでいた。すくなくとも浮気調査なんかよりは、かなりスリリングだ。
 それには、周りが三竦みにも四竦みにもなっているから可能なのだが。
「いや、単純に面白くなかったんだけど」
「ぐっさーーーーーーー」
 高梨は胸を押さえて天を仰いでみせた。おやぢギャグと言われることにはどうも慣れることができないでいるのだ。

カラカラカラ。

 またもや扉が開く。湯気の向こうに2人の屈強な男が見えた。
「またお客さんだよ」
 高梨はつぶやいたが、次の瞬間に山号寺を浴槽に向けてつきとばした。
 そして、自分も浴槽へと飛び込む。
「まるでアクションスターだな、これじゃ」
 普通の私立探偵では難しいようなアクションを決めて、高梨はつぶやいた。
 高梨が視線を戻すと、浴場は大混戦になっていた。
 さっきまで高梨が座っていた椅子には丸い焦げた穴があいていた。
 扉に立っていた男の片方(戸田)が撃ったのである。
 それが合図となった。 今や「なまの湯」は全裸のコマンドー達の戦場と化していた。
 戸田が持っていた銃も、今では誰かにはたきおとされて床に転がっている。
 石鹸を踏んで誰かが転がった。
 シャンプーが目に入って涙を流しているものもいる。
 かみそりで頬を傷つけたものもいる。
「なんだかなぁ」
 床に転がった銃を拾った高梨は、脱衣所で服を着ながらつぶやく。
「おれたちが目的だと思ってたのは、間違いなんだろうか」
 そんなことはない。
 ただ、手段が目的になってしまっただけなのである。
 もっとも、高梨もそれには気付いている。
 山号寺が服を着おわったのを見て、高梨が声をかける。
「さっぱりしたことだし、行くとするかね」
 番台の横を通り過ぎながら、高梨はひとこと。
「おやじさん、客は選ばなきゃだめだよ」
 おやじは、呆然として自分の銭湯が崩壊するさまを眺めていた。
「なまの湯は戦闘場じゃねえ、銭湯場だ」
 もっともである。
 しかし、その状況は、おやぢギャグ同様ちっとも面白いものでは、(おやじにとって)なかった。


「右から?!」
 そう思った瞬間、右脇腹に衝撃が走る。
 左のミドルキックだ、右手のフェイントに反応してしまい、まともに直撃を受けてしまった。
 危うくバランスを崩しそうになるが、なんとかバランスを保つ。
 下はタイル地である、そして水がまかれ、更に石鹸やシャンプーが泡立っている。
 ここは銭湯の男湯の中である、足場は最悪だ。
 そして、さらに最悪なことに日本の自衛隊、私服の警官、元KGBやらが回りで乱闘を行っているのだ。
 そして目の前には厄介な敵、生方陸上自衛隊三尉が立ちはだかっている。
「まさか銭湯でこんな戦闘に巻き込まれるとはな...」
 頭の中に浮かんだおやぢギャグに思わず苦笑いが浮かぶ。
 だが、実際は笑い事で済まされるほど甘くはない。
「腕が落ちたんじゃないのか?」
 生方の野太い声がそうたずねる。
「まだウォーミングアップが終わってなかったんでね...」
 そう言うと、クヌギは立ち上がった。
 今回のミッションは被験者の遺体を回収し、横須賀米軍基地まで輸送する、それだけのミッションのはずだった。
 楽な仕事だ、もちろん一歩間違えば大変なコトになるのは目に見えてはいたが。
 今までどんな困難なミッションを過不足なくこなしてきた、そういう自信がある、いや、あった。
 それがたった一人の若造と、何故かヤツを連れて逃げ回る私立探偵によってぶち壊されたのだ。
「右ストレート?!」
 そう思った瞬間に左腕で相手の右腕を絡める、身体が自然に反応する。
 自分の左脇の方へ捻じりながら巻き込む。
 相手と体を入れ替え、相手の右腕に体重を一気にかける。
 その瞬間、

めちめちめち...

 とも、

ごりごりごり...

 とも、とれる音が左脇の下からする。
 肩の靭帯がのび、ねじれ、ちぎれていく、嫌な感触。
 そして耳をつんざく悲鳴。
「ぎいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
 生方は悲鳴をあげる。
 まず最初に感じたのは猛烈な熱だった。
 その熱が生じているのは自分の右肩からだ。
 そして、自分が悲鳴をあげていることに気が付く。
 まるで自分の声ではないようだ。
 息が続くまで続けた悲鳴が途切れた後、肺が酸素を求めて大きく空気を吸い込もうとする。
 ところが右肩で生じた熱が喉を通って出てこようとしてそこで詰まっている、いや実際に詰まっているわけではない、だが、痛みが呼吸を拒絶しているのだ。
 呼吸が苦しい。
 視界が反転しているのに気づく、その視界が次第に暗くなり、そして、生方は意識を失った。

 ちょうどクヌギと生方の戦闘にけりが付いた頃。
 山号寺タカシはまだ濡れた服を着て高梨の後ろを走っていた。
 血まみれだった服は洗濯されてはいたが、血臭が消えたわけではない。
 所々に赤黒い血の跡が残っている、さながら迷彩服のように。
 きっと、洗濯機はひどいありさまだろう。
 ふと、自分の首の後ろ、後頭部より首に近い部分に痛みを感じる。
 触ってみると、熱を持った丸い平べったいものが張り付いている。
 いや、皮膚一枚を残して潜り込んでいるといった方が正しいだろう。
 それは、被験者である、小金井洋平の後頭部にもあったものである。
 つまり、タカシは、被験者の役目を偶然ながら引き継いでしまっていたのであった。
「おーい、なに立ち止まってるんだよ。」
 高梨が、タカシを振り返って言った。
「ああ、はいはいお婆ちゃん、イイ天気ですねぇ〜、長生きしてくださいよ、ホントに。」
 高梨は、商店街の八百屋の御隠居に手を振りながら言った。
「俺って結構、人気者もんなんだよなー」
「あ、ああ。」
「やっぱそう思うかー?」
 高梨は、まんざらでもないといったような笑顔を顔に浮かべている。
「あ、ああ。」
 タカシは、心ここにあらずといった様子で、なにやら首の後ろをごにょごにょしている。
「おまー、なにやっとんの?」
「あ、ああ。」
「まーどーでもいいけどさ。」
 ほんとにどうでもよさそうだ。
「だったら聞くんじゃねーよ。」
 タカシは、心の中で思った。
「ほら、行くぞ、もうすぐそこだからさ。」
 高梨は、再び走り出した。
「あ、ああ。」つられるように、タカシも走り出す。
 高梨とタカシは、ラーメン屋の二階にある「高梨賢治探偵事務所」に、再び戻ってきた。
「おーい、もどったよ。」
 扉を開けると、夕美が立っていた。
「遅いわねェ、なにやってたのよ。」
「遅いっておまえ、わざわざ銭湯まで行ってきたんじゃないかよ。くさいくさいってうるさいからさー」
「だって、ホントに臭いんだからしょうがないじゃない。」
 夕美は、先刻の臭いを思い出したように、鼻をしかめる。
 夕美は、そんな素振りにまで、色気のただようオンナだった。
「こういう所に騙されたんだよなー」
「なんか言った?」
「なんにもいってないって。」
 ぶるぶると顔をふる。
「お客さんはどうしたのよ?」
「どうしたもなにも、ドアの向こうまで来てるよ。」
「ちょっと、じゃまよじゃま、どきなさいよあんた!」
 世の中、ひどい探偵助手もあったもんだ。
「はい、どうぞ。お砂糖はお幾つお入れいたしましょうか?」
 接客用のソファーに座るタカシに、夕美がコーヒーを手渡す。
 高梨の探偵事務所に、接客用テーブルは無い。
「借金のかたに取られたんだよ。」
「へ?」
「なに言ってんのよあんた。恥ずかしいこと言わないでよ!」
 夕美が、高梨の後頭部をおもいっきしはたいた。
「いってえなー聞かれる前にいっといたほうがいいかなって思ったんだよー」
「タカシさん、お砂糖はお幾つ?」 
「ああ、じゃあ一つで。」
「あら、お一つで宜しいんですの?御遠慮なさらないでくださいね。ホホホ。」
「たかが角砂糖で・・・」
 高梨は身に付いた探偵の勘というやつで、それ以上の軽口を叩く危険性を悟った。だからそれ以上何も言わなかった。
「それで、なんだってあんなおかっなそうな奴らに追われてんだ?」
 高梨の分のコーヒーは無い。
「その前に一つ、聞きたいことがあるんだけどな。」
 タカシは、高梨を鋭い目つきでねめつけた。
「なんだよ。おっかねーな。」
「あんた、俺を護衛してる私立探偵だって言ったてたよな、確か。」
「ああ、そのとおりだよ。」
「俺は、誰かに護衛をしてもらうようないわれはない。」
 そう言いながら、また無意識に首の裏をいじくっている。
「そんなにキッパリと言い切るなよ。人間、裏になにがあっかわかんないもんだぞ」
「バカにしてんのか、あんた!」
 タカシがいきり立つ。
「まあ落ち着いてくださいな、タカシさん(あんた、せっかくの金づるになに言ってのよ!ちょとは真面目にやんなさいよ!)」
 夕美が、一言と鋭い目線で、その場を取りなす。
「ところでおまー、さっきからなにごちょごちょやっとんのよ?怪我でもしてんじゃないのか?ちょっと見せてごらんなさい。」
 場のふいんきを変える為、高梨が話題をそらす。
「あら、大変!お手当しなくっちゃ、大切なお体(金づる)なんですから!」
 心得たとばかりに、夕美もその話題にのった。
「よせ!なんでもねえよ!!」
 思いのほか激しく、タカシが拒絶したので、高梨にはますますタカシの首の裏が気になってしまった。
「まあ、そお言わないで、さ、ほら、見せてみろって、さ、さ、ささ、さ」
「うわ!な、なにすんだよてめぇ!!!」
 タカシの手からコーヒーカップが落ち、音を立てて割れた。
「ばかぁ!なにやってんのよばか、大切なお客さんに飛びかかる探偵が何処にいんのよ!支払いどうすんのよ!あたしの給料どうしてくれんのよ!痛ッ!!何処の世界にかわいい助手に噛み付く探偵がいるのよ!!は・な・し・な・さ・い!・・・・・え、なに?」
「おいッ、よく聞けよ夕美、こいつは今回のターゲットだぞ!」
「あたりまえじゃないのよ!だからはなせっていってんでしょが!!」
「こいつは別に、スポンサーじゃないんだぞ!こいつがお金くれるわけじゃないんだぞッ!」
「なんだ、そっか。」

 世の中、ひどい探偵とその助手もあったもんだ。

「てめぇら、はなしやがれこのヤロ!いい加減にしやがれよ!」
 タカシを二人がかりで押さえ付けた高梨と夕美の二人は、タカシの首の裏をまじまじと見た。
「なんだこりゃ、変なプレートが付いてるぞおまえ。」
「なにこれ、あらやだ、体にくっついちゃってるじゃないの。なんか書いてあるわよ、コレ。」
「なになに・・・・・・・・・」
 タカシの首の裏に張り付いた謎の金属プレートに書かれた小さな文字を、夕美は声を出して読み上げた。
「・・・製造年月日・1988年11月(?)」
 続けて高梨が読み上げた。
「・・・製品保証期限・2020年11月・尚、返品は購入後1月以内に限ります(??)」
 その次ぎは、二人で声をあわせて。
「・・・・製造販売元・・(株)悪の秘密結社・・・・・・・」
 そして、二人声をあわせて叫んだ。

「悪の秘密結社(まえかぶ)だぁ!?」

「かぶしき、がいしゃ、あくの、ひみつ、けっしゃ。」
 高梨は言葉を区切りながら、そして自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉に出した。
 そして、まるで回答を求めるように、ゆっくりと視線をさ迷わせる。
 その視線が夕美の視線と交わる。
 たっぷりと30秒ほどタメを作ったあと、ほぼ同時に二人は言った。

「じょおだん(がちょーん)...」

 うつろな乾いた笑いが響く練馬の夜は、ちょっぴり冷え込みの厳しい2月の夜だった。
 気まずい沈黙が続く中、最初に言葉を発したのは高梨だった。
「秘密結社っていや、アレだろ?あの仮面ライダーとかに出てくる悪の組織、あはははははー...」

 (気まずい、思いっきり気まずい...)

 さっきから山号寺タカシはずっと無言を押し通している。
 最初は「悪の秘密結社」がなんのことかわからなかったタカシも、夕美の手鏡と事務所の姿見、2枚の鏡を使って首の裏側のプレートを確認している。
「あ、そーそ、お茶でも入れましょうね...」
 夕美が思い出したようにソファーから立ち上がり、給湯室へ向かう。
 その色っぽい後ろ姿に高梨が声をかける。
「あ、夕美ちゃん、今日はもうあがっていいから。」
「そう?じゃあ、そうさせてもらおうかしら...」
 夕美が振り向き、答えるのを待ってから高梨がタカシに向かって切り出した。
「まぁ、なにはともあれ、今日はこの事務所に泊まっていけよ。一晩、ゆっくり寝てからどうしようか考えようじゃないか。」
「自宅には...戻らない方がいいのかな...」
 「悪の秘密結社」という馬鹿みたいな名前はさておき、自分の首の裏に正体不明のプレートが埋まっているのは事実である。
 しかも、ご丁寧に製造年月日、製品保証期限、そしてバーコード付きだ。
 はがそうと試みたが、痛みでそれどころではなかった。
 そして、タカシはかなり混乱していた、上の空と言ってもいいほどだ。
 今朝、起きてからの1日の行動をトレースしてみたり、自分が今まで何回悪いことをしてきたか思い返してみたりした。
 それから恋人である林田未久の事を思い出したりしてみた。

 自分はどうなってしまうのだろう...

 しかし、この単純ゆえに漠然とした問いに答えてくれる人間は、何処にも居なかった...
 そして、夜が空けた時、高梨賢治探偵事務所には山号寺タカシの姿は無かったのである。


 「(株)悪の秘密結社」は名前の通り株式会社である。
 豊島区池袋のはずれの雑居ビルの地下にその事務所はあった。
 10畳ほどの事務所としてはせまいスペースには、3人の男と3つの机、そして1台の電話機、それだけだった。
 いや、他に1つだけあった。それは、丸い金属のプレートであった。

「シャチョー、これ、いつまで作ってればいいんですか?」
「2部上場するまでだ」
 10年間、何千、いや何万回以上も繰り返された会話がまた交わされる。
 シャチョーと呼ばれた男は、歳の頃は50代前半だろうか。白が混ざりはじめた髪を丁寧にオールバックにまとめ、黒いスーツにマントのいでたちである。
 呼びかけた男は30代前半だろうか。こちらは白いスーツに赤いシャツ。そして、胸のポケットにはご丁寧に赤い薔薇までさしていた。
「口じゃなく手を動かせよ」
 プレートに製品年月日を彫り込みながら残った1人の男が言う。
「だけどハカセ。これ作るだけでほんとに世界征服できるんですか?」
「あたりまえだ。今にこれの恐ろしさが世界に知れ渡る。そうしたら世界中が我らの足元にひれふすことになるんだ。さ、手を動かせって」
 ハカセと呼ばれた40代ぐらいに見える男は、実験用の白衣に見を包んでいる。黒ぶちの分厚い瓶底眼鏡をかけている。
 ここまでの会話の流れが、飽きもせずに何万回も繰り返されている会話であった。

「世界征服の礎は日本経済を牛耳るところから始めよう!!」
 シャチョーがこのスローガンを抱え、資本金をかき集め、株式に登録したのが1987年の暮れであった。
 今から10年以上も昔の話だ。
 世界征服を夢見た3人の男も、もういい歳になってしまった。4畳半一間から始めた男達の夢もようやくここまできた。
 店頭公開したのが5年前。それから、すこしずつ業績は上向いてきたのだ。
 株主たちは、人出が必要な時はいつでも駆けつけると言ってくれる、同じ夢を持つ同士たちであった。
 1987年に発売されたこの<プレート>も世に出まわり始めた。
 この<プレート>には、人間を無気力にし、大事なことは人任せにしようとする装置が組み込まれている。
 そして、製品保証期間中は、たとえその人間が死んでも、その死体に触ったものに自動的に乗り移る。
 脊髄から神経細胞に根をはるため、はがすことは今の医療では不可能である。
 これを開発したのが「ハカセ」であった。天才なのであった。

 シャチョーが言う。
「この前、正式にイスラエルからのオファーが来た。1万枚を10万ドルで購入してくれるそうだ。きばって作らなくてはな」
 そして、3人はまた黙々とプレートに製品年月日をほりこんでいく。
 地上での喧騒をよそに、こうして池袋のビルの地下の事務所の夜はふけていくのであった。


 高梨探偵事務所の午後12:05。つけっぱなしのテレビでは、お昼の顔が歌っていた。
 その音で目を醒した高梨は、ベットがわりの来客用ソファーから身を起こした。
「・・・・・なんだよぉ、テレビぐらい消してから寝てくれよな。電気代だってばかになんねえんだからさぁ・・・・・」
 寝ぼけ眼で立ち上がり、古い韓国製品のテレビの電源を切る。
 再びソファーに腰掛け、黙ったままタバコに火をつける。銘柄は「キャスター・マイルド」である、どうにも親父臭さが身に染み付いているようだ。

