星の降る夜

 どうしても、忘れたくはない。
 どうしても、忘れてはいけない。
 人というものは、日々、色々なことを忘れながら生きているものだけれど。
 それでも、絶対に覚えておかなくてはいけないことがあるのだと、そう、思っている。
 だから。
 彼、来生良は、自分に暗示をかけるかのように、脳裏に焼き付けるのだ。
 彼女のことを。
 彼女とすごした時間のことを。

 良はソフトウェア会社に勤務するプログラマーである。年齢は27歳。
 エンジニアとしては、知識と経験を身につけ始めた時期であり、体力も十分。これから一人前にバリバリと働いていくという年齢である。
 プログラマーの常として、開発が佳境の時期になってくると、日々残業である。システムエンジニアの指示に従い、黙々とプログラムを組み、黙々とデバッグをするという時間を過ごす。
 そして、気づくと時計の針は21時を指している。定時で上がって飲みに行ったサラリーマンの一次会が終わる頃合である。
 また、酔っ払いとイッショの電車か・・・
 良は軽いため息をつくと、パソコンの電源を落とし、帰路に着く。
 ちょっと飲んで帰ろうかとも思ったが、明日もまた1日みっちり仕事である。良は体を休めることを優先して、繁華街を足早に抜けていく。
 飲み屋からほんのりと赤い顔の上機嫌な人々が吐き出されるのを、羨望と嫉妬を込めて横目で一瞥すると、誘惑を断ち切るように良は前方を睨みすえて足を速める。
 と。
 横手の路地から、女性が小走りで駆けてくる。後ろを振り返りながら走るその女性は、良のことには気づいていないようだった。
 そして、良も視線を前方に据えていて、女性の姿は目に入っていなかった。
「うわっっ」
「きゃっっ」
 二人の悲鳴が交錯すると、良は女性に押し倒される形で道に転がってしまった。
「あいたたた。大丈夫?」
 良は自分に圧し掛かっている女性に声をかける。そして、息を飲んだ。女性には、人を惹きつける何かがあった。
 顔の容姿が特に秀でて美しいとか、そういうことではない。ただ、見たものを惹きつける吸引力のような魅力があった。
 そう、普通の人間は持ち合わせていないような、そういう魅力である。
 それは人が、天使や悪魔に見出すような魅力のようで。だから、良はその女性が天使なのではないかと、一瞬本気で疑った。だが、女性には天使の輪も、翼もついていなかった。
「ご、ごめんなさい・・・」
 女性は慌てて起き上がると、良にぺこりと頭を下げ、それから路地の方を窺って、さらに駆け出そうとする。
 良は咄嗟に女性の手を掴む。
「誰かから、逃げてるの? だったら、闇雲に走ってもダメだよ。こっちに行こう。裏口がある店があるんだ。馴染みのお店なんだけどね」
 良の言葉に、女性は戸惑った表情を見せるが、それでも頷いた。良はそれを認めると、女性の手を引いて歩き出す。走ることはしなかったけど、可能な限りの早足で。女性は手を払うことなく、小走りで良についていった。
 一軒の飲み屋に良は入る。4人席が2つに5人座れるカウンターがあるだけという、10人入ればいっぱいになってしまうような、小さな店だ。繁華街のメインストリートから一本脇に入った道にあり、常連客以外は滅多に入ってこない。
 良はランチでもこの店をよく使っており、店長や女将さんとも馴染みだった。
「いらっしゃい。ああ、来生くん、今日は残業かい?」
 女将さんの言葉に良は頷くが、すぐに後ろを振り返り、
「あ、ああ。えーっとね、この子、誰かに追われてるらしいんだ。裏口から逃がしてあげてくれないかな?」
 良の言葉に、女将さんは顔色を変える。
「本当かい? なんなら、家で匿ってあげようか? この辺りも物騒になってきたからねぇ」
 女将さんの言葉に、女性は黙って首を横に振る。
「そうかい? 大丈夫かい? さあ、裏口はこっちだよ」
 女将さんが奥に女性を案内する。女性はそれに従おうとして、良の手を握っている自分の左手に視線を落とすと、慌てたように手を放し、それから両手を自分の腰の後ろで組むと、良の正面に回って真っ直ぐに良の顔を見上げた。
