携帯電話の鍵


 TRRRRR
 コール音。
 回線のつながる音。
「はい、来生です」
 そして、彼の声。
「あ、あたし、澄です。今、駅にいるの。これから言ってもいい?」
「あ、いいよ。うちの場所、分かる? 大丈夫? 迎えにいこうか」
「大丈夫よぉ。こないだ遊びにいったじゃない。色々と買ってきたの。美味しいもの作ったげるからね」
「あんまり急いでくるなよな。こっちも部屋をちょっと片づけるからさ」
「やぁだ、そんなに気を遣わなくてもいいのに」
 それから、早く彼の家に行きたいとはやる気持ちを落ち着かせるように、一歩一歩確かめるように彼の家まで歩く。腕には食材のつまったスーパーの袋。
 電話を切ってからきっかり3分半で、彼のアパートに到着した。
 カツン、カツン。
 階段をヒールが打つ音が響く。
 ピンポーン。
 インターホンの音。
「開いてるよー」
 彼の声。
 ノブを回すと、そこから先は、甘い時間。

 初めて彼の家に行ってから、もう何度目になるだろう。
 彼は合鍵を作るかって聞いたけど、あたしは断った。
 電話して、家に着くまでに、彼が鍵を開けて迎え入れてくれる。
 それが好きだった。
 だから、あたしが彼の家に行く時は、いつも携帯で電話する。
 そして、最初の時のように、歩いてきっかり3分半。
 彼は、最初の時のようにきっちりと部屋を片づけなくなったけど、それでも3分半は必要な時間。彼があたしを待つ時間。

 TRRRRR
 いつもと同じコール音。
 そして、回線のつながる音。
「は、はい来生です」
 いつもと違う、慌ただしい声。
「あ、澄だけど、今から行っていい?」
 一瞬の間。
「ああ、いいよ、もちろん」
 上辺だけ取り繕ったような落ち着いた声。
「じゃ、後でね」
 微妙な違和感を感じつつ、彼の家へと向かう。
 一歩一歩、確かめるように。
 頭の中には「?」が浮かぶ。彼の慌てた態度は何だったのだろう?
 答えの出ない問い。答えの知りたくない問い。
 途中、すれ違った女性と目が合った。なぜか睨まれたような気分がした。
 自意識過剰? きっとそうよ。
 なだめすかす言葉。
 階段を上がる。カツンカツンと響く音。
 扉の前。時計を見る。きっかり3分半。大丈夫、落ち着いて。いつもと同じよ、いつもと。
 ノブを回す。扉を引く。
 開かない。
 カチャカチャと鍵が引っかかる音がする。
 どうして?
 携帯電話を取り出し、コールする。
 扉の向こうからコール音が聞こえる。
 でも、つながらない電話。
 どうして?
 立ち尽くすあたし。扉が開く。髪の濡れた彼がそこにいた。
「ごめん、さっきシャワー浴びてる最中だったんだ」
 嘘。
 嘘。
 嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘。
 慌てた声。
 睨んできた彼女。
 開かない扉。
 つながらない電話。
 全てが符合していく。
 あたしは、持っていた袋を彼に差し出した。
「さよなら。もう二度と会わない」
 きびすを返す。涙があふれる。
 裏切られたことに対する涙?
 ううん、違う。愛している人に二度と会えない涙。
 彼が何か言ったようだが、あたしの耳にはもう入ってはこなかった。
 あたしは歩きながら、携帯電話のメモリーから、彼の電話番号を消去した。
 もう、二度と会えない。愛しているのに。
 裏切られた今でも。

 One Year After
 携帯がメロディーを奏でる。
 着信欄には、番号だけが表示される。未登録の相手。でも、とってもよく知っている番号。
 おそるおそる通話ボタンを押す。
「澄? 久しぶり、良です」
 神妙な声。
 今まで一年間、とっても聞きたかった声。
 声を聞いた途端、今まで抑え付けてきた気持ちが溢れてくる。
「ゴメン。もう俺のことなんか忘れちゃったかな。俺、この一年、澄なしでやってみたけど、やっぱり駄目なんだ。ホントに心から愛してるのはお前だけだって、今更ながらやっと分かったよ。一年間も謝らないでいて、何を言ってるんだって思うだろうけど」
 あたしは、ただ黙って聞くのが精一杯。
「あれから一年。他の女とは一切付き合ってないよ。これはホントなんだ。去年のあれだって、ホントに魔が差しただけ。いや、謝っても赦してもらえないのは分かっている。だけど、お前だけなんだ、俺が愛せるのは」
 こみあげる想いが言葉になった。
「馬鹿! なんでもっと早く謝りにきてくれないのよ。あたしがこの一年、どんな思いでいたと思ってるのよ」
 悔しい。涙声になってしまう。彼の声がこんなにも聞きたかったなんて。
「今から、一年分、怒りに行きますからね、覚悟して待ってなさいよ!」
 そして、また、彼との生活が始まった。

 Two Years After
 あたしは、携帯電話のメモリーから、彼の番号を消去した。
 もう、携帯電話は必要ない。
 遠くで行進曲が流れ出したのが聞こえる。
 あたしは父に手をひかれ、部屋を出る。
 あたしは、彼の待つ場所へ。バージンロードを一歩一歩確かめるように。


終わり


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