 狭い事務所の中に、タカシの姿は無い。

「・・・思った通りだぜ。」
 余裕の表情で呟くと、タバコを揉み消した。
 昨晩の内に打つ手は打ってある。だから高梨は落ち着いていられるのである。身辺の異常に混乱したタカシがどのような行動を取るかなど、私立探偵である高梨には手に取るようにわかる。
 タカシの皮ジャンの裏に張り付けられた小さな発信機。それが高梨の手品の種であった。それは極小サイズ・極軽量の、およそ素人などには想像も付かぬような逸品である。
「蛇の道は蛇ってな。」
 鼻で軽く笑うと、受信機を取り出す為、寝じわのできた背広の内ポケットに手を入れた。外見は携帯電話の受信機、それは、街中で使用しても不審がられる心配がない。
「ハードボイルドが道具に頼るなんて、御時世だな。」
 そう自嘲気味に言うと、今度はズボンのポケットに手をやる。
 ソファーから立ち上がった高梨は、トレンチコートを手に取り、全てのポケットに手をつっこんでから、今度は冷蔵庫のトビラを開け、頭をつっこみ、ソファーをひっくり返し床を叩き、流しの上の棚を開け、植木の根元を覗き、テレビを持ち上げてその下を調べ、新聞受けの中に手をつっこむと、その足で流しに戻り、湯を湧かしてコーヒーを一杯、自分の為に煎れた。

「なあんだ、夢だったのか。」


 目蒲線の乗り継ぎを終えた後、池袋に向かう車内の中で、高梨は呟いた。
 受信機紛失のトリックは、よく考えてみればすぐわかる謎だった。最初から持ってなかったのである。
(やっぱり道具なんかにたよってちゃいけないよね。)
 高梨には今朝見た夢が、少し教訓めいたものに思えた。
 夕美に連絡をせず事務所を飛び出した、怒られるのがめんどいからである。
 事務所を飛び出して目指す先は、現在は池袋警察署に勤務する、もと同僚の高橋警部補である。高橋はその当時から、腕利きの犯罪捜査官だった。
(その後で、タカシの恋人を張り込んでみるか。追われた男は情婦(イロ)の元に戻るもんだ。)
 昔教わった捜査のノウハウが、高橋の記憶とともに蘇る。
 数十分の後、池袋のルノワールで高橋と落ち合った高梨は、ハードボイルドな気分に浸っていた。

「・・・・・株式会社悪の秘密結社か。」
 高橋が、にがにがしい表情で言った。喫茶店内のテーブルには、二人分のホットコーヒーが置かれている。
「なんか、知ってることあっか?」
「ああ、よく知ってるさ。だが裏が取れないから、手の出しようが無い。」
「その取れない裏で悪いことしてるんだろ。なんせ”悪の秘密結社”だもんな。」
「いや別に。法律的にはしっかりとした”株式会社”だ。別に、なんら怪しい形跡がない。」
「じゃあ、なんで知ってんだよお前?」
「一般市民からの通報が多いんだよ。」
「通報?」
「”なんか怪しい看板があるんだけど””なんか怪しい人間が出入りしてるんだけど””とにかく社名が怪しい!”」
 高橋が突然叫ぶ。
「ただ”怪しい”だけじゃ手の付けようが無いって言ってるだろうが!!!」
「まあまあ、落ち着けって。お前の気持ちはよくわかるよ。」
 高ぶった高橋をなだめるため、高梨は小さな声で言った。
「・・・ほんとに”ただ怪しい”だけなのかよ?」
 手に持っていた封筒を、テーブルの上に投げ出し、高橋は言う。
「それ、調べてみろよ。連中の資金源だ。なんか怪しい所あるか?」
「そんなもんまで調べがついてるのかよ、話しが早いな・・・・・・・・・・・ってなんだこりゃ?」
 テーブルの上に存在する、”連中の資金源”を見て、高梨は途方に暮れた。
「”元祖のりソーグッズ”ってなんだよ。」
「知るか!!!!駄菓子屋に聞け!連中はそれで商売やってんだ!どうか参ったか、”のりソー”だぞ”のりソー”俺は情けなくなっちゃったよ。」
 ルノワールのレジ前で、高梨と高橋は、勘定の順番待ちをしている。
「ごめんなーこんなくだらない事で呼び出しちまってさ。しかし”のりソー”なんて、若い奴らは知らねえんじゃないかねぇ。」
 片手に伝票、片手に”元祖のりソーグッズ”を持った高梨が、高橋に言った。
 その前では、白いスーツの男と、たどたどしい日本語を喋る白人が、レジで勘定を支払っている。
「ソレジャア、シャッチョーサンにモヨロシクオツラエクッダサーイ。セイヒンテストもジュンチョーにスすんでマース。ダイトリョーもタイヘンにマンゾクでース。」
 謎の白人が言う。
「ええ、ドもドも、うちは製品には自信がありますからマセカテおいてくださーイ。アレは特に人気ショーヒンでッスからー、ゴコウニューはお早めにドッゾー。」
 白いスーツの男は、どっからどう見ても日本人だが、どうやらあやしい日本語が移ってしまったようである。
「ココダケノはなしーチュートーのほうにもオッキャクさっんがイマスからータクサンカウガいいアルよー。そうそう、”改造人間おとこ男”もヨロシクー新せー品デッスー。」
 続けて喋った後、レジ係の女性店員に向かって言った。
「すいません、りーしゅーしょ頂けますか?ええ、あっはい。カッコまえカブの、悪の秘密結社でお願いいたします。ええ、あくは”悪い人”のアクで・・・・・・・・・・・・あっどーもー。」
 領収書を受け取って言った。
「それジャアー失礼しっまース、コルべッソン大使。」
「オー!ソレヒミツでーす!イワないでクダさーい。」

 高梨は、なんだかなーと思った。


 いつも通りの気だるい朝。
 今日は天気がいいようだ。
 枕元の時計を覗き込む、短い針が8、長い針は11のところにある。
 とりあえず上半身を起こし、大きく伸びをする。
「うーーーーーーーーーん...」
 色っぽい声を上げながら、あらわな胸がたっぷりとした質感をともなって上下する。
 新井夕美、寝る時は裸で眠るたちだった。
 軽く身震いをし、両腕で身体を抱く。
「朝はまだ寒いわねー...」
 ベッドから抜け出し、裸のままバスルームへ駆け込むと、熱い湯と冷たい水を交互に浴びる、ゆっくりと身体が目覚めていく。
 シャワーを浴び、眠気を追い払ったところでバスルームを出て、寝室に戻る。
 バスタオルで髪の毛の水分をゆっくりと吸い込みながら、姿見の前で立ち止まると自分のプロポーションをチェックする。
 大きく張り出した胸、きゅっと引き締まったお腹、そして自慢の腰から脚にかけてのライン。
 一通りチェックした後、思わずつぶやく。
「まだ20代前半で通用するわよねー。」
 夕美は今、29歳である、再来月には30歳になる、そう、とうとうなってしまうのだ。
「あー...もう!憂鬱だわ。」
 そう文句をいい、顔をしかめるとバスタオルをベッドに投げつけ、いそいそと着替えるのであった。

「なによこれーーーーーーっ?!」
 事務所の鍵を開け、扉を開いた瞬間、夕美は叫んでいた。
「ど、ど、ど、ど、どーなっちゃってるわけ?!」
 入り口から見る事務所の中は荒れ放題に荒れていた。
 一通り驚いてみせてから、夕美は冷静に考えた。
「だいたい、こんななにもないような探偵事務所に入り込むようなマヌケな物取りはいないわよねー、まったくあのクソをやぢときたら!後で会ったらただじゃおかないからっ!」
 と、思わず右拳に力の入る夕美だった。

 そのころ、タカシは高梨探偵事務所から歩いて数分の公園のベンチに座っていた。
「あー...なーんにもやる気おきねー...」
 そう言いつつ、すぐそこのコンビニで買ってきたポップコーンをハトにやっているのである。
 タカシの足元には白や灰色のハトが忙しそうにポップコーンをついばんでいる。
「鳥って三歩歩くと考えてること忘れちゃうって言うけどホントかなー...」
 ぼーっとした目でハトを追いかけながら、いかにもやる気が無さそうにポップコーンをばらまく。
 昨晩、真剣な面持ちで悩んだことなど、今の彼にとっては遠い昔の事のようである。
「まー、なんとかなるだろー。」

 そして、その首の裏には今日も今日とてプレートが鈍い光を発しているのであった。


「ターゲット、捕捉しました」
 無線で連絡が入る。クヌギ は冷静に応じる。
「よし、見失うな。1班は3時方向、2班は9時方向、3班は6時方向から接近しろ、俺は12時方向から行く」
「了解(ラジャー)」
 無線から、各班長の返答が聞こえる。
 クヌギは満足そうにうなずくと、後ろに控える自分の班のメンバーを見回した。
 ピジョンが誇る都市戦闘部隊の第0班である。
 銃だけではない。人込みの中での隠密索敵(ストーキング)、絞殺術、ナイフ格闘術、化学兵器、そして、軍隊格闘術(マーシャルアーツ)、どれをとっても一流の男たちである。
 自分の指揮する4つの班からなる小隊だけで、そこいらの地方都市なら1晩で制圧できる自信が、クヌギにはあった。
「昨日は、場所が悪かった。銭湯で戦闘なんてシチュエーションは、さすがに想定できなかったからな」
 ぼそりとクヌギはつぶやきをもらす。彼が銭湯と戦闘をかける冗談を言うような男ではないことを知っている部下たちは、追従の笑いさえ起こさなかった。
「生方には悪いが、被験者はうちが押さえさせてもらう」
 にやりと笑みがこぼれる。獰猛な野生獣のような眼光には、肩の筋をねじきられてのたうちまわる生方の姿が焼き付いていた。
 彼の部下たちは、軽傷は負っていたものの、ほぼ無傷だったといってよいだろう。
 あらかたの敵を片付け、血の狂乱から覚めてみると、ターゲットが消えていた。彼らは自分たちが絶好の機会を逸したことを悟ったが、悔しがるものは誰もいなかった。
 当初から、目的の分からないミッションである。たまっていた鬱憤が、自分の技量をぶつけられる相手との闘いに放出されたのだ。闘いが終わった後の爽快感はたまらないものがあった。
 ましてや、そこは銭湯である。火照った体をシャワーで冷やし、汗を流すこともできたというわけである。
「仕事だ。いくぞ」
 彼の独り言のような呟きに、彼の部下たちは機械のような冷静さでうなずきを返したのである。


 ポップコーンがなくなると、山号寺はしょっていたケースからギターを取り出した。
 彼が曲作りに行き詰まってからどれぐらいがたつだろう。インスピレーションを求めて、色々なものに手を出してみたが、どれもこれも役に立たなかった。奇形児を集めた写真集や死体写真集なども眺めてみたが、おぞましさと生理的嫌悪感が湧き起こるだけで、何の役にも立たなかった。
 しかし、と山号寺は思う。あれは、違う。あの路上に咲いた赤い花は。
 あれが落ちてきた人間だということは分かった。しかし、彼は人間が転落死したという事実よりも、灰色のアスファルトに真っ赤に咲いた花の美的さに打ちのめされた。
 純粋に美しいと思った。これ以上の美はないというぐらいに。
 それを曲にしようと思った。あの時感じた心の震えはまだ残っている。しかし、弦をつまびくと同時に、彼の心から曲を作ろうという気持ちは薄れていった。
「ま、いっか。あの感動は見たものじゃなきゃ分からないよな。それに、曲だって別に俺が作らなくったっていいんだし。ケイジかジュンが作ってくるだろ」
 そして、ボーっと空を見上げる。
「いー天気だなー」


 カランカラン。
 重たい木製のドアが開けられると同時に、鐘の音が鳴る。
「いらっしゃいませー」
 元気よい声がかけられる。
「よっ、桜ちゃん。今日も元気だねー。あ、いつものね。いつもの」
 高梨が池上本願寺駅前商店街の行き付けの店「火乃木(ひのき)」に着いたのは、もう夕方だった。
「マスター、ブレンド1つ」
 桜はカウンターの奥に向かって声をかける。
「ほんとはブルマンとか頼みたいんだけどねー」
 高梨はぼそっと呟きをもらす。桜はそれを聞きつけると、あっけらかんとした口調で言った。
「高梨さんビンボーですもんね」
「桜ちゃん、それは言わない約束だよ」
 くすくす笑いながら桜は高梨におしぼりを差し出す。たとえブレンド1杯しか頼まないとはいえ、ほとんど毎日来てくれる常連さんである。おしぼりぐらいのサービスはしてあげるのだ。
「ところで桜ちゃん、これ何だか知ってる?」
 高梨は内ポケットから封筒を取り出してみせる。
「何ですか、それ?」
「悪の秘密結社の資金源なんだ」
 高梨が封筒の中身を取り出すのを、桜は体を乗り出し、期待に満ちた瞳で見ている。
しかし、とりだされた物を見て、桜は戸惑った声を出した。
「??何ですか、それ?」
「元祖のりソーグッズ」
「馬鹿にしてるんですか!?」
「そう思うよなぁ。俺もこれ見てそう思ったもん」
高梨は、桜の怒りの言葉にうなずいてみせる。
桜は、それでも「のりソーグッズ」を手に取ると、じっくりと眺め回してみた。
「あ、なんか書いてありますよ。ここ」
 桜は商品の隅っこを、高梨に指し示してみせる。
「類似品にご注意ください。製造元<(株)悪の秘密結社>」
 2人で読みあげて、2人で呆然とした。高梨はちょっとした既視感にとらわれた。


 その頃。何をするでもなく公園でボーっとしていた山号寺の元に、危険がせまりつつあった。

…………あーかったりー
「貴様、いい度胸だな。死ぬのが恐くないのか?」
………………めんどくせーなー、なんでもいーからすきにしろよ、すきに。
「…………連れていけ。抵抗したら、射殺して構わん。」
………射殺でもなんでも好きにしろつーの。
 ベンチに深く腰掛け、こちらを顧みようともしないターゲットに対し、クヌギは激しく苛ついていた。
(なんだコイツは………見たくないんだよ、お前の様な日本人は…………)
 公園に隣接する保育園の庭では、小さな園児達が、無心そうな瞳で彼等を見つめていた。
だが大人達はまるで腫物を避けるかの様に、公園に接する金網からその子供達を引き離していく。
(そういう国なんだ、此所は。なにもかにも全部、目を瞑っていればすむと思ってやがる。)
 0班の部下達が、タカシを、足のつかないルートで調達したワゴン車に無理矢理押し込んだ。
 もっとも、タカシはぶつぶつと文句を言う程度の抵抗しかしていないので、”無理矢理”とは言いがたいが。
 クヌギはワゴンの後部座席に乗り込み、助手席のウキタに言った。
「各班に連絡しろ、集合地点厚木だ。米軍の手を借りるのは癪だが、この際やむをえまい。現地に到着するまで、無線は使用禁止とする。」
 ウキタは、クヌギが最も可愛がっている部下で、0班の例にもれず日系人であった。もっとも、黒髪に黒い瞳を持ち、外見は日本人のクヌギとは異なり、ウキタは髪の色や顔つきに、薄く西欧の面影を残していた。
「隊長、日本のテレビ放送をごらんになりませんか?」
 ウキタがステリングを握りながら、振り返らずに言った。
「……………なんの為にだウキタ軍曹。私情は禁物と教え込んだはずだが。」
 最後尾の席では、クヌギのもう1人の部下ホウジョウが、なんの抵抗もしようとしないタカシに拳銃を突き付けている。
「いえ、決して私情などではありませんクヌギ大尉どの。ただ連中の狼狽が、その後どのように落ち着いたかと思いまして…」
 クヌギの脳裏に、部下達と見た渋谷の巨大ビジョンが浮かび上がる。

 …………本日午後に渋谷で発生した自衛隊の不祥事、自衛隊空挺部隊の市街地への突然の降下及び発砲事件に対し、政府は事件が自衛隊の訓練プログラムにおける重大なトラブルが原因だという、真に不可解な答弁を致しております。
 この重大事件の波及は当然国会にも及んでおり……………………………………幸い死傷者は出なかったものの………………………責任者への追求が急がれておりますが……………………………

「此所の連中は”落ち着き”などしないさウキタ軍曹。連中にできることはただ一つ、忘れ去るだけだ。」
 秀麗な眉を小さく歪ませ、クヌギは珍しく感情を露にした。 
 ホウジョウが、苦笑しながら言った。
「コイツを厚木までエスコートし終われば、やっと本隊に復帰できますね。」
 部下の自嘲ぎみな軽口には答えず、クヌギは窓の外に流れる風景を眺めた。
(カエる…かえ…る……帰る……では一体、何処へ帰る?…………………答えは簡単だ………………本隊に帰る。俺の帰る所は、結局軍隊でしかない……………俺も、奴も、結局同じ穴のムジナ…)
 クヌギは生方の顔を思い浮かべた。
 彼等のような人種にとっては、良き戦敵が、時に最高の友人のように感じられるものだ。
 車内に長く続いた沈黙を、急ブレーキの音と衝撃が撃ち破った。
 ホウジョウが腰を浮かせて叫ぶ。
「ウキタ、何をやってる!!面倒なもめ事はご免だぞ!!!!」
「申し訳ありませ………ですが………………」
「”ですが”なんてほざく軍人が何処の世にいるか!」
 ホウジョウが怒鳴り声を上げた。
 クヌギは後部座席のホウジョウを手ぶりで制すると、運転席のウキタに言う。
「軍曹、事故で無いのなら直ちに発進しろ。時間が惜しいぞ。」
「で………ですが隊長!!なにやら怪しい連中が、当車の進行を阻止しておりまして!」
「報告は具体的に行うんだウキタ軍曹。教えたはずだぞ。」
「具体的に報告する言葉が浮かびません!た、隊長が御覧ください!!」
「なにを取り乱しているんだ、お前は0班の精鋭なんだぞ、それを忘れたかのか軍曹?」
 運転席に身を乗り出し、車の前方を見たクヌギには、ウキタ軍曹の気持ちが痛いほどに理解できた。
 自動小銃を手に持ち、沈黙のまま車外に出たクヌギに向かって、5人の怪しい連中が叫んだ。