「ありがとう」
 その笑顔に良は一瞬蕩けるが、すぐに内ポケットからカードケースを取り出すと、自分の名刺を握らせる。裏には自分の携帯電話の番号を書く。
「もしも、困ったことがあったら、電話して。何かしてあげられるかは分からないけど、できるだけ力になるから」
 女性はそれには答えなかった。ただにっこり笑うと、名刺を大事そうに握り締め、女将さんに案内されて裏口へと向かっていった。
 良はそれをしばらくの間見つめていたが、カウンターの奥の店長に向かって、ビールを注文した。

 翌日、良は出社すると、まずは仕事に没頭した。やらなくてはならないことはいくらでもあるのだ。だが、時折、机に置いた携帯電話に視線を走らせる。連絡が本当に来るとは思ってはいないが、それでも連絡してきてほしいという想いは強い。
 まるでドラマや漫画のような不思議な出会いだった。一も二もなく助けなくてはならないと思ったことは初めてだった。
 無事に逃げられたのだろうか。
 良は心配するが、それを確認する術はない。視線をモニターに戻すと、良はプログラミングに没頭する。とりあえずは、やるべきことをやるしかない。
 良はまた、21時ごろに残業を切り上げると、帰途に着く。いくばくかの期待を込めて繁華街を駅へと歩くが、昨晩の女性には出会わなかった。
「そりゃ、そうだよ、な」
 そこで、良は名前すら聞いてないことに気づく。苦笑しながら改札をくぐると、電車に乗り込んだ。
 自宅から最寄り駅までは、歩いて10分ほどの距離がある。途中の商店街には24時間営業のストアーがあり、良は遅い晩飯の食材を買い込む。
 ビニール袋をぶらぶらと振りながら賃貸の1DKのマンションに着くと、階段を上る。オートロックなんて気の利いたものはついていない。良の部屋は3階だが、エレベーターは使わない。座り仕事での運動不足が解消されるわけではないが、なるべく階段を使うようにしている。
 左手に買い物袋をぶら下げ、右手でちゃりちゃりと鍵をまわして3階の廊下を歩くと、薄暗い照明の下、自分の部屋の扉の前に座り込む人影があった。
「誰?」
 良がおそるおそる声をかけると、人影が組んだ膝の間に埋めていた顔を上げる。こちらを向いた顔は、昨日の女性だった。
「え? どうしてここに?」
 良は驚きの声をあげる。昨日渡した名刺には、会社の住所と電話番号、メールアドレスは載っている。そして、携帯の番号も自分で書いた。だけど、住所は書いていなかった。
 その良の質問には、女性は曖昧な笑みを浮かべただけで、何も答えなかった。その代わり、彼女のお腹が、くるるるぅぅと鳴いた。
「あ、もしかして、お腹空いてるの?」
 良の質問に、女性は恥ずかしそうに頷いた。腹の虫をおさめるためにお腹を両手で押さえているが、その効果はないようで、きゅぅという音が途切れ途切れに良の耳に届く。
「実は、昨日から何も食べてないの・・・」
 かすれるような声で女性は呟く。
「本当は、見ず知らずの貴方に頼ってはいけないって思ったんだけど・・・お金、持ってなくて。迷惑でしたら、帰りますけど」
 小首を傾げて良を見上げる女性に、良は首を横に振る。
「いやいや、迷惑なんてことないよ。ちょうどいいや。ヤケ食いしようと思って、いっぱい材料買ってきたんだ。すぐにご飯作るから、中に入って」
 良は女性を立たせて、鍵を開ける。
「あ、でも・・・男の一人暮らしなんで、イヤだったらアレだけど」
 良の言葉に、女性はぶんぶんと音がしそうな勢いで首を横に振る。それを良は笑いながら確認すると、扉を開いた。
「いらっしゃい。散らかってるけど、気にしないでね」
 女性はにこりと微笑むと、良に案内されて部屋へと入る。
 良は簡単にできてお腹にたまるもの、ということで、鍋を選択した。友達が来たときのために買っておいた少し大きめの鍋を用意すると、出汁を作りながら食材を切る。
