桜の下で


「では、よろしく」
 課長にそう言われて、来生良は元気よく返事した。
 彼は、今年の春入社したてのピチピチの新入社員である。
 彼の入った会社はそんなに大きくもない中堅の会社である。そして、彼は例年の新入社員の初仕事となる、花見の場所取りの仕事を任されたのであった。
 最近では社をあげて花見にくりだすところは減ったものの、新入社員との親睦を深め、今年度も明るく働けるように、との建前の下、彼の部署では毎年の恒例行事として、花見を続けているのであった。
 不況ということもあって、彼の部署に配属された新人は一人だった。そして、今回は営業課との合同の花見ということである。営業の方からも、今年配属された新人が場所取りに参加するらしい。二人でよろしく頼む、と言われて、良は嫌な顔はしなかった。

 当日、会社から程近い公園に行くために、最寄りの駅で営業課の新人――松原と待ち合わせると、良は早速公園に赴いた。
 公園は、まだ10時前ということもあって、あまり雑然としてはいなかった。その中で、良は一番桜の見栄えがよくて、座りやすそうなところを探しあてると、用意したビニールシートを広げ始めた。
 松原も、この仕事に乗り気ではなかったようだが、一緒に手伝ってくれる。用意した全てのビニールシートを引き終え、手ごろな石を重りに乗せると、とりあえず良と松原は腰を下ろした。
「なあ」
 と、松原が良に話し掛ける。
「二人でここでじっとしてるのも馬鹿らしくないか。2時間交代で場所取りすることにしようぜ」
 松原の提案に、良はうなずいた。
「そうだね。で、どっちから先に休憩を取る?」
「言い出したのは俺だし、最初は俺が場所取りしてるよ」
 松原の言葉に良はうなずくと、
「それじゃあ、12時半に戻ってくるから。それまでよろしくな」
 そう言って、立ち上がった。
 良は松原を残して、とりあえず公園を一回りする。
 うららかな春の陽射しの中、はらはらと舞い落ちる桜の花びら。
 結構大きい公園の芝生には、犬を散歩させている人も多い。何となく安らかな、幸せな気分に浸りながら良は歩いていたが、思い付いて公園から出た。
(2時間ずーっと座ってるのは暇だからなぁ)
 良は、時間潰しに本でも読むことを決めたのだった。

 本屋で手ごろな短編を1冊購入し、昼食をすませると、良は公園に戻った。時間は12時25分。約束通りの時間である。
「お待たせ」
「よっしゃ、それじゃ2時半に戻ってくるから」
 入れ替わりに松原が去っていく。その後ろ姿を眺めてから、良はビニールシートに横になった。
 周りでは花見を楽しむ子供連れの主婦たちや、散歩をする老夫婦などがいる。格好のポジションを確保し、一人でいることに何となく良は罪悪感も覚えたが、この場所はちょっとした穴場らしく、先ほど見て回った場所ほど混んではいなかった。
 良は、桜の木が影を落とす場所に潜り込むと、早速買ってきた小説を読み始めた。


 ・・・・・・
 こつん。
 足に何かが当たった感触で、良は眼が覚めた。何時の間にか眠ってしまっていたらしい。頭を起き上がらせて足の方を見ると、手毬が転がっていた。どうやら、これが当たったらしい。
 上体も起き上がらせ手毬を拾いあげると、良の前に、傾いた春の陽射しを遮るように、4歳か5歳ぐらいの少女が立っていた。
 良が少女を見つめると、逆光の中で、彼女がじーっと手毬を見つめているのに気がついた。
「お嬢ちゃんのかい?」
 良がたずねると、少女はコクンと頷いた。
「はい」
 良が手毬を手渡すと、少女は嬉しそうに、はずかしそうにはにかむと、手毬を受け取った。そして、数歩後退りすると、そこで手毬を突きはじめた。
 てぃんてぃん・・・
 良はその姿をまぶしそうに眺めていたが、少女が一人なのに気がつくと、心配せずにはいられなくなった。
「お嬢ちゃん」
 てぃん。はずませた手毬を受け止めて、少女が振り返る。
「なぁに? お兄ちゃん」
 可愛い声で少女が答えた。良は、逆光の中、眼をこらすように少女の顔を見つめると、心配そうに声を出す。
「お母さんかお父さんはいないの? お嬢ちゃん一人?」
「あのね、お母さんが迎えに来るの。それまでここで待っていなさい、って」
 それを聞いて、良はちょっと安心した。
「そっか、お母さんが迎えに来るんだ」
「うん、そーだよー」
 そして、また手毬を突きはじめる。良はしばらくそれを眺めていたが、しばらくすると少女が手毬を持って歩いてきた。
「お兄ちゃんも誰か待ってるの?」
「そうだよ。会社の人を待ってるんだ」
「じゃあ・・・」
 少女は良の顔を上目遣いで眺めながら、もじもじと声を出した。
「いっしょに待っていてもいい? 一人で待ってるの飽きちゃったの」
「勿論だよ。おいで。ここに座って待っていようよ」
 良は、できるだけ優しい笑い顔を作ると大きく頷いた。それを見て、少女の顔も輝いたようだった。
「うんっ!」
 そして、少女は良の隣にちょこんと並んで座った。