「陸上自衛隊戦隊!センシャマン参上!!!!!!!!!」

 5人の怪しい連中とは、それぞれ、レッド・ブルー・ブラック・イエロー・ピンクのぴちぴちのタイツ(?)に身を包んだ、なんとも”怪しい”としか言い例え様のない存在であった。

「生方………………哀れなものだな……………激痛のあまりに頭がおかしくなったのか?……………………………プッ………」
 片手の包帯が痛々しい、ブラック男(仮称)に向かって、レッド男(仮称)が叫んだ。「ちっくしょー!ブラック!こいつはお前の正体にかんづいちまってるぞー!ヨーシこうなったらみんなのパワーで、悪人達を退治するんだ!!!」
 ブラック男(仮称)が崩れ落ちた。
「か、勘弁してください一佐殿……………俺はもお、死にたいです。いや、いっそ誰か俺を殺してくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
 ピンク女(仮称)が言った。
「センシャレッドにセンシャブラック!敵の前で正体をばらすような事言っちゃダメじゃない!センシャブラック、良くお聞きなさい!レッドだって別に好きでやってるわけじゃないんだから、貴方も協力しなさい!」
 イエロー男(仮称)がブラック男(仮称)言った。
「しょうがないっスよ三尉、銭湯でやつらに負けた罰ゲームだと思ってあきらめましょう。そんでさっさとかたずけて、帰ってカレーでも食べましょう。おごるッスよ、今夜は。」
 ブルー男(仮称)が冷静に言った。
「秘密庁長官の考えられた作戦に失敗はありえません!データー的観点から見ても、この戦闘服の能力は立証されています、戦闘データを取る為にも、ここで彼等を食い止めるという我々の任務は、非常に重要なのです!」

 生方三尉の身に降り掛かった謎の災難!!
 そしてその謎とは!!
 緊迫の次号を待て!!!!!


 一方その頃、喫茶店「火乃木」では、高橋との電話を終えた高梨が途方に暮れていた。
 電話の横に、興味深そうに立っていた桜に向かって、高梨は言った。
「どうしちゃったんですか?刑事さんに電話なんだなんて、すごいじゃないですかー。」
 桜は目を輝かせている。
「まいったなー。なんだかあいつ、いっきなりやるきなくしちゃってさー。」
「まるで警察ドラマみたいですよねー。」
「おじさんは昔、刑事だったんだぞ。」
「またまたぁー。」
「………………………………………………………………………」
「それで、どうしちゃったんですか、その刑事さんは?」
「いやさぁー、怪しいやつ尾けてったのはいいんだけどさー、連絡くれるって言ってたのに、全然よこさないでさー、それでこっちから連絡とったら……」
「ふむふむ。」
「”おれはもうめんどくさいよ”、”刑事なんかやめてハワイで余生をおくるさー”、”ハワイいくのめんどくさいなー”、”いいや、おれはでんわボックスで余生を過ごすことにしたよ”、”っていうか電話してるのめんどくさいし”」
「その口調は、刑事さんの物まねなんですか?」
「そんなこたぁどうでもいいんだけどさー。なんなんだろーねいったい。真面目だけが取りえの奴だったんだけどなー。なんでおかしくなっちゃったんだろーなー???」
「そんなの簡単じゃないですか!」
 と、得意満面の桜であった。
「へ?なんでわかんのそんなこと?」
「高梨さんのお友達だからですよー。」


 クヌギが出ていった車内には、ウキタとホウジョウが残されていた。
 もちろん、タカシも居るが、彼はやる気も無さそうに、だらしなくシートにもたれかかってあらぬかたを見やるだけだった。

 そして...

 タカシの首の裏にあるプレートが鈍く光り出す、そしてしだいに大きくなる金属音。

...チィィィィィィィィィィィィンン...

「なんだ?この音は。」
 車の中、ホウジョウは銃をタカシに突き付けながらあたりをうかがった。
 間違いない、この音はタカシの首の裏側から聞こえている。
 そしてその音がホウジョウの耳の可聴音域から外れたころ、タカシの身体はゆっくりと、そして細かく痙攣し始めたのだ。

「陸上自衛隊戦隊!センシャマン参上!!!!!!!!!」

 その声が聞こえた時である、タカシのプレートが反応したのは。
 その言葉を合図にして、プレートは自らの触手をタカシの脊髄にそって伸ばし、大脳皮下質に到達していた。そして、一部の触手は大脳視床下部と扁桃体に到達、その先から分泌液を発し、感情中枢、特に戦闘意欲や怒りの感情を制御する部分を刺激しはじめたのである。また、その触手は小脳にまで達し、運動領域を刺激し、常人以上の瞬発力、筋力を発揮できるよう瞬時に調整を終えたのであった。
 プレートが調整を終えるまでには数秒の時間がかかる、その間、タカシは痙攣とともに異様な感覚を頭に感じていた。
(なにかが頭の中に入って来る...)
 すでにプレートによってやる気を削がれてしまっていたタカシはそのなにかに抵抗しようともせず受け入れた。
 と同時に強烈な破壊意欲が湧き起こる、異様な力のうねりだ。黒々とした強大な力が腹の底からとめどなく湧きあがってくる。
 その力に呼応するように、プレートから黒い糸のようなものがにじみ出てくる、その糸はタカシの身体を徐々に包み込んでいく。
 その異様な光景に圧倒されたホウジョウは思わず発砲していた。
 サイレンサーを実装したH&K P8からくぐもった銃声がもれる。そしてその弾丸はタカシの左肩を吹き飛ばし、車の外に抜けていく。
 しかし、タカシの吹き飛ばされた左肩はしだいに黒い糸に覆われて再生してゆく。すでに外見上のタカシの面影はなくなっている。
 恐怖に引き攣りながらホウジョウは何度も引き金を引いた。
(なんなんだ、こいつは?!)
 ふいにタカシが白目を剥き、引きつったように背をそらせる。
 その身体はすでにヒトの形をしていなかった、その皮膚は黒く太い獣毛に覆われている、そしてその下に透けて見える隆々としたしなやかな筋肉、四肢の指先には長く鋭い爪が生えている。
 頭部には不気味にねじくれたたくさんの角、そして頭部から背中にかけては赤いたてがみのようなものが確認できた。そして、涎がしたたる口元には鋭い牙。
 すでにタカシのタカシとしての意識は無い、あるのは真っ黒な破壊衝動だけだ。銃弾を受けて身体に衝撃は走るが痛みは感じない。不意に殺意が走る、その殺意はしなやかな右腕に乗り、至近にあったホウジョウの首筋を走り抜けていった。
「な!なにぃ?!」
 ホウジョウは発砲しながら叫ぶ、そしてその最後の「に」の音を口に残したまま出てきたのは叫びではなくどす黒い血であった。
 つい先ほどまでタカシであった「それ」は猫科の動物を思わせるしなやかな動作で右の抜き手をホウジョウに向かって繰り出したのだ。
 その鋭い爪を装備した右手はホウジョウの首を貫通し、車内に盛大な血の噴水をあげた。  その噴水を割ってはいるように「それ」の左手が一閃する、するとホウジョウの首はなくなってしまっていた。
 低いディーゼルエンジンの唸り声の中、ウキタはフロントガラスの向こう側に意識を奪われていた。
 一瞬、鈍い音がしフロントガラスに蜘蛛の糸のような細かいひびが走り、真っ白になる。 「?!」
 一瞬、ホウジョウの顔が見えたような気がした、それも今まで見たことも無いような表情の。  思わず後ろを振り返る、車内は暗かったが、後方から吹き付ける風の中にウキタは硝煙の匂いと血臭を嗅いでいた。

 バシャーーーーン!

 車のフロントガラスが砕け散る。
 その瞬間、クヌギは銃を構え直し、そちらに狙いを定める。
 ごちゃごちゃ言っていた「センシャマン」とやらもこちらに注目している。
 そして彼らがそこに見たのは、引きつった表情をうかべたホウジョウの血まみれの首だった。
 車の中では、立ち上る血臭の中、黒い身体を返り血で赤黒く染めた「それ」がゆっくりと立ち上がるところであった。


「400円でーす」
 ドアの脇で桜はにっこり笑って高梨を見送る。
「はいはい。また明日ね」
 高梨はズボンのポケットから小銭を取り出すと、桜に手渡した。
「はーい、お待ちしてまーす」
 もう暗くなった街へと歩きだす高梨を、桜は元気よく見送った。
 ”火乃木”の看板娘である桜は、その元気の良さにファンが多かった。もっとも、おぢさんがその大半を占めるということに、嬉しさも割り引かれるところだったが。
 高梨は、A4判の茶封筒を小脇に抱え、歩き出した。
 封筒の中には、今回の調査結果が入っている。ここまで分かったことを、中間報告としてクライアントに提出するためである。
 日当で必要経費別。3日間ごとの契約で、延長するかどうかは3日ごとの報告とともに行うというのが、高梨のスタイルなのであった。
 報告書は”火乃木”で書き上げた。そんなに書くようなことはなかったからだ。
 (株)悪の秘密結社について書いてもしょうがない。
 しかし、今回の報告の後、依頼内容は変わるだろう。国家権力に彼がつけ狙われていることを報告するからだ。
「真実を明らかにするってのは、いいことばっかりぢゃないねぇ」
 何度もらしたかしれない呟きを高梨はもらした。
 しかし、それをやめる気はない。真実を告げないことがある体制を嫌って、警察を抜けた男だ。
 辛いことでも、知らないより知っていた方がいい。
 高梨はその信念だけは、曲げるつもりはなかったのである。

「クソをやぢ来てるっ?!」
 火乃木のドアが開くと同時に、女性の声が飛び込んできた。
「え? ああ、さっき出ていきましたけど」
 桜は一瞬戸惑ったものの、相手の姿を認めると答えを返す。
「どこにいったのかしら、このくそ大変な時に」
「クライアントのところに行くって言ってましたけど? なにかあったんですか、夕美さん」
 夕美は、ここまで走ってきたのだろう、肩で息をしていた。
 深呼吸して荒い息を整えると、夕美は、桜の両肩に手を置き、ものすごく真面目な目で言った。
「お願い。賢治を探してちょうだい。大変なことになってるのよ。いいわね?」
「は、はい」
 その真剣さに、つい桜はうなずいてしまう。高梨のことを”賢治”と夕美が呼んだ。桜はそれが、事態がかなり深刻であるということを表していると、経験上知っていたのだ。
 そのうなずきを確認すると、夕美は桜の手を引いて店を飛び出して行った。
 火乃木には、マスター一人が残された。

「お願い、ここの住所のところに行って、賢治を呼んできて欲しいの。携帯の電源が切れてるらしくて、ちっともつながらないのよ。あたしの携帯に電話かけるように行って。お願いよ」
 桜の手をひいてはしりながら、夕美は手短に頼みこむ。
 桜はうなずくと、ここから10分ぐらいの距離のマンションへ向けて走り出した。
 自分がウェイトレスの格好なのが少し気になったが、この格好で買い物に行くこともある。桜は羞恥心を振り払うと、高梨を探して走りだしたのである。
 一方夕美は、ある通りに向けて走りだした。
「まだ生き残ってる人いるかしら」
 と、呟きを残して。


 鍛えぬかれた体も、技も、そして、銃すら通用しない。
 その事実に直面した時、それによって自己を確立している者はどうするのだろうか。
 クヌギは、それでも立ち向かうタイプだった。
 そして、黒いヘルメットを脱ぎ捨てた生方もまた、そういう男だった。
 クヌギは、自分が育て、また一緒に死線をくぐりぬけた家族とでも言うべき0班の部下を全て失っていた。
 1〜4班は居合わせなかったため、まだ無事だが、クヌギは彼らを呼び寄せることはしなかった。
 そして、生方もまた、自分の同僚を失っていた。彼の周りには赤、青、ピンク、そして、黄色の衣装に身をかためた同僚が物言わぬ骸となって横たわっていた。
 戸田もこんな格好で死ぬことはなかったろうに・・・
 生方はふとそんなことを思った。そして、自分はこの格好で屍をさらすことはしまいと心に誓った。
 何とはなしに、クヌギと生方は視線を合わせた。
「逃げればいいのに、お前もばかなやつだな」
 その目は、お互いにそう言っていた。
「今回の件が片付いたら、一杯おごるよ」
 ぼそっとクヌギが言った。
「ハイアットでバーボンだな」
 生方が応じる。
「ああ、ハイアットでバーボンだ」
 クヌギはにやりと笑うと、タカシであった怪物に向かっていった。

 夕美が現場に戻った時、まだ2人の男が生き残っていた。
 2人の男は、怪物相手によく闘っていた。
 夕美の視線は、怪物の後頭部に釘付けになる。
 鈍く光る丸みを帯びたプレート。
 見忘れるはずはなかった。昨日までに自分が見た、もっともあほらしい物だったのだから。
 しかし、今日からは一生忘れることはないだろう。今までで一番恐ろしい物になったのだから。
 夕美は、我知らず、首の後ろをさする。
 何もないことをいつまでも確かめるように。

 桜は、教えられたマンションの前で、高梨に追いついた。トレンチコートの裾をつかむと、中腰で膝に手をつき、荒い息を整えようとする。
「あれ、どうしたの、桜ちゃん。食い逃げはしてないよ?」
「じょ、冗談、言ってる、場合じゃ、あり、ません」
 息を切りながら桜は言葉を続ける。
「夕美さんが、携帯、に、電話してって。賢治、って、言って、ました」
「何?!」
 一瞬で高梨の表情が厳しいものに改まった。
 夕美が自分を賢治と呼ぶ。
 その重大性を一番知っているのは、誰でもない、賢治だったのである。


………畜生。
 クヌギは、薄れ逝く意識の中で、そう思った。
 路上に倒れ込んだ彼のすぐ脇では、生方が一足先に、あの世に旅立っていた。
 混濁した意識を怪物に向けると、クヌギの心に、生まれて初めての恐怖を呼び起こしたあの怪物が、通りすがりの女を牙にかけようとしていた。

………………………母さん。
 クヌギは、夢を見ていた。怪物の忌々しい手によって首を吊るし上げられたその女が、まるで自分の母の様に思えたのは、混濁した意識化に見た、その夢のせいであっただろう。だがその夢は、クヌギにとって悪夢ではなかった。それは心休まる懐かしい夢であった。
 あの時救うことの出来なかった、優しかった母、今の自分にならきっと救い出すことができるだろう。
 クヌギは立ち上がり、残された片腕で傍らの小銃を取り上げると、引き金を引き、鉛のシャワーを怪物に向けて叩き付けた。
 最後の力を振り絞って。
 クヌギは、再びアスファルトに横たわり、再び夢に落ちた。
 彼が人生の最後に見た夢の中、母の愛した祖国にあるあの古い家では、父と母、そして少年時代のクヌギが、微笑みながら暮らしていた。


 怪物の手を逃れた夕美は、怪物の影に怯えながら、賢治の姿を求めて震えていた。
 血塗られた路上にすでに怪物の姿はなかった。
 夕美には、自分の躰がまるで、すでに怪物の牙に引き裂かれた肉片のように感じられていた。その感覚は夕美に、激しい恐怖と嫌悪を感じさせていた。

…………………ピッピピピ♪ピッピピ♪ピッピッピピ♪ピピピ♪……

 携帯から流れる呼び出し音の後、機械越しに伝わる賢治の声を聞いた夕美は、その次ぎの瞬間、意識を失っていた。


 今、その薄暗い部屋の中では、赤い光が明滅し、警報が鳴り響いていた。
 その明滅する赤い光に照らされながら、いささか緊張した面持ちで「シャチョー」こと早坂勲(52・社長業)はハカセに言った。
「コードネーム *G*U*I*L*T*Y* が開放されたようだな...」
 ハカセこと篠原智彦(68・博士)が額の汗を拭きつつ応じる。
「そのようですな...まことにイレギュラーではありますが。」
「作戦司令室に移動する、所定の手順を踏んで各機関に連絡、*G*U*I*L*T*Y*オペレーション始動!」
 早坂は重々しくそう宣言した。

 横須賀米軍基地、証明を極度に落としたその部屋では、キニスン大佐が眉間に皺を寄せ、部下からの報告を受けていた。
「...はターゲットを拉致した後、厚木方面へ向かった模様ですが、現在連絡が途絶えています、第1班、第2班に捜索させていますが、まだ報告はあがってきていません...以上です。」
 キニスンは重々しく肯くと部下を引き下がらせた。
「待つより他にないものか...」
 彼の独り言は暗い部屋に吸い込まれるように消えていった。