 良は、食材を切りながら、背後に座っている女性へと声をかける。
「びっくりしたよ。突然いるからさ。もう二度と会えないだろうなって思ってたんだ。昨日は無事だったんだね、心配してたんだよ」
「ええ、おかげ様で。追っ手をまけたし、今日はずっと一人で楽しかったんだけど・・・気づいたらお金がなかったの」
 女性は答えながら、良の部屋を眺めている。と、電話台として使っている戸棚に置かれた植物に目をとめた。
「ねぇ? あれ、なぁに? 植物・・・なの?」
 女性に訪ねられ、良は包丁を動かす手をとめると、振り返った。彼女の視線の先には、さぼてんが置いてあった。
「え? さぼてん、知らないの? 植物だよ。砂漠とかあまり水がない地域でも育つんだって。忙しくてあまり家にいれないけど、だったら枯らさないで済むかなって」
「さぼてん・・・? なんか、ふんわかした音の名前ね」
 女性は、ふらっと立ち上がると、さぼてんの鉢を手に取る。良は視線をまな板の上に戻したが、女性の「痛っ」という声に慌てて振り返った。
「あ、ダメだよ。とげはささるから」
 慌てて、良は女性の下へと駆け寄る。
「これ、葉っぱなのよね? とげみたいだけど柔らかいのかと思って、つい触っちゃった」
 女性は指をおさえているが、血は出ていないようで、良は安心する。
「血は出てない? 良かった。まあ、あまり深くささなきゃ大丈夫だし、ね」
 良は女性からさぼてんを受け取ると、ああ、と思い出したように訪ねる。
「そういえば。また忘れるところだった。名前、聞いてもいいかな?」
 良の言葉に、女性は頷く。
「澄っていいます」
「澄さん、か。いぃ名前だね」
 良はうなずきながら、指の腹でさぼてんのとげを触る。
「? 何してるの? 痛いんじゃないの?」
 澄の反問に良は笑って答える。
「ああ、これは、僕の癖っていうか、記憶法っていうか。何か覚えておこうと思ったときに、このさぼてん触って、軽い痛みとイッショに覚えるんだよ。そうすると、このさぼてんを見たり、痛みを思い出したりした時に、思い出せるわけ。寝る前とかに、1日の出来事を思い出しながら、覚えておきたいことを考えて、軽くちくっとやるわけ」
 そして、良はさぼてんを棚に戻すと、切った食材を鍋へと投下していった。会話の最中にも聞こえる彼女のお腹の音が、不憫に思えたのだった。
 一心不乱に食べている女性の姿は、料理人としては満足のいくものだった。空腹は最良のスパイスっていうからなぁと思いつつ、良は自分でも鍋をつつく。今の時間は23時に近い。自分もかなり空腹であることを思い出し、口には言葉を発するよりも食べる方を優先させる。
 具材がなくなったところで、良は締めに雑炊を作りながら、この後、澄はどうするつもりなのかが気になった。すでに終電はない。
「えーっと、澄さん? もう電車はないんだけど・・・今夜はどうするの? タクシー代を貸せないことはないけど?」
「タクシー?」
 澄は首を傾げる。質問の意図を理解していないのだろうか、良は苦笑する。
「家に帰らないでいいのかい?」
 続けた良の言葉に、澄は理解したように頷く。
「家には帰れません。逃げた意味なくなってしまいますし・・・それに、タクシーでは帰れませんし」
「え?」
 良は頭の上に?マークを浮かばせるが、澄はそれには曖昧に笑うだけで答えを返さない。だから、良は質問を続けた。
「・・・もしかして、家出?」
「んーー、まあ、広い意味では、そうかもしれません。良さんは、紳士なんですね。だから、私も迷惑を承知で頼りにきてしまったのだけど。私は淑女じゃないから、厚かましくもお願いしちゃいます。あの、しばらく、泊めていただけませんか?」
 澄は真っ直ぐに良を見つめている。良は、全くこの展開を予期していなかったわけではない。というよりも、良の欲の部分ではこの展開を期待もしていた。ただ、良としては、そんなことは起こらないと否定もしていたのである。
「えーっと、僕はそれでも構わないけど。一応、来客用に一組なら余分な布団もあるし。だけど、見ず知らずの男性の家に泊まるの、怖くないの?」