 しばらくの間、二人はそうして座っていた。
 特に会話を交わすこともなかった。でも、一人で待っているのではない、という気持ちが不思議と心を安らかにしてくれるようだ。
 はらはらと舞い散る桜の花が、夕日を受けて黄金色に輝いている。不思議と周囲の雑踏や喧燥が遠くに感じられた。
 二人はぼーっと前を、陽の落ちる方を眺めていたのだが、やがて、そこに女性の影らしきものが現れた。
「あ、お母さんだ」
 少女は立ち上がると、一目散に女性の元に駆け出していった。母親に飛びつくと、何やら話をしているらしい。
(良かった。お母さんが迎えにきてくれたんだ)
 良は安堵する。もうすぐ陽も暮れようかという時間だったからだ。
 眺めている良に気づいたのか、母親の方が軽く会釈をした。そして、少女も良に向けて大きく手を振っている。良も手を振って応えると、母娘は逆光の中を消えていった。
 母娘が去っていった方を、良は何とはなしにずっと見つめていた。

 ・・・・・・
「おい、来生君、来生君ってば」
 肩をゆすられて、良は眼が覚めた。
 慌てて辺りを見回すと、もう陽が落ちかけていた。
「そろそろ先輩達が来ちゃうよ」
「もう、そんな時間か」
 良は眼をこすって眠気を飛ばすと、手をついて立ち上がろうとした。
 その時に、手が何かに当たった。ふと手元を見ると、そこには手毬が転がっていた。少女が持っていた手毬だ。
「なんだい、それ」
 松原が不思議そうに覗き込む。
「あ、いや、何でもないんだ」
 良は答えると、何となくその手毬をカバンにしまいこんだ。不思議と捨てる気になれなかったのだ。
「そーいや、交代は2時半じゃなかったっけ?」
 腕時計を見ながら良が松原に問いかけた。腕時計は5時を示していた。
「あ、あははは、ごめん。スッタ分を取り返そうと必死でさ、気づいたらこんな時間だったんだ」
 拝みながら松原が謝る。どうやらパチンコでもやっていたようだ。良は吹き出すと、手を振って答えた。
「いいって。こっちも暇だったわけじゃないしさ」
「?」
 不思議そうに見返す松原を無視して、良は言葉を続ける。
「ほら、準備しちゃおうぜ。先輩達に怒られちゃうよ」

 花見は盛況であった。良も先輩達にお酒をついで回る。
 カラオケやら宴会芸やらが行われていたが、それもちょっと一段落ついたところで、思い出したかのように先輩の一人が話題を切り出した。
「そういえば、去年の例の事件の母親が、今日自殺したってね。さっきニュースでやってたよ」
「そうなんだー」
 と、異口同音に相槌の声があがる。
「えっと、その事件って何なんですか?」
 良は、例の事件というのが何をさしているのか分からなかったので、その先輩に訊ねた。
「ああ、お前は新入社員だから知らないのも無理はないな」
 そう言って、先輩はその事件について詳しく語ってくれた。
 その事件は、去年の今ごろに起きたそうだ。春にしては少し寒さが厳しくなった日。その日の朝に、桜の花びらに埋もれて死んでいる3〜4歳の少女が見つかったのだそうだ。
 その後の調べで、少女の母親が失踪していることが分かった。母親は結局見つからなかった。事件に巻き込まれたのか、それとも子供を捨てて失踪したのか、2つの可能性があった。
 しかし、母親の親しくしていた男性も行方が分からないことから、結局娘を捨てて駆け落ちしたのだろう、ということで捜査が続けられていたらしい。
 そして、今日の夕方に、遺書を残して死んだ女性が見つかったそうだ。遺書には娘に対して謝っている文章が書いてあったという。
 その女性は名前を変えて男性と暮らしていたが、良心の呵責に耐え切れずに自殺したのだろう、とニュースでは言っていたそうだ。

 良は、今日出会った母娘を思い出していた。
「そっか、1年待って、ようやっとお母さんが迎えにきてくれたんだね」
 胸の中で呟いたつもりが、つい口に出してしまった。
「え?」
 隣に座っている先輩が聞きとがめたが、良は
「いや、何でもないです」
 と、ごまかした。
 その少女が死ぬ最後まで、そして死んだ後も母親のことを信じていたことを良は知っている。
 そして、良はちゃんと約束が果たされたことに、不思議な幸福感を味わっていた。


終わり


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