 まさに惨状であった、血の海である。
 高梨は吐き気をもよおしつつも、夕美の姿を探す。
 その小道は閑静な住宅街の奥まったところにあり、右側は公園、左側は高い塀になっていた。
 突き当たりは大きな道に出ているらしいが、一方通行らしく向こうから進入してくる車は無い。
 時刻は23:00を回っている、もともと人通りが少ないためか風が公園の樹をゆする音がいやに大きく聞こえる。
 そして、その風に乗ってくるのは硝煙の匂いと血臭だ...
 血の海の中、動くものはない。
 もうもうと立ち込める血の匂いにむせ返りながら、高梨は一つ一つの死体を確認して回った。
 一番近くにあった死体は迷彩服を着ていた、右足が無い、ねじ切られてしまったようだ、傷口がぐずぐずに潰れている。右手にハンドガンを持ってはいるが、弾薬は空であった。
 仰向けになった顔、目のところに血だまりが出来ている、眼窩は血で埋まれ零れ落ちた血の痕が泣いているようにも見える。
「こいつはひでぇ...」
 胃の中から込み上げてくるものを懸命に押さえながら捜索を続ける。
 車のドアを開けてみると、中から大量の血が流れ落ちる、中にあったのは首の落とされた死体だけだった、天井がむりやりなにかでこじ開けたようにひん曲がり、穴が空いている、ちょうど人間一人くらいが通れる大きさだ。
 外にある死体はどれもまともな形状をしていなかった。首を飛ばされているもの、頭蓋骨をぐしゃぐしゃに潰されているもの、大きな獣に食い破られたような腹から内臓をはみ出させているもの。腕や脚がそこここにごろごろ転がっている。
 その中に女とおぼしきピンクの奇妙なスーツを着ているものがあった。フルフェイスのヘルメットをかぶっているような感じである。
 まさかと思ってヘルメットを脱がすと中から出てきたのは推定20代前半のキツイ化粧の女の顔だった、白目を剥き、形相は恐怖に歪んでいる。
 一通り捜索を終えたが、夕美らしき死体はなかった、高梨は多少安堵する。
「いったい何処に...?」
 高梨はポケットに右手を突っ込み、残った左手で頭をガリガリ掻いた。右手に硬い感触がある。
「そうだ!携帯電話に電話をすれば!」
 高梨はポケットから携帯電話を取り出し、リダイヤルした。さっきかけた時はなんの応答も無く、虚しく切るより他にはなかったのだが。

…………………ピッピピピ♪ピッピピ♪ピッピッピピ♪ピピピ♪……

 小さく呼び出し音が聞こえる。
「公園かっ?!」
 高梨は血の海を走りぬけ、公園に踏み込んでいた。
 公園には砂場とジャングルジム、ブランコに滑り台、その他には何本かの桜の樹が生えていた。
 用心深くあたりをうかがう、音は...桜の方から聞こえる。
 注意深く近づく、音はだんだん大きくなる、あたりは光が届かなく暗い。そのすでに葉も花もないその桜の樹の枝から携帯電話の着信ランプが見え隠れしている。
(なぜ電話に出ないんだろう?)
 多少安心して声をかけてみる。
「夕美?そこに居るのか?」
 返事はなかった。
 恐怖に駆られ、桜の幹をよじ登る、そしてそこに見たのは...

 桜の枝に引っ掛かっていたのは、血まみれの、携帯電話を握り締めた、夕美の、右腕だった...
 その携帯電話は虚しく、暗い中で、明滅していた...

「夕美...」
 後が続かない...
「夕美、夕美...」
 意味も無く夕美の名前を連呼しながら高梨は自分の体から力が抜けていくのを感じていた...

 高層マンションが立ち並ぶ住宅街。
 その暗がりの中にうずくまる人影があった。
 その影は哭いていた、恐怖に震えながら、喜びに打ち震えながら。
 傍らには女の死体が横たわっていた。
 それはさっきまで自分が咥えていたものだ。
 それはさっきまで生きて助けを呼んでいたものだ。
 それは血にまみれ、動かなくなったものだ。
 それはさっきまで夕美と呼ばれていたものだ。
 そしてそれは暗がりの中、血に彩られ、輝くように美しく感じられた。
 タカシは暗がりで震え、哭きつづけた...


 高梨は、自分の事務所のソファーに、どっかりと腰を下ろした。
 コートの影にかくしてもってきた、夕美の腕を、隣のソファーにそっと横たえる。
 グラスを2つもってくると、両方のグラスにバーボンを注ぐ。
 軽くグラスの縁をふれあわせると、琥珀色の液体を一気に流し込んだ。

 警察に通報するつもりにはなれなかった。
 夕美の腕を置き去りにしたくなかったからだ。
 血にまみれ、擦り傷だらけになっていても、白く美しい肌。携帯電話を握りしめた手は開こうとはしない。
 高梨は夕美に恋愛感情を抱いたことはなかった。しかし、世界で一番大事な人間だった。
 冗談を言い、一緒に仕事をしてきた相棒。
 どんな辛い仕事でも、悲しい事件でも、心に傷を負ったことを見せないようにあくまでも気丈に振る舞っていた彼女。
「もう、冗談いっても、灰皿は飛んでこないんだな」
 高梨の呟きが暗い事務所の中に消えていく。
 高梨は立ち上がると、デスクの引き出しを開ける。
 そこには、一丁の銃があった。
「またこいつを握る時が来るとはね」
 銃把を握ると、刑事時代の記憶が蘇ってくる。
 かつての彼は、銃の腕も一流の刑事だった。
「行ってくるよ、相棒。お前さんの仇を討ちにな。それに、お前さんの美しい体をその辺に置いておくわけにはいかないだろ?」
「何言ってるのよ、そんなの一銭の得にもならないじゃない!!」
 夕美の声が聞こえたような気がしたが、高梨にはそれが幻聴にすぎないということはよく分かっていた。
「夕美、お前が何であんな危ないところにいたのか。答えは1つ。それは、あれをやったのがタカシだからだな」
「そして、タカシが軍隊の猛者たちを、あんなふうに殺せるはずはない。しかし、やった。考えられる理由は1つ」
「馬鹿みたいな話だが、あのプレート、あれがタカシにそれを可能にさせたんだ」
 高梨は心の中で呟きながら、クライアントのマンションへと向かう。
 もしも、タカシに理性が少しでも残っているのなら、恋人のところに行きたいと思うだろう。
 内ポケットの中の銃に高梨はそっと手を触れる。
 軍隊の猛者共も銃を使っていた。それでも殺された。その事実を高梨は理解している。
 しかし、と高梨は思う。
 あの首の後ろのプレートについて、猛者共がそんなに重要視していたとは思えない。
 そこが、俺とあの連中の違うところさ。
 高梨は、死ぬつもりなど全く持っていなかった。


 タカシは、ふと自分のいる場所がとても見覚えのある場所であることに気付いた。
 それは無意識の行動だったのだろうが、熱に浮かされたような感覚から逃れるために走りまわった末にたどりついた場所は、恋人の林田未久が住んでいるマンションの近くだったのである。
 未久、未久だったら僕を助けてくれるかもしれない。
 未久を、この女のように殺してしまおう。真っ赤に美しく。
 タカシは2つの衝動にかられ、のろのろと歩き出す。

 タカシがマンションの中に消えるのと同時に、高梨は夕美を発見した。
 途中からは血の跡をつけてきたのである。
「夕美」
 高梨は夕美の惨状を見て絶句した。
 血によってところどころが赤く染まった肌は、電灯の白い光に照らされ青白く輝いていた。
 腹部は獣か何かにかみさかれたようになっており、右腕は肩の付け根からなくなっていた。
 しかし、その表情は恐怖に歪んだものではなかった。
 泣き笑いのような顔。
 こんな顔を見たことがあった。
「賢治、無理しないでって言ったじゃない!!あなたが死んでしまったら、あたし、あたし・・・・・・」
「誰からお給料もらえばいいのよぉ・・・」
 高梨がある事件の調査で瀕死の重傷を負った時の、枕もとで見た顔だ。
「あいつ、死ぬ直前にまで、俺に心配かけまいとして・・・・」
 高梨の両目から涙があふれ落ちた。
 賢治が自分の姿を見つけてくれた時、自分が恐怖におびえた表情をしていたら、賢治が余計なことを考えるに違いない。それに、賢治にはおびえて泣いている顔なんて見られたくない。
 そう思ったに違いないことを高梨は悟った。
「お前は、こんな姿になっても美しいんだな」
「もうちょっと待っててくれよな。クライアントを守ったら、お前と一緒に事務所に帰るからさ」
 高梨は、夕美に背を向けると、マンションに入っていった。
 クライアントの住所は、当然押さえてある。
 だから高梨は、なんの苦もなくその部屋を探し出すことができた。
 「コーポ向原202号室」は、クライアント林田未久の暮らす部屋だ。
 関西から独り上京した彼女は、独りの部屋から、大学へ通う日常に苦痛を感じていた。そして未久は、タカシと出会ったのだという。
 タカシとの出会いは、慣れない世界で暮らす未久の心に、小さなぬくもりを与えていた。
 クライアントに一度だけ逢ったとき、彼女がタカシについて語った言葉。その時の彼女の表情が、高梨の心をよぎる。
(もし、あの娘がタカシと一緒にいたら…………………………俺に、撃てるんだろうか……………あいつを、殺せるんだろうか………夕美を殺した、あいつを。)
 高梨は、心に浮かんだ逡巡を表情に出さず、202号室のドアノブを静かにひねった。
 ドアノブは、生暖かい血に塗れていた。はたしてその血液は、夕美のものだったろうか。
(奴は、この中に存る。俺はドアを開けて、部屋の中に飛び込み、奴の姿に向けて引き金を引く。それで全ては終わる…………夕美、それで全てが終わる。)
 目を瞑って、思った。
 自分が生きて、再びこのドアを出ること。
(それで、全てが終わりなのか?)
 自分が、このドアの向こうで、ただの肉片になって終わる。
(それが、全ての終わりなのか?)
「そんなことで、全てを終わらせはしない。俺にはやるべきことが残されているはずだ。敵討ちは、こんなことで片付きはしない」
 小さく呟き、ゆっくりとドアを開けると、暗い部屋の中から、誰かの啜り鳴く声が聞こえた。
 足音を殺し拳銃を片手に、玄関を入ると、狭いダイニングキッチンがあった。ユニットバスのトビラは開かれていて、その室内は血塗られていた。奥の部屋から、幽かにもれる明かり。幽かに開いたドアの隙間から、啜り鳴きが響き渡る。
 その部屋の中では、タカシが未久にしがみついて泣いていた。
 殺戮が繰り広げられるまで、タカシの心を支配していた退屈と諦観という名の狂気は消え去り、原始的な恐怖と後悔の念だけがタカシの心を支配していた。

………後悔
 タカシは気持ちのいい、まるで母の海の様な未久の膝に溺れながら思った。

…………自分は後悔などしているんだろうか?
 あの肉を切り刻む感触とあの肉の味は、素晴らしく甘美な物であった。その悲鳴も、諦めたような表情も、まるで恋人と交わすくちづけのように甘美だった。
 おぞましく、忌々しい感触だったのも確かだ。だがその甘美な香りを、もし自分の恋人に覚えてしまったら、俺はいったいどうするんだろう?
 それは物凄く悲しい想像で、その想像をうち消せない自分がタカシには悲しかった。

………………そしてその肉が、かってないほどの甘美なものであったとしたら
「タカシ、私だけは、どないなことがあってもアンタの味方やからね。だからも泣かへんでな。な、おかしいで、子供みたいやで」
 タカシはただ、涙した。


 恋人達の癒しの海に高梨は足を踏み入れた。片手に拳銃を握りしめ、心に怒りとやるせなさを覚えながら。
「高梨さん、何の御用ですか。タカシは今、寝てしもうてるんですけど。」
 未久の瞳に浮かぶ強い意志の光りから、高梨はただ目をそらした。黙って拳銃を、静かに眠るタカシに向ける。
「なにをしはるんですか!帰ってください!警察よびますよ、ええから帰ってください!」
 答えず、引き金を引いた。

 引いた、引いたつもりだった。
 引けなかったのは、未久が銃口の前に立ちふさがったからだ。

………………どいてくれないか?おれはそいつを殺したいんだ。
 口から出ない思いをよそに、未久は慌ただしく受話器を取ると、受話器の向こうの警察官に、なにかを激しく訴えていた。
 高梨は、拳銃を放り出し、目を閉じた。激しい感情が、心を襲う。
 夕美の顔が浮かび、”これでいいんだ”と思った。復讐なら、他のやり方がある。私立探偵の自分にしか出来ない復讐のしかたがあるはずだ。夕美は、喜んでくれるだろうか?それとも、ふがいない自分に、あの世で愛想をつかすだろうか。
 その答えは、きっと一生わからないだろう。
「あの世に逝ったら。直接聞くことにするさ。」
 呟き、目を開けると、タカシは銃口を、口の中に突っ込んでいた。
 二人の視線が逢った。タカシは、淀んだ眼に、涙を浮かべていた。その涙は、どんな意味のものであったろうか。
 銃声が室内に響いて、未久の悲鳴でかき消されて、その答えも、永遠にわからなくなってしまった。

 高梨は、タカシの躰から離れたプレートを手に取ると、部屋を後にした。
 悲嘆に暮れる女を残し、心に浮かぶのは怒りだけだった。悲しみもあったが、大きな怒りに打ち消され、沈んで消えていってしまった。
 ポケットの中のプレートを握りしめて思った。
 おれはどんなことでもしてやる。悪魔に魂を売ってでも、全ての精算をしてやる。

 ポケットの中では、悪魔が蠢いていた。


「へぇ、コイツはスゲェや!」
 シタッパこと下山重蔵(28・会社員)は薄ら笑いを浮かべながらその光景を楽しむように眺めていた。
 白いスーツが汚れるのを気にしつつ、血の海を渡っていく下山は、かすかなうめき声を聞き、立ち止まった。
「スゲェ!スゲェよ、まだ生きてるぜ。」
 その視線の先には、ずたぼろになったクヌギの姿があった。すでに意識は朦朧としているだろうが、その指先はきっちりと銃を握り締めていた。
「使えるな...」
 下山は薄ら笑いをうかべつつ呟いた、その笑みはまるで新しいオモチャを見つけた子供のようであった。

 薄暗い作戦司令室、そこは株式会社悪の秘密結社の本社である雑居ビルの地中深くに設置された部屋である。
 そして、その隣には技術開発室がある。今、その入り口では<手術中>のランプが点灯していた。
 その中では、運び込まれたクヌギが新しく生まれ変わろうとしていたのであった。
「ダイジョーブっすかねぇ?また変な趣味的なものを作ってなきゃいいですけど。」
 薄ら笑いを浮かべつつ、下山が早坂に向かって言う。
「まぁ、あのヒトも多分に趣味的なヒトだからなぁ、あのプレートだって、直感で作っただけで、効果に関しては実験を繰り返してやっとわかったようなもんだし。」
 苦い笑いを浮かべつつ早坂が応じる。そして、その数々のハカセの発明が頭をよぎっていた。

<降霊装置>、完成したはいいが、使い方がハカセにも分からないというような代物で実験もなにもあったものではなかった、今は地下3階の倉庫で埃を被っているはずだ、ただ、その装置があるせいかどうかはわからないが、倉庫内では奇妙な現象が観測されている、ラップ音とか騒霊とか。

<まぬけ時空発生装置>、これはその装置を中心に人間がマヌケになってしまう空気を発生させるものだったが、その範囲が半径50cmに限定され、装置を止めに行くとマヌケになってしまい、結局誰もスイッチをオフにすることが出来ずにやはり地下倉庫で稼働中である。

<怪人おんな男>、画期的な人体実験ではあったが、出来て来たのがただのニューハーフだっただけで使い物にはならなかった、彼は今でも元気に新しい人生を生きているのだろうか?