「良さんは、もう見ず知らずの人じゃありませんもの。それに、良さん以上に見ず知らずじゃない人のところに行ったら、逃げた意味ありませんし」
 それに、と澄は天使のような微笑を浮かべ、言葉を続ける。
「それに、良さんは紳士ですもの。私、安心してますよ? 昨晩会った時から」
「いやいやいや。僕にだって、人並みに下心ってのはあるよ」
 慌てて答えた良の言葉に、澄は楽しそうにくすくすと笑う。
「だからね? 本当に下心を持っている人は、そういうこと言ったりしません。それに、夜伽ぐらいでしたら、居候のお礼にしてもいいですよ?」
「夜伽って・・・」
 古い言い回しだが、夜伽が何を意味するかぐらいは良だって分かる。
 天使じゃなくて、小悪魔なのかな・・・
 くすくすと天真爛漫に笑う澄を見て、良は苦笑する。確かに、澄の見立ては当たっている。実際に、自分には澄に手が出せるとは思っていない。それは、良の性格上、ありえないことだった。少なくとも、お互いの将来を誓い合えるぐらいの仲になるまでは。
「僕はね、紳士なんじゃなくて、古くて重いんだよ・・・」
 良は、別れた恋人に言われたことを思い出す。当時20代前半だったその女性は、別れ際にこう言ったのだ。まだ将来のことなんて分からない。良の考えは古いし、そんな思いは重過ぎる、と。
「今までの良さんのお相手は、良さんの良さが分からなかったんですね」
 澄の表情は真面目だった。だから、良には澄の言葉が胸に響いた。そして、尚のこと、彼女に手を出せないであろう自分を自覚する。一時の欲に負けることは、彼女のこの信頼を失うことである。そのことの方が、良には辛いことのように思われた。
「うん、分かった。好きなだけ、居てくれて構わないよ。仕事が忙しいから、毎日帰ってくるの遅いけど。自分の家だと思って、好きにしてくれていいから。お金も少し置いていくし。ああ、合鍵も作らなくちゃね」
 良の言葉に、澄は深々とお辞儀する。
「ありがとう。ふつつかものですが、しばらくの間よろしくお願いします」
 こうして、良と澄の同居生活が始まったのであった。

 それから、良は忙しく働いていたが、仕事中ににやけるのを抑えるのに必死だった。
 好ましく思っている女性が家で自分を待っているというのは、思った以上に仕事に対するやりがいとなっていた。少しでも早く帰るために今まで以上に仕事に打ち込み、それが職場での自分の評価を高めることにもつながった。
「ただいま」
 良が帰宅すると、家の中は真っ暗だった。最初は澄がいなくなったのかと驚いたが、すぐに慣れた。すぐに電気がついて、「おかえり」と澄が出迎えてくれる。
 最初の時、何をしていたのか訪ねると、澄は星を見ていたという。確かに星を見るには部屋を暗くする方がいい。ベランダの窓のカーテンが開け放たれていて、良はなるほど、と思った。
 ある時、良が帰ってきても、澄の出迎えがない時があった。良が部屋に入ると、澄は真っ暗な室内で、ベランダの窓の前にちょこんと座り、夜空を見上げていた。
 何を思って星を見ているのだろう? 良は疑問に思ったが、良が帰ってきたことに気づいて振り返った澄の顔は、いつもの表情だった。
 良は、澄の過去については、全く詮索しなかった。苗字も聞いていない。気にならないと言えば嘘になるが、きっと聞いても曖昧に笑って答えてくれないのではないかという確信があった。
 それに、この関係を壊したくはなかった。澄が気に入らないと思えば、いつでも澄はここを出て行ける。それがこの関係を続ける上での不文律のようなものだった。だから、良は澄の気分を害することを怖れていた。それと同時に、澄の素性を明らかにすること、それ自体が、この関係を終わらせる引き金になるのだという確信もあったのである。
「今日はね、腕によりをかけたの」
 良から脱いだスーツを受け取ってハンガーにかけながら、澄が良に言葉をかける。
「へぇ? 何を作ったの?」