<悪魔合成装置>、出来あがってみれば、どこにも悪魔なぞはおらず、結局有効性は確認できないままやっぱり地下倉庫行きだった。

<全自動カップラーメン調理器>、マジックハンドでカップラーメンを調理してくれるというものだった、かなり実用性が高いと思われたが、カップヤキソバを作る際、お湯を捨てる機能が無かったため、下山の逆鱗に触れ(下山「こんな水っぽいヤキソバ食えるかぁ!!」)、破壊された。

 などなど...金がいくらかかったか...
 思わず電卓を握り潰してしまいそうである。
 そして、<プレート>。
 唯一、実用性が確認された発明であった、ただし、発明から実験を重ね、やっと最近になって効果がわかりはじめたのだが...
 その実験中にも、今回のような<プレート>の暴走が確認された、それは<コードネーム*G*U*I*L*T*Y*>と呼ばれ、軍事利用の面で各国の軍から注目されてはいるのである。
 だが、本来、その効能は「装着者のやる気を削ぐ」というものであり、社内では暴走は欠陥として認識されていたのである。
 早坂がそういった回想に思いを巡らしているあいだ、下山は<全自動カップラーメン調理器/改>と戯れていた、この<全自動カップラーメン調理器/改>はAIを内蔵しており、下山は最近、このAIの教育にはまりこんでいたのである。
 そして、<手術中>のランプが消え、ハカセこと篠原が技術開発室から出た時、早坂はデスクで電卓片手にぶつぶつと独り言をいい、下山は<全自動カップラーメン調理器/改>相手に説教をしているところであった。
 篠原はため息を一つつくと、静かに言った。

「<怪人おとこ男MK-II>の完成ぢゃ。」

 最初に気付いた時、まぶしさに顔をしかめた。
 眼を閉じ、まぶたごしに強烈な光に瞳を慣らすと、ゆっくりと眼をあける。
(まぶしいな。ここはどこだろう)
 手術室の天井の照明を、ぼんやり眺めながらクヌギはそう思ったが、次の瞬間に記憶が蘇った。
(ちょっと待て。俺は死んだはずじゃなかったのか?)
 クヌギは上体をがばっと起き上がらせる。
 体に痛みが走らなかったことに、彼は不審を覚えた。
 たとえ生き残れたとしても、一生後遺症に悩まされそうなほど傷を負っていたはずだ。そして、彼は自分の体を見まわした。
「な、なんだこりゃぁ〜」
 一方その頃、上の事務所では<全自動カップラーメン調理器/改>がハカセのために「ごんぶと」を作り始めていた。
 そして、「ごんぶと」をハカセが美味しそうにすすり始めたころ、クヌギは呟きをもらした。
「う、うそだろ。こんな冗談は生方だけで十分だ・・・・」
 傷痕1つない、ウレタンのような素材でできたマッチョの自分の体を、呆然としてクヌギは見下ろしつづけた。
 彼の額には「男」という文字が燦然と光り輝いていた。


 高梨は、事務所のソファーに夕美の体を横たえると、自分もソファーに腰を下ろした。
 懐から携帯電話を取り出すと、高橋にコールする。
「はい、高橋だが」
「俺だ、賢治だ」
「お前、何したんだ? さっき通報があったぞ。そろそろそっちに警官が行くころだと思うが」
「夕美が死んだ」
 高梨はぼそっとつぶやく。
 受話器の向こうで高橋が息を飲むのが聞こえた。
「そ、そうか、何と言ったらいいか・・・」
「何も言わなくていい。仇を討とうとしたんだが、できなかった。奴は自分で死にやがった。調べれば分かると思うが」
 沈黙が続く。しかし、それを破ったのは高梨の方だった。
「だが、あの男を殺したところで仇を取ったことにはならない。なぜ、夕美が死ぬことになったのか、その真実をつきとめなければ」
「俺で力になれることがあるのか?」
 高橋が言葉を返す。
「ああ、まずは、夕美を埋葬したい。事件にならないように埋葬できるよう手配してくれ。それと、情報がほしい」
「何の情報だ?」
「猟奇殺人現場が見つかったはずだ。夕美もそこで襲われたらしい。軍隊の連中が死んでたから、上はもみ消そうとするだろうが、できるだけ情報を集めてくれないか?」
「あいかわらず難しいことをいいやがる」
 ため息と苦笑を高橋はもらす。
「分かったよ。夕美ちゃんの仇だもんな。俺も協力させてもらうよ。ただ、おれが首になったら面倒見ろよな」
「男の相棒はいらねぇよ」
「お前の相棒なんて、俺だって願い下げだ。もう懲りてるんだ」
 2人は最後に笑いを交わすと、電話を切った。
 その瞬間、首の後ろに蟻走感が走った。
 高梨はとっさに首の後ろに手を回すと、つかんだものを床に投げ捨てた。
 丸みを帯びた鈍く光るプレートは、奇妙な細い糸のようなものをうねらせながら、床の上をのたくっていた。
 首筋にちくっとした痛みが少し残っている。
「どうやら、危なかったみたいだな」
 高梨は一言つぶやくと、そのプレートをじっと見つめていた。
 タカシの首の後ろから離れたそのプレートを握ったとき、たとえ自分じゃなくなろうとも、このプレートに身をゆだねてみようという気になっていた。
 しかし、夕美のところへ戻り、その泣き笑いのような顔を見た途端に、その気は失せた。
 タカシが未久のもとで泣き崩れていたように、自分も後悔することはしたくなかった。
 それに、ああやって自分のことを抱きかかえてくれる人間は自分にはいないのだから。
 このプレートの持つ力に手を出した時、死の間際の夕美の残した微笑みが、全て無になってしまうと思ったのだ。
 プレートにとりつかれたタカシが最後に恋人の胸で自分を取り戻せたように、自分はとりつかれる前に相棒によって救われたのだ。
 高梨は、自分がいかに深く彼女を愛しているのかを、その時初めて悟ったのであった。だからこそ、自分は最後まで夕美が知っている賢治でいようと思った。その上で真実を突き止めるのが、探偵である自分の復讐の仕方なのだ。
 高橋が部下を連れてやってくるまで、高梨は彫像のように立ちつくし、プレートを眺め続けていた。
 高橋の銃を受け取ると、賢治はプレートを撃ち抜いた。
 その時、そこに居合わせた全員が、奇妙な絶命めいた悲鳴を聞いたように思ったが、誰もそのことを口に出しはしなかった。
 夕美が運ばれていく時、高梨は窓の外を眺め、そちらに視線を送ることはしなかった。 肩が小刻みに上下していたのを高橋は確認したが、何も言わずに事務所を後にした。
 窓から入る街灯の明かりによって、真っ暗な室内に、賢治の影だけが長くのびていた。

 とりあえずクヌギはベッドの上から降りた。
 信じたくはなかったが、これが夢ではない以上、どうしてこうなったのかをクヌギは知りたいと思った。
 壁にかかっていた姿見に自分の格好が映る。
 それを目にした瞬間、クヌギはなぜあの場で死ねなかったのかと悔しくてならなかった。
 額には「男」の文字。
 上半身は「コント」で使われるようなマッチョの肉襦袢状態である。
 腰にはブーメランパンツ(革製)。
 そして、プロレスラーのような下半身にはなぜか網タイツ。
 そして、悲しいかな、それらはすでに体の一部であったのだ。
 かつての、自分の姿を思い出す。
 よく引き締まり、鋼のようにかたく柔軟性を持っていた上半身。
 下半身も猫科の猛獣を思わせるような強靭でしなやかなものだった。
 体中に傷痕が残っていたが、それらも自分の戦場での経験を指し示すものであった。
 全身を使ってため息を吐くと、鏡から視線をはずし、扉に手をかけた。
 鍵がかかっているようだったが、さして力を入れていないのに鍵ははじけとび、扉は開いた。
 扉の向こうには揉み手をしている男がいた。
 白いスーツに赤い薔薇。軽薄そうな笑み。
 判で押したような野郎だと、クヌギは思った。
 男は、陽気な声で言った。
「お目覚めですか、<怪人おとこ男MK-II>」
 クヌギは、目の前が真っ暗になったような気がした。
 分かっていたとはいえ、現実を目前につきつけられると、人間辛いものだ。
 現実は軽い口調で続けてやってきた。
「世界征服のために、はたらいてもらうからね」
 アイデンティティというものが崩れおちていく感覚をクヌギは味わっていた。
「では、君の体について説明しよう」
 曰く。
 パワーは1000万超人パワーで、前作<怪人おとこ男>の1.5倍(当社比)
 クイックネスはゴキブリ並(夏の夜出没バージョン)
 必殺技はマッスルソルト。体から出る汗から抽出された塩を相手にふきかける。(効果については謎)
 パワー残量は額の「男」メーターで分かる。「男」の字が白くなった時に命が尽きる。
 パワー補充には男の暑苦しさが必要。混んでるサウナに3分間いればMAXに補充される。代用は「牛丼」でも可。
 クヌギはもはや、下山の言うことは耳に入っていなかった。


「はい、こちら秘密庁長官室ですが……」
「もしもし、篠原ですが、父をお願いします。」
「は?」
「私、息子です。」
「へ?」
「お宅の所のボケ老人の息子、篠原智彦ですよ。」
「あ、失礼いたしました!し、少々お待ち下さい、ただいまおつなぎいたしますので!」
 受話器の向こうの声が裏返っている。あたふたとした受話器の向こうの騒ぎ様が、ハカセには手には取るようにわかった。

 ちゃらちゃんちゃんちゃん♪ちゃらちゃんちゃんちゃん♪ちゃらちゃんちゃんちゃんちゃらちゃらりらり♪

 発明の狂気的天才・篠原智彦は、日本が敗戦を迎えたあの日の事を、今でもよく思い出す。大人達を信じ、いつかは自分も、国を守る為に空に散ろうと誓った少年の日々。
 戦争が終わると、大人達は少年の誓いを無惨にもあざ笑った。大人達の中には少年を可哀想だと言う人間もいた、だが少年には、大人が自分を哀れむ理由が理解できなかった。少年は戦争で母と妹を失った。二人は一瞬で灰になってしまったので、あまり実感はなかった。何時の日にか仇をとる、だから今は悲しむまいと心に誓うと、不思議と悲しみは消え去っていた。
 大人になって、日本に高度成長の時代が訪れた時、母と妹の顔を思い出せない自分に気付き、初めて戦争を憎んだ。自分を哀れんだ大人の気持ちが、初めて理解できた。
 そして、父を憎んだ。忌々しい戦争を巻き起こし、恥じることもなく日本に巣くう軍人上がりの政治家。非人道的な人体実験を十八番とした旧部隊を米軍に売り渡り、政治家の醜聞を手に握り、まんまと戦後追求の手を逃れた男。
 戦争が終わっても、父は自分の前に一度も姿をあらわさなかった。金だけは届いたが、それには一切手を付けずに勉学に励み、若くして一流大学の助教授の座を手に入れた。  学生党争に政府転覆の夢を見て、教職の身にありながら学生ともに監獄に入ったこともあった。時代の波が流れ去る頃、屈折した野望を目指す中年に、現実に目覚めた同志は背を向け去っていった。
 夢を諦めかけ、絶忘に身を任せかけた頃、今の仲間達と出会った。自分の才能を必要としてくれる、自分と同じ夢を見る同志達。
 老人の胸に、消えかけていた炎が再び蘇った。野望の炎は美しくも老人の枯れ身を燃やし、夢は復讐の臭いがした。

 長かった保留音が終わった。
「もすもす?あんただれじゃあ?わしゃだれじゃ?」
「私ですよ篠原秘密庁長官。貴方の息子の智彦です。私が解らないほど、老人性痴呆症が進行しましたか?」
「なにぃ、と、智彦じゃと!貴様、なんの用じゃ!この恥さらしものめが!」
「いやいや、ちょっと御報告をと思いましてね。父親思いの孝行息子といった所ですか。」
「なにが孝行息子ぢゃばかたれが!儂ゃキチ○イ息子なんぞもった覚えはないわい。」
「私だって、ボケ老人を父親にもった覚えはないですよ。なにが秘密庁長官ですか。」
「なんじゃとぉ、儂がジョントラボルトぢゃと?おぬしボケとるんぢゃないかぁ?」
「…………そんなことはどうでもよろしい。」
「なにがよろしいんぢゃ?」
「まあお聞きなさい。お宅の変な戦闘部隊ですが、うちの秘密兵器でこてんぱんのくしゃくしゃ。すなわち全滅。あっははははこりゃまた愉快。」
「なんぢゃと?そのようなデタラメをよく言うわい。」
「でたらめじゃありませんよ。疑うならお宅の所の三流科学者に聞いてごらーなさいな。では、私の所はこれから新製品のプレゼンがありますんでこれにて失敬。」
「ぷ、ぷれぜんぢゃと?なんかかっこええのお。」
「あ、そうそう、今日のプレゼンには自衛隊のお偉方も御出席とのことで。え?御存じない?おかしいですなー貴方ほどのお偉い方がごぞんじない?こりゃまた失敬おならプー。それではしんずれいいたします。」
「ま、まて!ぷれぜんってなんぢゃい?」

…………プッ……………………プープープー…………………ガッチャン!!


「ハッカッセー!なにしてるんスかぁ?早くしないとプレゼンの時間に遅刻しちゃいますよー」
 地下研究室に独り残ったハカセこと篠原に、シタッパこと下山が呼び掛けた。
「わかっとる、今終わったからすぐ行く。」
 電話を終えたハカセは、研究室のドアからこちらを覗く下山に言った。
「そうっすか、じゃ、先に乗り込んでますからね。早く来てくださいよー。」
 事務所の前に横付けされたバン。その車内には一足先に、シャチョーと"怪人おとこ男"が乗り込んでいた。シャチョーは助手席に座ってタバコをふかしていた。怪人おとこ男(以下、W男と略称)の場合は、"乗り込む"といより、"搭載"という表現が正しいだろうか。狭い車内には怪しい機械がてんこもりであった。怪機械から延びた色とりどりのパイプがW男の身体に突き刺さり、W男の姿は、"怪人"というより最早なにかのロープレの大ボスのようであった。
「うっわーあっやしいなぁこりゃ。検問に引っ掛かったら一発アウトですね、これじゃあ。」
 ハカセを呼びにいったシタッパが帰ってきて、運転席に乗り込んだ。それから少し遅れて、ハカセが後部座席に乗り込む。
「ハカセ、この機械の山はなんなんすか?」
 シタッパがバンを発進させながら言った。
「プレゼンに向けての最終調整用機械だ。車内で作業を行う。」
 その口調は、先ほどの電話とはうって変わり、しっかり天才発明家の口調に戻っていた。
「つったって、途中で警察の怪しまれたらヤバいですよ。」
 キザな上に小心者のシタッパであった。シャチョーが言う。
「心配するな、今回のプレゼンの相手がだれだか知ってるだろう?そんな事より運転に集中しろ。目的地と時間は大丈夫だろうな。」
「ハイハイ、お台場に26時ですね。飛ばしますから、しっかりつかまっててくださいよー」


「お前と尾行なんて、現役時代以来だな。」
 高橋の用意した覆パトの助手席で、高梨が呟いた。
「確かに懐かしいな。"だいぶ危ないデカ"って言えば、ヤクザも震え上がったもんだ。」
 運転席の高橋が苦笑まじりに答えた。
「そのコンビ名、なんとかなんねぇかなぁ。」
「しょうがねえだろ、俺達が自分で名乗ったわけじゃないんだから。」
 目標のバンが発進すると、二人の軽口が自然と途絶えた。バンの横には"(株)悪の秘密結社"と記されていた。


「おぬしらぁ!そんな大事なことをなぜ儂に黙っとったんぢゃぁぁぁぁ!」
(秘密庁長官閣下が、お忘れになっていただけでございます。)
 政界に強力なパイプを持ち、そのパイプを政治家の下半身を握ることで不滅の物とした権力者に対し、面と向かって事実を言える者はいなかった。
(ボケてなきゃ言えるんだけどなー)
 と、秘密庁のスタッフは思った。でも口には出せなかった。
「陸上自衛隊戦隊が全滅ぢゃとぉ!おぬしらぁそろいもそろって、この無能者めがぁ!」
(やだなぁ、なんでこんなボケ老人のあいてしなきゃいけないんだろうなぁ。)
 日本の政治家達を影で支配していた男が、ついにボケた。政治家達はそろって胸をなで下ろしたが、次の瞬間再び頭を抱えることになった。
「確かに儂は老いた。しかし老いて尚、この神国日本を守る神務を果たせるのは儂しかおらん。」
 ボケ老人のわがままのせいで、莫大な税金を投入した国防組織が結成された。ボケたとは言え、いつ昔のことを思い出すかわらないからである。暗殺計画も謀られたが、老人の堅固な予防線によって計画いつもはかなく破れた。日本で一番恐ろしいボケ老人の為の養護施設は"秘密庁"と名付けられた。組織的には対した秘密を持ち合わせていなかったが、国民に怒られるのが嫌だから"秘密庁"と名付けられたのである。
「"ぷれぜん"というのがなんなのかは、よーくわかった。とっても素晴らしい制度ぢゃな。」
(あんまわかってないんじゃないかなー)
「しかし、けしからんことが一つある!」
(はじまっちゃったよ)
「自衛隊が参加するというのはどういうことぢゃ!!連中はなぁんの為に秘密庁が存在すると思っちょるか!」
(ホント、なんの為なんだろーなー)
「ええい、妨害あるのみぢゃ!!"アレ"ぢゃ!"アレ"を投入し、連中のぷれぜんを妨害するのぢゃ!ついでにあの馬鹿息子をこてんぱんにしてくれるわ!!」
「ア、アレだけ御勘弁くださいませ閣下!アレが起動したら取り返しのつかない事態が発生いたします!」
「ええいうるさい!おぬしら臆したかぁ!なんの為にアレを作ったと思っちょるか!それともアレは、儂の馬鹿息子の発明品以下の代物かぁ?ん?答えようによってはおぬしは即死ぢゃぞ?」
「イ、イエ閣下、アレの性能は保証いたします。それはもお"火の七日間で世界をやきつくす"程の実力でゴザイマス。」
「ならば起動じゃ、ほれ、"ポチッとな"と行かんかい。」
「し、しかしアレは、遺族から捜索願いも出てますし…………閣下、何卒御勘弁下さいませ!」
「ほれ、ポチッとな。」 
「あーあー。もおおしまいだぁ。」