「ふふ、食べるまでのお楽しみ。もう少しかかるから、先にお風呂に入ってね?」
 澄の楽しそうな声に、良は頷く。澄は最初、料理がまったくできなかった。ここで暮らすようになってから覚えたのである。どうやら、良がいない昼間に練習しているらしい。本棚には、良の知らない料理の本が増えている。
 良が風呂から上がると、テーブルの上にはご馳走が並んでいた。
「凄いね・・・もう、澄には料理はかなわないなぁ〜」
 良が座ると、澄は嬉しそうに笑って自分と良の前にグラスを並べる。それから、いつの間に買ってきたのだろうか、赤ワインのボトルを差し出す。
「ワイン? 澄ってお酒いけるんだ? 今まで飲んだことなかったよね?」
「うん。実は飲めるんだ。居候の身でお酒飲むなんてできないじゃない? でも、今日はちょっとしたお祝いなの。だから、いっかなって」
「お祝い?」
「うん」
 澄は曖昧に笑っている。良は詮索はしない。だから、コルクを抜くことに集中することにした。澄と自分のグラスに赤ワインを注ぐ。
「何に乾杯したらいい?」
 良の言葉に、澄は頷いてから喋り出す。
「良くんと初めて会って、半年になるんだよ。今日は、ずーっと待ち望んでいた日なの。この半年の間、実はずっとどきどきしてた。信じてたけど、良くんが本当にずっと同じように紳士でいてくれるかな、って。毎日毎日、ずっと夜空を見てた。早く今日にならないかなって。それでね、やっと、今日。待っていた日になった。今日はね、天体観測的には特別な日なの。何の日か分かる?」
 澄の言葉に、良は訪ねたいことがたくさんあった。だけど、余計な詮索はしない。だから、訊かれたことにだけ答えた。
「ああ、ニュースで見たよ。ペルセウス座流星群が見えるんだっけ?」
 良の言葉に、澄は頷く。
「そう。ペルセウス座流星群があるの。それは、私の御伽噺が現実になる日。だから、ペルセウス座流星群に乾杯しましょう?」
 良は笑って頷く。御伽噺という単語が気にはなったが、それは意識の外に追いやった。
「うん、じゃあ、ペルセウス座流星群に」
 チン、とグラスを合わせて、二人はご馳走に手をつけた。
 食後。
 良が皿洗いを終えると、澄が真剣な顔をして、テーブルについていた。澄の前にはさぼてんが置かれていた。
「良くん。大事な話がね、あるの」
 澄の言葉に、良の心臓がドキリと大きく波打つ。良くも悪くも、この生活が終わってしまうというのだという予感が、良の身中を奔る。
 だが、良は言われるまま、澄の向かいに腰を下ろす。
 澄は、無言でさぼてんを良の前に押しやる。首を傾げて良がさぼてんを手に取ると、澄は良の手を握って、さぼてんの上に置く。
「いたた、何?」
「良くん、大事なこと覚えるときには、さぼてんを使うんでしょ?」
「よく覚えてたね。うん、そうだね」
「これから話すことは、多分、信じられないことだと思うけど、でも、本当のことなの。そして、絶対に忘れないでほしい。良くんが忘れなければ、私の御伽噺は現実になる。そして、それは良くんにとっても。もしも、良くんが私のことを愛してくれているなら」
 良は居住まいを正すと、頷いて、それから澄の目を見つめた。彼女の言葉を一語たりとも聞き逃さないように。
「良くん。私は、貴方のことが好き。最初に会った時から、この人なのかな・・・って思ってた。そしてこの半年。一緒に暮らして、この気持ちが嘘じゃないって分かった。良くんは? 私のこと、好き?」
「訊かなくちゃ、分からない?」
「ううん、でも、聞かせて?」
「好きだよ。大好きだ。うん、最初に会った時から。愛してるよ、だから、僕は澄の信頼だけは裏切りたくない。そう思って、この半年、一緒に暮らしてた」
 良の言葉に、澄は嬉しそうに笑う。頬がほんのりと朱に染まる。
「良かった。じゃあ、これから突拍子もないこと言うけど、でも、信じてくれるよね?」
 良は頷く。良は何があっても信じられると思っている。そう、たとえ澄が天使だとしても。