 その瞬間、神奈川県の向ヶ丘遊園地の小山が二つに裂け。中から"アレ"が表れた。


 深夜のお台場。高梨は海を眺めていた。黙ってタバコに火をつける。頭に浮かんだのは、やっぱり夕美のことであった。
 思いでを振払う為に頭を振り、タバコを海に投げ捨てる(いけません)振りかえると、少し前にテレビで見かけた男がいた。
「あの、勘違いだったらごめんなさい?ひょっとして木村前防衛庁長官だったりします?」
 その男は、数年前に突如蒸発した前防衛庁長官であった。前とはいうが、蒸発前は現役の防衛庁長官であったのだ。
 現役の高級官僚の失踪事件はかなりのスキャンダルであるが、世間からはすっかり忘れ去られていた。しかし事件をTVで見た高梨は、蒸発者の顔をハッキリと覚えていたのだ。私立探偵ならではの特技と言えるだろう。
 男は紺の背広を身にまとい、頭は白髪まじりの七三別け、地味なネクタイと黒ぶち眼鏡が良く似合っていた。
「どうか御内密に。世間に知られる訳にはいかないのです。」
「まあ、そうでしょうなぁ。」
「お察しいただけますか?」
「ええ、それはもお。よーくわかりますとも。」
「感謝いたします。私には任務がありますので、これで失礼いたします。」
「ちょ、ちょっとまってください、御家族が心配されてますよ?お帰りにならないんですか?」
 男はその高梨の言葉に過敏に反応し、眼鏡を外し、ネクタイで流れる涙を拭った。
「この任務が無事終われば、晴れて家族のもとにか帰れるのです。ほんとうに辛かった、でもやっと終わる。」
 と、感極まったように、大声で泣き出してしまった。
「お気持ち、よーくわかります。さ、涙をふいて。よろしかったらお話を聞かせて下さい。なにか御協力できるかもしれませんしね。」
「ありがとうございます、こんな汚職まみれの私に、なんとお優しきお言葉を………………」
「まあまあ。さ、お話下さい。」
「ええ、任務とは他でもありません。あ、その前に名刺をお渡しするの忘れてました。」
「こりゃまた大きな名刺ですねぇ〜」
「任務っていうのはですね、今からここに現れる"悪の秘密結社"を、私が退治するという任務でしてねぇ。」
 男から受け取ったやたらに巨大な名刺を見ながら、高梨は言った。
「それは寄寓ですねぇ。」
「へ?」
「いや、私にもお手伝いできそうですよ。任せておいてください。いいアイデアがあります。」
「ほ、ほんとですか?それは大変有り難いです!申し送れましたが私…」
「いえ、ご名刺頂いたんでお名前は大丈夫ですよ。防衛庁長官ロボさん、これからよろしく。」
 お台場の満月の下。
 身長15mの防衛庁長官ロボと私立探偵が、熱い握手を交わした。

 お台場、フジテレビ本社ビルの影に七三分けの頭が見え隠れしている。
(やっぱでかすぎるんだよなぁ、隠れるトコ少ないしさぁ...)
 高梨の背中が語っていた。しかし、防衛庁長官ロボにその言語を理解できるわけはなかった。それぞれの情報交換が終わった後、高橋は偵察のため潜行していた。所定の位置に着いたら携帯電話を鳴らす予定のはずだが、まだ電話は無い。
(おかしいなぁ、なにやってんだあいつ?)
そう思い、逆にこちらから電話しようと考え、電話を手にした瞬間着信があった。
「もしもし...高梨ですが...」
「やぁ、どーも...はじめまして、ですかねぇ、まぁ、以前にお会いしているんですが、お気づきになられてましたか?」
 その声は、池袋で見かけた変な外人と一緒に居たあのすちゃらかな日本人の声だった。高梨は職業柄、一度聞いた声は忘れない。
「どうやってこの番号を?」
(まさか高橋がドジ踏みやがったのか?!)
 胸騒ぎを押さえつつ、押し殺した声で高梨は応じる。
「いやねぇ...火乃木でしたっけ?あそこのウェイトレス、あの娘可愛いですよねぇ―。」
「貴様まさか?!桜ちゃんになにをした?!」
「そうそう、桜って名前ですよ、よくご存知ですねぇ。実を言うと、まだなにもしてませんよ、デートに誘おうと思ったんですが、断られちゃいましてね、でも、あなたの連絡先を聞いたら簡単に教えてくれましたよ。」
「桜ちゃんは無事なんだろうな?!」
「えぇ、元気ですよ、とは言っても、さるぐつわ噛まされて、両手の自由もうばってありますけどね。今も、デートに誘ってみたんですが、やっぱり断られちゃいましたよ、あっはっはっは。」
「貴様...桜ちゃんは今ドコに居るんだ?!いったいどういうつもりなんだ?!要求はいったいなんだ?!」
 一気に言うと、その後は言葉が続かなかった。
(どうもこいつは苦手だ...)
 高梨は直感した。
「そうそう、これからが本題ですよ。」
 受話器の向こうから聞こえる声には笑いの微粒子が混じっていた。
「なんだ?なにが言いたいんだ?その前に俺の質問に答えろ!」
「あぁ、彼女は今ここに居ますよ、フジテレビのビルのあの丸いヤツ、ありますよねぇ?あそこですけどね。」
「彼女は無関係だぞ!開放しろ!!」
「まぁ、その辺は置いておいて、その変な巨大ロボットですがねぇ...たしか前の防衛庁長官だったと思いますけど...」
「置いておくなぁ!!!」
 高梨の怒声にひるんだか、一瞬間が空く、だが、そんな様子は表面的にはおくびにも出さず、下山は続けた。
「そのロボットですが、我が社のプレゼンに使わせていただきます、百聞は一見に如かず、って言いますしね、で、危ないんでどけててくださいね、早く逃げないとまきこまれちゃいますよ、それでは...」
「待て!!こっちの話は終わってないぞ!貴様達のせいで夕美が!!!!」

プッ...ツー...ツー...ツー...

「ちっ...高橋のヤツ!なにしてやがる?!」
 一連のやり取りを15m上から見下ろしていた防衛庁長官ロボは器用に肩をすくめた。
「おーい!高梨!今さぁ、そこでさぁ、藤原紀香に会っちゃってさぁ、いやぁ、ありゃいい女だなぁ、どー思う?藤原紀香。」
 高橋が藤原紀香のサインの入ったネクタイを見せびらかしながら帰ってくると、高梨は防衛庁長官ロボに命じた。
「こんなヤツ、踏みつぶしてしまえ...」

ずがーん(ぷち)!!!

 高橋は防衛庁長官ロボとアスファルトの地面の間で思った。
(藤原紀香より深田恭子の方が良かったかなー...)


 その頃、フジテレビ本社ビルの最上階、ちょうど球状になった部屋では、篠原が人目もはばからず<怪人おとこ男MK-II>を前に作業を続けていた。まわりには黒山の人だかりである。
「いつのまにこんな準備を?」
(この人、いったい何考えてるんだろーなー...)
 居心地が悪そうにしていた早坂がいぶかしげに聞く。その横では下山が桜を口説き続けていた(下山「いーぢゃん、ディズニーランドくらい、こっから近いよ?どう?」桜「むぅーっ...うぅーっ...」)。
「ふはははは、こんなコトもあろうかと、事前にフジテレビ本社ビルを改造しておいたのじゃよ。」
(やっぱどっかおかしーよなー、この人...)
 早坂は思った。
 早坂は根っからの会社人である、会社経営にしか興味はないのである。
(金になると思ったんだけどなぁ...はぁ...)
 ため息を一つつく。
「ため息を一つつくと幸せが一つ逃げていくって本当かなぁ?」
 独り言を吐き出したとき、篠原が叫んだ。
「よし、接続は完了ぢゃ!がはははははははは!」
 黒山の人だかりの中、篠原は自慢気に説明をはじめた。
「良く聞け愚民ども、前に準備しておいたこのビルに<怪人おとこ男MK-II>を接続した、これにより、このビルは<怪人おとこ男MK-II>の思いのままぢゃ!」
 そして<怪人おとこ男MK-II>を振り向き叫んだ。

「行け!行くのだフジテレビロボ!忌まわしい記憶とともにっ!!」

 その叫び声を合図にフジテレビ本社ビルは変形をはじめたのであった!


 気がついたら、目の前が真っ暗だった。動こうとしても、身動きがとれない。
 首がおさえつけられてるようで動けないのだ。
 目の前の真っ黒な壁が少し動いた。そのとき、首の近くで何かがちぎれる音がして、動けるようになった。
 頭の上の方が明るいので這いずり出ると、自分がばかでっかい革靴の土踏まずの部分にいたことが分かった。
 革靴の上には15メートルの、人間そのままに見えるロボットがついていた。

 高橋豊38歳。死地よりの生還であった。

 高橋は、洒落の分からない奴、という呟きをもらしつつ自分の胸元を見て愕然とした。
 藤原紀香のサインごと、ネクタイがひきちぎられていたのである。
 がっくし。高橋は肩を落とすものの、しかしすぐに立ち直った。
 いー女だけど、やっぱ藤原紀香は二の腕が太すぎるよなぁー。
 あごの下の弛みも気になるよなー。
 やっぱ、今は広末でしょ〜。
 そして、高橋は、変形を続けるフジテレビビルの中へと急ぎ足で入っていったのである。


 下山は、フジテレビビルが変形を遂げようとも、全く気にせず、桜を口説き続けていた。猿ぐつわに両手しばって口説くもくそもないもんだが。
「はやく”うん”って言っちゃえば楽になるのにねぇー」
 軽薄そのものの顔に嫌らしい笑いを貼りつかせて、下山は桜に話しかける。
「最初はデートでいいってば。おごっちゃうよ?焼き肉でも食べに行く?で、その後は・・・」
 18禁の妄想を頭の中で巡らせつつ、ぐふぐふと笑いを漏らす。
 桜は必死で下山から遠ざかろうとするが、椅子に座らされ、両手を万歳された状態で手首を縛られ、全く身動きがとれない。
 下山重蔵28歳。世界征服と書いて「しゅちにくりん」と読む男であった。
 そもそも、彼の野望はハーレムなのである。
 男の夢って言ったら、そりゃハーレムでしょー。
 そーいう男なのである。
「世界まではいかなくても、国を征服した過去の偉人なんつーのはみんな後宮持ってんのよ」
 そーいってはばからない男なのである。そのためにこそ、世界征服を夢見ているのであった。
 そんな男に捕まってしまった桜。もはや合掌としか言いようがない。
「しゃきーん」
 自分で擬音を発しつつ、懐からナイフを取り出す。
「ウェイトレスの服ってそそるよねー」
 言いつつ、ナイフの刃を桜の服の肩口あたりにあてる。
 スパッと肩口が切り裂かれる。
 色白の桜の肌が、服の切れ目からあらわになった。

 フラッド・キニスン大佐は、軽く驚きはしたものの、くだらなさの念を禁じ得なかった。
 こと軍隊に長くいると、分かることがある。それは、隠密性の高さこそが、戦場で優位にはたらくということである。特に現代戦では。
 こんなに大質量の兵器など、いくら攻撃能力が高くても、戦場ではものの役に立たない。いいとこ弾除けだ。
 ことの真相を確かめるために、この茶番劇の招待を受けたものの、ここまで馬鹿らしいとは思っていなかった。
 ピジョンが誇る都市戦闘部隊0班を壊滅させたほどの連中だ。どんなにすごいものかと思えば、これであった。
 しかし、キニスン大佐は、目をみはった。
 この巨大なビルの中枢になっている、あのあほらしい格好の男。
 その顔に見覚えがあったのだ。
 生気のない、やる気のない顔をしてはいるものの、あの顔は・・・
 紛れもなく、クヌギ少佐であった。

 高梨は、変形を遂げていくフジテレビビルを、呆然と見上げていた。
 開いた口はふさがりそうになかった。
 確かに、少々のことでは驚かなくなっていた。
 身長15メートルのまんま人間のロボットがいたっていいぢゃないかとは思った。
 だけど、フジテレビビルが変形しようとは。
 中にいる芸能人たちはどーしてるんだろー。
 何となくそんなことを考えた。
 当然、中ではパニックが起きていた。突然自分たちの足元が動きだしたのである。
 うわーうわーてなもんである。
 でも、そんなのはこの物語ではどーでもいいことなんであった。
 変形を遂げていくビルを眺めていたので、高梨は高橋がビルに入っていたことにはまるで気付いていなかった。
「そうだ、桜ちゃんを助けにいかなきゃいけない!!」
 高梨は我に帰ると、変形していくビルに自分も飛び込んでいった。


「デートしようよー。うんって言わないと、逆側も切っちゃうよ?」
 下山はまだ桜を口説きつづけていた。
「むーむーむー」
 桜は必死に嫌がる声を出すが、猿ぐつわのせいで、くぐもった声しか出ない。
(いっそ殺して)
 涙を流しつつ、桜は思ったが、こんなやつに殺されるのも嫌よね、と思い返した。
(白馬の王子さまが助けにきてくれちゃったりなんかしないかしら)
(どうせだったら竹野内豊みたいないー男で、うふ)
 桜は現実逃避に成功していたが、もう片方の肩口も切り裂かれ、服の胸元の部分がめくれた感覚で現実に帰ってきた。
 目の前には、もうたまらんというような顔でにたにた下卑た笑いを受けべた男の顔。
 自分の胸元は、白い肌に白いレースのブラジャーがあらわになっていた。
 現実とは、このように恐ろしいものなのであった。
「むーむーむー」
「ふっふっふ。次はそのブラの真ん中のところをちょちょいと行こうかねー」
 鼻の下をのばして、下山はナイフを桜の胸の谷間へとのばしていく。
 桜ちゃん大ピーーーンチ!!


「気をー付けー!!」
 大音声が室内に響き渡った。キニスン大佐の号令であった。
 その途端、フジテレビビルは、かかとを打ち合わせ、敬礼の姿勢を取った。
 <怪人おとこ男Mk-||>がその姿勢をとったからである。
「クヌギ少佐、ことの顛末を報告せよ!!」
「はっ! ターゲットを捕捉、輸送中、ターゲットが謎の怪物に変化し、我々に襲い掛かりました。善戦むなしく我が隊は壊滅。わたしも意識を失いました。次に意識を取り戻すとこの格好になっており、なにか分からないままこのような事態になりました!!」
「よろしい、軍人の誇りを失ってはいないようだな」
「はっ!!」
 クヌギの瞳に理性の光が点りだした。クヌギのアイデンティティ復活の瞬間であった。

 一方その後ろでは、今まさにナイフの刃がブラのカップをつなぐ紐にかかりつつあった。
「いー加減にせんかーい!!」
 すぱこーんといういい音がして、下山がふっとんでいった。
 お笑い芸人もかくや、というリアクションぶりである。
 高梨は、荒い息を整えると、自分のコートを桜にかけてやった。
「遅くなって悪かったな」
 高梨は桜に声をかける。
 一方桜はというと、
(やーん、高梨さんぢゃちっともかっこよくないよぉー。せっかくテレビ局なのにぃ)
 などと考えていた。
 おもいっきしどつかれた後頭部を摩りつつ、下山が立ち上がった。
 そして黙ってポケットから深紅のバラを一本取り出し、気障な素振りで胸ポケットに差し入れる。
 ポケットに薔薇なんかしまっちゃうおおばかもの。それこそが下山の真価である。
 当然、薔薇はボロぼろ(プ)
「なにをなさるんですか、あなた、野蛮ですねぇ?」
「うっさい!いたいけな女の子にこんなひどいことしておいて、なぁに気取ってやがる!」
高梨が怒鳴った。
「桜ちゃんの代わりに、お礼をさせてもらうとするか。」
 指をポキポキ鳴らしながら、高梨が下山に歩み寄る。
「失礼なお方ですねぇ、僕はこれからこのお嬢さんをエスコートしなければならないのですよ。」
 そう言いながら再びポケットに手を入れ、素早くデリンジャーを取り出し、高梨の胸に向けて構える。
「したがって、あなたのお相手をしている時間はございません。」
 下山の頬に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「…卑怯者め。」
(コートの裏に拳銃を忍ばせながら、敵に先を取られてしまった。)
 高梨は、自分の油断を素直に認めると同時に、頭の中で、起死回生の一策を必死に考じた。
 考えながらも頭の中の思考を隠す為、大人しく両手を上げた。
「おや、ずいぶんと素直なんですねぇ。」

 ここで本当ならば、下山の高笑いが、フジテレビの変な丸い部屋の中にコダマするはずであった。だが、周りは周りで大騒ぎである。
 自我を取り戻したクヌギVSそのコントロールを再奪取せんとるハカセの、傍目にはなんだかよくわからない戦い。
 ハカセは怪機械のボタンを連打している。秒間16連打を成功させれば、再び<おとこ男MK-II>のコントロールが可能になるらしい(ハカセ談)
 見兼ねたフジテレビの社員が、スチール定規をハカセに手渡そうとしたり、その親切なADに、キニスン大佐が銃を突き付けたり、そのキニスン大佐に、学生時代柔道部主将だったシャチョーが大外刈りをかけてみたり。
 犬は二ャンと鳴き、ネコはワンと鳴いた。
 その騒ぎを何と勘違いしたのか、見物人が”写つルンです”で記念撮影をする。
 ところでそのころ高橋は、エレベーターで一緒になった織田裕二にサインをねだっていたりした。

 そんなこんなで、高梨と下山の事など、だーれも気にしてなかったのである。

 (…こんな時マーロウ、あんたはどうしてたっけ?)
 高梨は頭の中で、彼にとって至高のハードボイルド・イコン、フィリップ・マーロウその人を思い浮かべた。
 そして、至った。
(あの手でいくか)
「おいあんた。そんな小口径で俺の身体を打ち抜くつもりかい?」
 あくまで平然とした口調で。
「生憎と俺の身体は、デトロイト製の鋼鉄でできてるんだけどね?」
 挑発のつぎに起こすアクションは、すでに頭の中にある。
 しかし、その瞬間

 <ごちーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!>

 という音がしたかと思うと、下山が股間を両手で押さえ地面にうずくまった。
 口からはカニさんみたいに、泡が吹き出ている。
「やるなぁ桜ちゃん。護身術の極意ってやつだね。」
「まったく、じょうだんじゃないですよーだ!コノ!コノ!」
「まあまあ、そのくらいにしといてあげなよ。」
 男の急所を蹴り上げられ、白目をむいて倒れる下山に向かって、高梨は呟いた。
「やれやれ、お前さんに同情するぜ。」
 激痛にあえぎながら、下山が言った。
「…こんなことなら、あの女に手ぇだしときゃよかった…こんなガキじゃなくって…」
「だれが”ガキ”どぇすってぇぇ!?」
 女24才、下山におもいっきり蹴りを入れた。
「まあまあ桜ちゃん、ストンピングはヤバいって。」
桜を羽交い締めしかけた時、高梨はある小さな違和感に気付いた。
「おい、”あの女”ってなんのことだ!」
慌てて桜を放し下山を揺さぶるが時すでに遅し、下山はすでに気を失っていた。


「へぇ、コイツはスゲェや!」
 シタッパこと下山重蔵(28・会社員)は薄ら笑いを浮かべながらその光景を楽しむように眺めていた。
 白いスーツが汚れるのを気にしつつ、血の海を渡っていく下山は、かすかなうめき声を聞き、立ち止まった。
「スゲェ!スゲェよ、まだ生きてるぜ。」
 その視線の先には、ずたぼろになったクヌギの姿があった。すでに意識は朦朧としているだろうが、その指先はきっちりと銃を握り締めていた。
「使えるな...」
 下山は薄ら笑いをうかべつつ呟いた、その笑みはまるで新しいオモチャを見つけた子供のようであった。

**********

 さて、読者諸君。ここで多弁なる筆者に、少し語る時間を頂きたい。 
 賢明なる読者諸君の中には、本編の中に幾つかの謎が残されていることにお気付きであろう。
 その謎とは、本編のヒロイン(?)にまつわるミステリーである。
 <そんなもんねーって>とかいわないように。謎があるったらあるんだい。

謎/1:夕美が、”賢治”をさがしていた場面を覚えているだろうか?
 あの時彼女は<なにか>を知っているかのようであった。
 彼女は確かに<大変なことになってる>と言っていた。
 何者をも感知できなかった危険を、なぜ故に彼女は知り得たのだろうか?

謎/2:<火之木>における、高橋と高梨の電話の内容を覚えているだろう?
 あの時の高橋の態度に、なにかおかしな点は感じられかっただろうか?
 高橋は真面目だけが取りえの男(高梨談)である。極度のミーハではあるが。

 では諸君、しばしの間筆者と共に、その真実を眺めてみようではないか。

 事務所を飛びだした夕美には、だいたいの予想がついていた。
(あのおやぢ、なんの連絡もよこさずにあの有り様。さては、逃げられたな。)
<あの有り様>とは、事務所の荒れた様を差している。
 あの日荒れ果てた事務所を飛び出した夕美は、高梨の行動を的確に予想し、自分の仕事をこなす為池袋に向かった。

 (株)悪の秘密結社
 その所在地は、意外に簡単に探し出すことができた。
 電話帳で調べたのである。まさか登録されているとは、夕美も思わなかった。
 平然と記された電話番号を目にした時、夕美は疑いながらも探りの電話を入れてみた。
 間違い電話を装って電話を切った後も、そのシュールな現実がにわかには信じられなかった。
(しょうがないわよね。私があのおやぢをフォローしないと、お給料でないもんね。)
 そう自分に言い聞かせながら、怪しい<秘密結社>を目指し、池袋に向かったのである。

 目標の雑居ビルを発見した夕美は、そのまま張り込み体勢に移行した。
 探偵助手生活の間に身につけた張り込み技術はなかなかのものであった、だがしかし、夕美ほどの美貌の持ち主ともなると、嫌が応にも目立ってしまう。
 言い寄って来るナンパ小憎をあしらっていたその時、顔見知りの男が怪しい事務所から出てきた。
(あらやだ、おやぢの知り合いの高橋刑事じゃない。)
 声を掛けようと歩み出て、すぐおかしなことに気付いた。
 高橋の足取りが、妙におぼつかないのである。
(お酒?いや、まさか…)
 刑事ともあろうものが、こんな真っ昼間から酔って街をうろつくなど、考えられない事だ。
 携帯の呼び出し音が、高橋の背広から鳴り響いた。ふらふらの手で携帯を取り出し、なにを思ったか電話ボックスに入っていった。
 夕美は電話ボックスのすぐ間近まで、小走りで近づいた。
 雑踏のせいもあり、電話の内容までは聞き取れない。
(尾行にも気付かないなんて、やっぱおかしいわね。)
 電話ボックスの中の高橋は、電話を切ると、突然昏睡状態に陥ったように倒れ込んだ。高橋の体が、電話ボックスのトビラを押し開け、歩道にもたれ込む。
「あらやだ、ちょっと高橋さん?どうしたんですか?」
 体を揺さぶると、<ZzzzzzZZzzz>と、気持ちよさそうな鼾が聞こえてきた。
「なんだ、寝てるだけか……ってやだちょっと、こんなところでどーしたんですか?起きてくださいよー」
 頭を起こし、頬をパチパチと叩いている時、高橋の首の裏に当てた手のひらに、妙な感覚を覚えた。
「キャ!」
 首の裏を覗くと、例の怪しい<プレート>が、妙な触手をうごめかしながら、高橋の首筋に張り付いていた。
「ななな、なによこれぇ!」
 一瞬我を忘れた後、気丈にも<プレート>をひっぺがし、ヒールのそこでぐしゃぐしゃに踏み砕いた。
 夕美の足の裏底から、なんとも言えぬ気味の悪い叫び声が響いた。恐らくそれは、<プレート>の断末魔の叫びであったのだろう。
 (と、とにかく怪しすぎる。)
 そう頭では思いながらも、夕美は目標事務所の調査を継続した。
 悪い男にひっかかった女は、たいがい強くなるものである。
 高橋は体はそのままにしておいた。眠っているだけならば、すぐに目を醒すであろう。
 地下事務所にへの階段を下り、看板ついたドアをノックしようとしたその時、なかから微かな会話が聞こえてきた。
(…それで被検体の状況はどうなっているのですか?…)
(…詳しいことはわかっておらん。だがしかしアレのスペックは折り紙つきぢゃ。真の覚醒を迎えることができれば、どんな軍隊だろうが一瞬で全滅ぢゃわい。)
(…またまたぁ…)
(…またまたぁとはなんぢゃ…)
(…それでハカセ。邪魔者の件なのですが…フランスの傭兵部隊までも、どうやら手を焼いているみたいですし…)
(…なあに安心しておれ、アレが覚醒した暁には、たかが私立探偵ごとき一瞬で肉片となって終わりぢゃ)
(…覚醒すればの話しですよねぇ…)
「引っ込んどれ!この若造がぁ!!」

 ガッシャーーーン!!!

 突然の怒鳴り声に気を取られた夕美は、足下のバケツをひッくり返してしまった。汚いバケツには<永久掃除当番下山>と書き記されていた。
「な、何奴!」
 猛烈な勢いでドアが開かれ、飛び出してきた白いスーツの男と、夕美の視線が合った。
「やあお嬢さん、こんな汚い所でどうしましたか?」
「いえいえ、ただの通りすがりの者ですので、お気になさらずに…オホホ」
「それは残念。よろしかったら中へどうぞ。ここと同じくらい汚い場所ですがね。」
「いえいえ、それでは失礼いたします。オホホホ。」
「そうですかぁ?いやぁー実に残念だなぁ。」
 部屋の中から、再び怒鳴り声が響いた。
「ばっかもーん!なにをしとるか、聞かれたぞ、捕まえるんだ!」
 シャチョーの叫び声よりも早く、夕美は汚い雑居ビルから逃げ出していた。
 通りを駆け抜け、一路賢治もとに……………………


「ハーカーセー!このお嬢さん、僕にくれませんか?」
 気絶した夕美の身体を撫で回しながら、下山が言った。辺りは死体まみれである。
「ばっかもん!この女も無論実験体とする。怪人<おんな男>の製作材料ぢゃ!」
「がっちょーん。」
 下山は肩を落とすと、夕美のスカートを捲り、中を覗き込む。
「ホレ、早く車に積み込め。探偵とやらが来たらどうする。」
 血まみれの手袋を外しながらハカセが言った。
「その探偵が、このお嬢さんをしつこく捜しまわったらどーします?警察なら圧力が効きますけど。」
「なるほど、確かにやっかいぢゃな……」
「でしょ?やっぱり僕が頂いときますよ。」
 一人納得したかのように、ふむふむとうなづいている。
「阿呆垂れ。それじゃぁなんの解決にもなっとらんぢゃろが。」
「いいじゃないですか、その軍人さんでもいぢくりまわせば。<おとこ男MK-II>で十分ですって。」
「だめぢゃ。…しかし、こまったのぉー」
「あきらめます?」
「………よし、良い考えがある。女と、それから死体を適当に二三つ、作業車に運び込むんぢゃ。」
「げー」

 それからしばらくの時間がたったのち。

「完成ぢゃ!!やっぱりわしの技術力は西独一ぢゃな!」
 ハカセの頬が上気して、ほんのり桜色に色付いている。
「うへー、あー気持ち悪かった。」
「気持ち悪くなどないわい。どうぢゃ、見よこの完成度の高さを!これならばちょっとやそっとじゃ見破られやしまい。」
「うへー」
「<僕らの死体シリーズ其の一:妙齢の色気美女Ver.>完成ぢゃ!!!!!!!」
「うへー」
「ほれこの腕をどっかにほっぽり投げておけ。それからこのボデーのほうは、あの化物の餌にでもくれてやれ。」
「なんでそんなことするんっすか?」
「それぐらい猟奇なほうが、探偵も恐れおののくぢゃろうて。びびって手を引いてみせれば、こっちの思うが通りぢゃ。」
「うへー」
「今何時ぢゃ?」
「ええと、夜7時回ってますねぇ。」
「ほれほれ早くせんと、*G*U*I*L*T*Y*の制御をクリアーして、お前を餌にしてしまうぞい。」
「うぎゃー」

 その後の探偵が手を引いたかどうかは、諸君等も知っての通りである。


**********

 ………ガタゴト……ガタガタ…ガタッ!ガコン!!
 (株)悪の秘密結社の地下事務所。掃除用具入れのロッカーの中から、妙齢の色気美女が飛び出してきた。
「うっぱぁぁ!!あんのくっそじぢぃー!御丁寧にさるぐつわまで頂いちゃって、このお礼は、ただぢゃすまないわよ!」
 美しい女は、怒れるその姿までもが美しい。
 長い時間をかけて手の拘束をほどいた夕美は、やっとのことで自由と清潔な空気を手に入れ、ほっと一息といった所である。
 室内の壁時計を見て、一息どころではないと気付いた夕美は、汚れた衣服も気にせず通りに飛び出した。
(お台場に26時って言ってたわよね。間に合うといいんだけど…)
 思いながらも走る、たわわな胸が上下に揺れて、通りの男達の視線を釘付けにした。
 しかしそんなことに躊躇している暇はない。
(賢治、無事でいてね。大人しく手を引く貴方でもないでしょ?)
 口に出してみた。
「まったくあのおやぢ、私がいないとクソの役にも立たないんだから!」

 走れ美人秘書。
 夜明けは近い。


 早坂の大外刈りがきれいにきまった。
 背中に衝撃が走る、後頭部をしたたかに打ち付け、一瞬目の前がスパークする、そして鼻の奥にツンとしたきな臭いにおいをかいだ気がした。
 しかし、キニスンは早坂の右手を取り、自分の足をはね上げると、早坂の右腕にからませた、変形の飛びつき腕十字固めである。
 十字固めが決まった瞬間、ためらいもなく腕を折った。鈍い音ともに靭帯が裂ける感触が伝わってくる。そしてからませた足をほどき、両足で早坂の胸を蹴り、すばやくひざ立ちの状態で間合いをとる。
 早坂は自分の右腕の関節が逆を向いているのを見ると、そのまま失神してしまった。
 早坂が失神したのを見届け、立ち上がると首筋に鋭い痛みが走る。
 そしてその痛みがキニスンを現実に引き戻した。
 クヌギと篠原ははた目には激しいコントロール争奪戦を繰り広げている。
 早坂と下山は失神している、下山は高梨に襟首を捕まれ、ガクガクゆすられている、その横では半裸の女がまわりの群衆の好奇の目にさらされている。
 群衆はロケかなんかと勘違いしているのか一様にはやし立て歓声をあげている。
 キニスンは頭が痛くなった、これが今、彼のおかれている「現実」というものだった。変に現実離れしたその光景の中、彼は彼の現実に立ち返っていた。それは、彼の右手に握られているガバメントの重さであった。
 装填数は15発、マガジンを確認するまでもない、軍人になったときから愛用している銃だ、手に感じる重さで残りの弾数はわかる。
 今のキニスンを現実につなぎ止める、唯一の重さ、彼は心底から軍人であった。
 鋭い視線をまわりに投げ掛けた後、ゆっくりと右腕を水平に構える。
 その銃の重さを確認するようにこれもゆっくりと左手を添える。
 セーフティロックを解除し、ハンマーを引き上げる。
 深呼吸を一つ、そして息を止め、ゆっくりと確実に狙点をつける。
 ターゲットは約5m先。
 そしてゆっくりとトリガーを引いた。

 乾いた、何かが破裂するような音がした瞬間、約5m先で大輪の花が咲いた。
 それは、血と肉とで作られた赤い花だった。

 篠原はクヌギのコントロールを取り戻すため、スイッチを連打し続けていた。
 途中からはコントロールの事は忘れ、いかに早く多くスイッチを押すことのみに集中していた。
 他のことはどうでも良かった、彼はキニスンに背を向けたまま、ひたすらスイッチを連打し続けていたのだ。
 そして、キニスンに頭を吹き飛ばされてもその指はしばらくその作業を続けていたのであった。
 銃声と、頭を吹き飛ばされた篠原を目の当たりにした群衆は雪崩を打ったように逃げ出した、叫び声をあげながら。
 そして、その場に取り残されたのは、高梨と桜、失神している早坂と下山、そして自我を取り戻したクヌギとキニスンだけであった。

「まぁいったなぁ...」
 高橋はつぶやきを漏らした。
 しかし、その場には高橋以外は誰もいない。
 止まってしまったエレベーターの中でそのつぶやきはむなしく消えていった。
「あいつを助けてやんねぇとなぁ...」
 高橋は元同僚の高梨の顔を思い浮かべて苦笑する。
「うらやましいぜ、あいつが...」
 あの事件以来、彼ら二人はまったく違う道を歩んできた。
 高梨は自由を求め気ままな私立探偵、高橋は職場に残った、秘密庁の諜報員として。
 罰が当たったのだ、彼はそう思っている。
 コンビを組んでいた高梨に嫉妬していたのだ自分は、そうした苦い思い出を奥歯でかみ殺す。
「いっちょやるかね?」
 そうつぶやくと、腰のホルスターからUZIを勢い良くひきだすと、腰だめに構え弾丸をばらまいた。

 クヌギは自我を取り戻した瞬間から、圧倒的な「現実」というものに打ちのめされていた。
 自分は自分であって自分ではない、それは変わり果てた外見、そして今、そう考えている自分が前の自分と同じものであるという保証は全く無いのだ。
 作られた自分、自分が自分ではないという違和感、そういった中、彼は混乱していた。
「殺してください...」
 そう口にした。
 5m先にはまだ銃を構えたままのキニスンがいた。
「殺してください、あなたの手で...」
 もう一度言った。
 キニスンが腕をおろし、険しい表情でこちらを見つめている。
 父と思い、慕ってきた男の目から涙がこぼれていた。
 10年、彼とともに仕事を続けてきた、最初の5年は一緒に現場を駆けずり回った、死線も一緒に超えてきた。後の5年間は自分の還るべき場所として存在していてくれた。
 その10年もの間、彼の涙を見たことは無かった、クヌギはキニスンの思いの深さに感謝し、もう一度同じ言葉を繰り返した、殺して欲しい、と。
 涙は出なかった、涙はすでに奪われていたから、だが、思いの深さは通じている、そう彼は信じた。
 そして、銃声が響き、彼の視界はブラックアウトした。