「私はね、この地球の人間じゃないの。あ、でも、宇宙人ってわけじゃなくて・・・生物としては、良くんと同じ人間だよ。だけど、この世界の人間じゃないの」
 良は真面目にうなずく。余計なことは言わない。
「多重世界とかって言えばいいのかな・・・私もよく分からないんだけど、宇宙はいくつも重なってるんだって。平面が重なって立体になるみたいに、立体が重なってる高次元の世界があるって。だから、私は違う宇宙の地球の人間なの」
「ああ、こっちの世界ではパラレルワールドとかって言われてるね。こないだ、素粒子が別の三次元に行ってると思われる実験結果が得られたとかってニュースもやってたっけ・・・」
「私もね、難しいことは分からないんだけど。私の世界ではね、その重なった世界を行き来する方法があるの。ペルセウス座流星群はね、宇宙にあるガスとか粒子の雲を地球が通過するときに、大気との摩擦で流星のように見えるんだって。そのときにね、重なる世界へと続く道を開けることができるそうなの。私ね、その道を通ってきたの。半年前に」
「え? でも、半年前は流星群はないんじゃ?」
 良の質問に、澄は頷く。
「ええ、多分、こっちと私の世界では、微妙にずれているのね」
 良はうなずく。まあ、そういうこともあるだろう。重なっているとはいえ、別の宇宙なのだから。
「本当はね、私、こっちに来るはずの人じゃないのよね。私、自分の世界では、こっちでいうお姫様なんだもの」
「姫・・・」
「あ、姫っていっても、本当に大したことないのよ? 別に政治をやるわけでもないし。一人娘ってわけでもないし。料理もできないただの女の子だったの。それでね、私、生まれた時から、結婚する相手、決まってた。10以上も年上の冴えないおじさん。家柄だけが立派な、威張りくさってる人よ? 私、そんな人のお嫁さんになんか、なりたくなかった・・・」
 良は、黙って聞いている。
「それでね、私、婚約させられる前に逃げてきたの。自分が一緒になる人なんだもの、自分で選びたいでしょう? 私の国にはね、面白い法律があるの。その法律は私にとって御伽噺だった。それだけが、私の救いだった。何百年も前、同じようにこっちの世界に来て、そしてこっちの世界の人と結婚した女王様がいるの。その女王様が、自分の伴侶を認めさせるために作った法律」
 そこまで言ってから、澄は、良の手を握る。
「良くん、私は、こっちで貴方と一緒になることはできない。だって、戸籍がないんだもの。本来、私はこっちにいてはいけない人なの。だからね? もしも、良くんが、私の世界でもいいから、私と一緒になりたいって思ってくれるなら・・・そうしたら、その法律は、良くんにとっても御伽噺になるわ。だって、こっちの世界の人間と合法的に一緒になれるんだもの」
「え? ちょっと待って。それって、僕に、こっちの世界を捨てろっていうこと?」
「・・・うん。全部ではないけれど。1年に1回は、行き来することができるもの。でも、そうね、どちらで過ごすかは二人で決めることもできると思う。私も、こっちの世界、気に入ってるもの」
 それから、澄はもう一度、良の手をさぼてんの上に乗せる。
「どちらで暮らすとか、良くんのご両親への挨拶とかは、後でいくらでも考えればいいわ。それでね、ここからが本題なの。この法律にはね、重要なことが2つあるの」
「2つ?」
「そう。1つ目はね、その場の勢いで決めないように、1年の猶予を置くこと。つまり、法の執行を依頼してから、実際に効果を発揮するのは1年後になるの。それとね、2つ目。こちらの世界の人は、あっちの世界についての記憶を一時的に失うこと。つまり、記憶を失ってから1年後に、私に対してプロポーズできなければ、この法律は効果がないわ」
「え? 記憶を失うって? この半年の記憶を、全部?」
「うん。だけど・・・お願い、忘れないで。覚えていて。私のことを、私と過ごした日々のことを。それとも・・・私と一緒になるのは、イヤ? 今なら、まだ良くんは戻れるわ。明日から、私はいないけれども」
「いないって?」