 タクシーから降り立つと夕美は走り出した。
 足下から一定間隔で伝わってくる振動を追いかけて。
 振動がどんどん大きくなってくる。
 そして振動の発生源を見た瞬間、夕美はあぜんとした、声も出なかった。
 その振動の主は二つ居た。
 きらびやかにライトアップされたフジテレビロボ、それはコントロールを失い、ゆっくりと、しかし確実に歩を進め、海へ出ようとしていた。
 そして、うろうろと困ったようにそのまわりをまわる防衛庁長官ロボ。
 夕美は直感で事態を正確に察知すると、長官ロボに向かって声の限り叫んだ。
「お願い!あのロボットを止めて!あなたにしか出来ないの!!」
「そ、そんなこと言われても、どうすればいいんですか」
 おろおろおろ。
 ここまでの「おろおろ」ぶりは一生でもなかなかお目にかかれるものではない。
 夕美も実際、こんなにおろおろした男を見るのは初めてだった。
「何を言っているのよ! そんなに立派な体をした大の男が、どうすればいいかわからないですって?!」
 夕美は、身長15メートルの防衛庁長官ロボの鼻っ面に人差し指を突きつけた。
「いいこと? あのビルがあのまま真っ直ぐに水平線の彼方を目指したらね、あそこにいる人たちみんな死んじゃうのよ?」
「よ、吉永さゆりも?」
「そうよ、吉永さゆりもよ!!(ががーーん)」
 夕美の断言に、防衛庁長官ロボの背後に稲光が起こった。
「そ、それは大変だ!! さゆりちゃーん、今僕が助けるよーー」
 防衛庁長官ロボこと木村善一。人間でいる頃は熱狂的な吉永さゆりのファンであった。

 現在、フジテレビビルは東京湾に達しつつあった。

 クヌギの額の「男」の文字が、上から白く変化していく。
 <怪人おとこ男MK-U>の最後の時が来ようとしているのだ。
 クヌギは、消えゆく意識の中、左頬に水滴が落ちたのを感じた。
 薄めを開け見上げると、師であり仲間であり、父であった人の目とぶつかった。
(大佐、悲しむことはありません、これは私ではないのです、本当のクヌギは、あの時、怪物と闘って戦士として死んだのですから)
 声にならないつぶやきを表層意識に残し、今度こそクヌギは意識を失った。
 彼の額の「男」の文字は真っ白になっていた。

「畜生、どうなってやがんだ!」
 高梨が扉を叩いて罵声をあげる。
 高梨の後ろには、彼のコートを羽織った桜がしたがっている。
「開かないんですか?」
「残念だが、そう見たいだな」
 高梨はうんともすんとも言わないドアノブから手を放して答える。
「こりゃあ、他の手を考えないとな」
 窓から見える景色が、このビルが海に向かって突き進んでいることを物語っている。
「開かないのかね?」
 落ち着いた流暢な日本語が2人にかけられた。
 2人がふりむくと、ショーン・コネリーのような渋い中年の白人が立っていた。
 (す、素敵ぃ!!!)
 体の前で手を握り合わせ、桜はしばしキニスンに見入ってしまった。
「ちょっと下がっていなさい」
 キニスンは2人を下がらせると、ドアノブを銃弾で打ち抜いた。
 そして、肩からドアに体当たりする。
 震脚のきいた素晴らしい体当たりだったが、ドアは開こうとはしなかった。
「どうやら駄目みたいですね」
 高梨はキニスンに声をかけてから、クヌギの死体に目をやった。
「彼は、お宅の部下だったんですか? 一緒に風呂に入ったことがありますよ。鍛えぬかれた素晴らしい肉体をしていた」
 それから、大きくため息をもらした。
「今回の馬鹿みたいな騒ぎはもう終わりにしたいですよ。あんな馬鹿みたいな連中のために、有能な人間が死にすぎた」
「まったく、同感だ」
 キニスンは心からのうなずきを返す。そして、唐突に右の追い突きを高梨に見舞った。しかし、高梨は左前方に一歩踏み出すと、右手で強烈なその突きをさばいてみせた。
「見事だ。しかも、私の重心までずらすとは」
 キニスンが驚いた顔で高梨を見る。
「昔取った何とかってやつですかね。合気道は物心ついたころからやってましたから」
「ぜひ、うちの部隊に来ないか?」
「冗談言っちゃいけません。あたしは、しがない探偵。それだけなんですから」
 高梨は肩をすくめてみせる。
「惜しいな。お前が来てくれればクヌギの穴も埋まるだろうに」
「やめてくださいよ」
 高梨は言いつつ、クヌギと篠原の死体のある場所へ歩いていく。
 なぜなら、そこにはフジテレビビルを<怪人おとこ男MK-U>につないでいた装置があるためである。
 装置の計器類を、分からないだろうけどと眺めやる。
 が、表示板を見て、高梨は下顎を落っことしそうになった。
<毎秒16連射達成!! フジテレビロボは裏モード「小谷みかこ」へ移行>
 フジテレビロボは、コンピューターで解析されINPUTされた、小谷みかこの演技を行うべく、海に向かっているのであった。

 高梨は、かちゃかちゃとコンソールをいじりだす。
<とびらを開ける方法は?>RETURN
ANCER<鼻の栓を取る>

 あはははははははは。
 高梨の肩越しにコンソールを眺めていた桜と高梨は、目を合わせると力なく笑った。
「フジテレビビルのどぉこぉに、鼻があるっていうんだ?!」
「あったとして、<誰が>そんなもの取り除けるって言うのよ!!」
 高梨と桜は、2人してあらぬ方に悪態をつく。
 そして、無駄とは百も承知で、コンソールを叩く。

<動きをとめる方法は?>RETURN
ANCER<毎秒32連射を10秒間保持する>
<モードを切り替える方法は?>RETURN
ANCER<時計を見ないで正確に10秒間スイッチを押し続ける>
<元のビルに戻る方法は?>RETURN
ANCER<100万点突破する>

 高梨と桜は、うつろな目をして、コンソールを叩き続けていた。

 現在、フジテレビビルは1階が浸水しつつあった。

 と、その時。
 どがあぁぁぁぁぁん。
 大爆音とともに、壁の一部が破壊された。高梨と桜がそちらを見ると、粉塵の向こうに高橋が立っているのが見えた。
「高梨、ここから出るんだろ? 行くぞ。早くしないと。もうすぐ1階部分が完全に浸水しちまう」
「あいかーらず、危ない奴だな。お前いまだにプラスチック爆弾持ち歩いてんのか?」
 高梨が苦笑まじりに高橋に答える。
「ああ、俺も実はまっとうな警察官ぢゃなくなってな。外のでっかいの作った秘密庁の諜報員やってんのよ。んで、これぐらい支給されてるわけ」
 高梨と桜が走り寄るのを待ちつつ高橋が言う。
「お、お前、それじゃあ」
 激する高梨を高橋は手を挙げて制する。
「おっと。そう怒るな。俺も今回のことは詳しく分かっていなかったんだ。それにな、お前に俺を責める権利なんてないんだぞ。てめえだけ辞めやがって。お前が真実を明かす側にまわったんなら、俺は真実を隠す側にまわったまでのことさ」
「ちぇっ。水臭えよ、俺にぐらいは教えてくれたっていいだろうに」
「ばか野郎、お前にだけは言いたくなかったんだよ」
 2人はお互いのあごを拳でなぐる真似をすると、にやっと笑いあった。
「とにかく、最凶コンビの復活ってわけだな」
 そして、3人はシンクロナイズドスイミングをするために海に進んでいくフジテレビロボから逃れるために、階段を駆け降りていった。

 現在、フジテレビビルの1階がちょうど水没した。

「ちょっと何やってんのよ、だらしないわね? あなたそれでも男なの?」
 砂浜から、夕美が海に向けて叫んでいる。
 海には、フジテレビビルと、それに抱き着くように防衛庁長官ロボがいた。
 身長15メートルとはいえ、フジテレビビルの高さに比べたら、かなり小さい。5階よりようやく高いぐらいなのである。
 そして、でかいだけで、スペック的にはまんま人間である。
 がんばって押し止めようとはしているものの、じりじりと押されてしまうのは致し方ないことだろう。
 防衛庁長官ロボは、愛しの吉永さゆりを救うために、顔を真っ赤にしてフジテレビロボの浸水をくいとどめていた。
 一方その頃、吉永さゆりさんは、自宅のTVに見入っていた。ブラウン管には、海につきすすむフジテレビロボと、それを押し止めんとする防衛庁長官ロボが写っていた。
「あれじゃ、時間の問題ね」
 夕美はぼそっとつぶやいた。そして、周りに視線をやると、走り出していった。
 そこには、目当てのものがあった。

 現在、フジテレビビルの2階に水が押し寄せつつあった。

 高梨たち3人が階段を駆け降り(エレベーターは動きをとめていたのである)廊下を走っていると、ドアというドアの向こうから、ドアを叩く音と、開けてという悲鳴が聞こえてきた。
 しかし、動き続けるビルの中を走るというのは、なかなか骨の折れる仕事だった。
 頭の部分はあまり揺れなかったのだが、肩のあたりに差し掛かった時に、立っていられなくなりそうだった。そして、下に降りるのを断念しなければならないほど揺れていた。
 それも、そのはずである。
 降りていた階段は腕へとつながっていたのだから。
 そのため、3人は体の真ん中にある別の階段に向かっていたのである。
「高梨さん、高橋さん、何とかならないんですか?」
「無理だね、桜ちゃん。そりゃ、1つや2つは何とかなるだろうけど、高橋もそんなにプラスチック爆弾持ってないだろうし、それに、おれたちが逃げ切れるかも分からないんだ。ますは自分が助かることを考えよう」
「藤原紀香の楽屋だったら考えないこともないけどねー」
 高梨は高橋の後頭部をはたくと、先を急いだ。とにかくここから脱出しなくては。
 このビルをどうするかは、それから考えることにしたのだった。

 ビルの最上階では、キニスンが無線に向かって話していた。
「・・・・分かった。10秒後に撃て」
 通信をきってからきっかり10秒後、フジテレビビルの最上階の窓がいっせいに砕け散った。ビルに並んでホバリングしていた戦闘ヘリの機銃掃射のためである。
 キニスンは機銃掃射が止むと、窓際まで歩いていく。そして、ロープにつかまると、輪に足を通す。
「ふん。茶番にはもう付き合ってはおれん。しかし、この茶番劇の責任はとってもらわないとな」
 銃声はヘリのローター音にかき消された。
 早坂の頭が爆ぜたが、キニスンは確認しようともしなかった。
 キニスン及びフランス傭兵部隊ピジョンはこの茶番劇から去っていった。
 偶然という2文字だけを残して。

 現在、フジテレビビルの2階が冠水しつつあった。

 突然、ドアというドアが開いた。ヘリから放たれた機銃掃射の流れ弾が、偶然鼻の栓を取り去ったのだ。
 廊下には、芸能人及びその関係者で溢れかえった。
 みんな我先にと下へ向かう。人を押しのけ、押し倒し、踏み付け、パニックになりつつあった。
「な、な、な、なんだぁ!!」
 いきなり階段に人が溢れ出したのを見て、高橋が悲鳴をあげた。
「・・・多分、鼻の栓が取れたんだろう」
 高梨がぼそっとつぶやいたが高橋は首を傾げた。

 一方その頃、屋上では下山がコンソールに向かっていた。
<フジテレビロボを自爆させるには?>RETURN
ANCER<ぷよぷよで8連鎖を達成する>

「それなら簡単だ。30秒もあればできる」
 下山は、つぶやくと、コンソールからなぜか伸びているコントローラーを手に取った。
 そして、30秒後、下山は会心の笑みをもらしつつ、意識を失った。機銃の流れ弾が当たって、肺に穴が開いていたのであった。
 突然、ビル内にアナウンスが流れはじめた。
「自爆スイッチがONになりました。ただいまから10分後に、当ビルは爆発します」
 一瞬、ビルの中が静寂につつまれた。普段だったら、ただの冗談かドッキリだとでも思っただろうが、この状況である。全員がそれを信じた。
 そして、パニックは加速した。
 窓から海へ飛び降りるもの、とにかく早く下に降りようと、階段を落ちていくもの、もう終わりだとつぶやいて、女優に襲い掛かるもの。
 さまざまであった。
 その中、高梨以下3人は、喧騒とは無縁の場所にいた。
 階段に人が溢れかえった瞬間に、高梨と高橋は階段を使うことを諦めた。
 そして、お互いに目で合図すると、人が飛び出し誰もいなくなったスタジオへと入り、目当ての物を集め始めたのである。
 しばらくして、2人は目的の物を集め終わった。
 そして、それらを身につけると、エレベーターホールに向かったのである。
 そして、今3人は、エレベーターを昇降させるケーブルを伝い降りているのである。
 2人が集めた物で簡易的なフリークライミングの装備を作り、それと命綱のロープで降りていく。先頭が高梨、そして最後尾に高橋がついた。
 少しずつ降りていくが、揺れるたびに落ちてしまいそうで恐ろしかった。桜は何度死ぬと思ったかしれない。しかし、とうとう、3人は降りてきた。しかし、そこもやはり浸水していたのである。
「しょうがない。1つ上の階から出よう。ちょっとそこで待っていてくれ」
 高橋は2人に言い残すと上に上がっていく。そして、数十秒後、爆音が聞こえた。

 現在、フジテレビビルの3階も浸水されつつあった。

 夕美は、浜辺に止めてあった水上バイクを直結すると、エンジンをふかした。
 そして、真っ直ぐにフジテレビロボに向かっていく。
 防衛庁長官ロボの力も今まさにつきようとしていた。
(結構頑張った方よね)
 足も腕もぷるぷるいっている防衛庁長官ロボを見て、夕美は思った。
 ファンって凄いのねー。
 夕美がフジテレビビルの側に近づくと、上から人がぼたぼたと降ってきた。
 いずれも芸能関係者である。中にはテレビで見た顔もあったが、夕美は全く気にしなかった。
 夕美には、芸能人の安否よりもお給料を出してくれる人間の安否の方が大事だからである。当然、それ以上の気持ちも持ってはいるのだが、あえて夕美はその感情を無視している。今の関係で十分満足しているからだが、それよりも、自分みたいな美女が、あんなうだつのあがらないへぼ探偵おやぢを愛しているだなんて、認めたくないからである。
 夕美がビルに近づいたところで、中からアナウンスが聞こえてきた。
「爆発まで後、3分。カウントダウンに入ります。175、174・・・・・」
「げ、爆発すんのぉ。勘弁してよぉ〜」
 夕美は、20階ぐらいからアイドルたちが飛び降りる気持ちが分かるような気がした。
 そこら中に水に落ちたショックで失神して浮いている人がいた。また、夕美の乗る水上バイクを奪おうと泳いでくるものもいた。そういう輩には、夕美のかかと蹴り(ピンヒールつき)が容赦なくみまわれていた。

 一方その頃、高梨たち3人は、4階にいた。降りようにも、水はもうすぐそこまで来ていた。
「泳いで帰れないこともないけど、桜ちゃんがいるしなあ。本当に爆発したらやばいんとちゃう?」
 高橋が窓際から海を見下ろしつつ言った。
「んなこと言ってもそれしか方法ないだろ?」
 高梨が高橋に並びながら答える。
「大丈夫ですよぉ。あたしこう見えても泳ぎ得意なんですから」
 桜がにっこり笑ってこたえる。
 岸まではおよそ1Km。数分で泳ぎつける距離ではなかった。
 その時、残り3分のアナウンスが響き渡った。
「迷っている暇はないぞ、もうこうなりゃ泳ぐしかないだろ。1メートルでもここから離れないと」
 高梨の言葉に、高橋も不承不承うなずいた。
「だな、それっきゃないか」
 そして、椅子で窓ガラスを叩き割る。
 と、そこに。
「あっ、賢治! こっちよこっち。早く降りてきなさいってば」
 眼下から、とっても聞き覚えのある声がした。しかし、そんなことはあるはずがないので、高梨はボーっとしたままだった。
 真っ先に反応したのは、夕美の惨殺死体を見ていない桜だった。
「あっ、夕美さん。ほら、高梨さん、夕美さんが助けに来てくれましたよ」
「ほ、本当に夕美なのか?」
「こら、くそおやぢ、時間がないのよ、早く降りてきなさいよ!!」
 とっても懐かしい罵声が飛んできた。高梨は思わず涙ぐんだが、すぐに海に飛び込んだ。そして、夕美の元へ泳ぎ出す。
 水面から顔を出すと、にやりと笑ってみせた。
「確かになぁ。あの死体は美人すぎると思ったんだ」

 よたよたと水上バイクが岸に向かって走りだした。
 運転してるのは夕美である。そして、後ろには桜がしがみついている。
 さらにその後ろに、高橋と高梨がしがみついていた。
「水上バイクに4人乗りなんてするもんじゃないな」
「その通りだな」
 高橋の言葉に高梨は額を押さえながら答えた。額にはピンヒールの跡がくっきりついていた。


 今日も今日とて、池上本願寺駅前商店街の高梨探偵事務所では灰皿が飛んでいる。
 ドアを開けて出てきたのは、言わずと知れた高梨賢治である。
 肩をすくめながらひょいひょいと階段を降り、仕事に向かっている。
 事務所の中には、灰皿を満面の笑みで拾っている美女。
 お互いに自分の本当の心を悟ったものの、以前と変わらない関係を続けている。
「さて、仕事前にコーヒーでも飲むかなぁ」
 高梨は火乃木のドアを開ける。
 中からは「いらっしゃいませー」と元気の良い声。
 今日も池上本願寺は平和であった。


 日本は多くの芸能人を失った。
 フジテレビは、以前のビルでとりあえず営業を再開することになった。
 防衛庁長官ロボの行方は杳として知れない。

終幕


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