 良の言葉に、澄は懐から1つのカプセルを取り出した。
「今日の昼間。私の国の人間と会ってきました。良くんと会った日、私を追いかけてた人たち。私の父の命令で私を連れ戻しに来た人たちです。私は、こちらの世界の人間と一緒になるつもりだと、彼らに言いました。法の執行を依頼すると、私は一度、国に戻らなくてはなりません。そして、1年間、貴方に会うことはできません。それが決まりだから。そして、一旦国に帰ったら、もう二度とこっちにはこれないと思う。1年後、貴方からプロポーズを聞きにくることを除いては。彼らは、貴方が私と一緒になることを拒否しても、私を連れ帰るでしょう。ここの場所、教えてしまいましたから。確かに、貴方から記憶を奪ったことを確認するために」
 良は、目をつぶって考える。しかし、考える時間はそんなに必要なかった。
「いいよ。一緒になろう? 記憶を失うのも、一時的って言ったよね? それに、もしも記憶を失ったとしても、次に澄に会ったら、また同じように好きになるよ。うん、間違いないな。それに、もう、澄のいない生活なんて、考えられない」
 良の言葉に、澄は嬉しそうに頷く。目の淵に涙がたまる。良は、それをそっと拭う。
「で、僕はどうすればいいんだい? そのカプセルを飲めばいいの?」
「いい? この言葉、忘れないでね。思い出してね。さぼてんを見る度に、私のことを少しずつ思い出して。来年の今日、貴方と初めて会ったあの場所で、待ってる。今度はこっちからぶつからないからね? 私のこと、見つけてね」
「ああ、忘れない。思い出すよ」
 良の手には、さぼてんのとげの痛み。
 澄は、カプセルを口に咥えると、良の顔をやさしく両手で包み、口を寄せる。
 良は澄の唇の感触を脳裏に刻みながら、カプセルを飲み下した。左手に感じるさぼてんのとげの痛みが、画鋲のようにこの記憶を脳裏に留めてくれることを祈りながら。

 携帯から流れるメロディーで、良は眠りから覚める。携帯のアラームを止めると、起こさなくちゃと横を見る。
 そこで、良は苦笑する。誰を起こそうというのだろう。自分は長い間一人暮らしである。隣に寝ている人なんているはずもないのに。
「何だろう、忘れちゃったけど、同棲でもしてる夢でも見てたのかな」
 良は呟いてから、飛び起きる。しっかりと仕事をこなして、なるべく早く帰らなくちゃいけない。
 あれ? 何で、だっけ。
 思い出してみるが、別に飲み会とか人に会うような予定はなかったはずだ。
 首をひねりながら、良は家を出る。何か、きょうはおかしい。
 日中は仕事に精を出した。余計なことを考えることも、感じる暇もなかった。ぐったりと背もたれによりかかると、時計は20時を指していた。
 そろそろ帰ろうと、良は無意識で携帯を取り出すと、アドレス帳から自分の家の番号を表示する。通話ボタンを押そうとして、首をひねる。
 まただ。
 家には今、誰もいない。一人暮らしで、自分はここにいる。誰も居ない家に、何で電話をしようとしているのだろう?
「何だろう、疲れてるのかな」
 ため息をついて携帯をしまうと、良はパソコンをシャットダウンして立ち上がる。
「お先に失礼します」
 まだまだ仕事を続ける同僚に挨拶をして、良は職場を後にした。
 良は真っ直ぐ家に帰る気になれず、馴染みの飲み屋に顔を出すことにした。
「こんばんわ〜」
 のれんをくぐって店に入ると、カウンターが空いていた。カウンターの横に座っていた女将さんが、笑顔で出迎えてくれる。
「いらっしゃい。おや、珍しい、今日は一人なのね」
「え? 僕、ここに誰かと来たことあったっけ?」
 良の反問に、女将さんは首をひねる。
「そうねぇ。そういえば、いつも一人だったわよね・・・おかしいわね、何で、珍しいなんて思ったのかしら?」
「寝ぼけてんのか? ほら、来生くん、座んなさい。いつも通り、ビールでいいかな」
 カウンターの奥で、店長が笑っている。良は頷くと、カウンターの端へと歩く。カウンターの一番奥は自分のいつもの席なのだ。
 無意識に一番奥から1つ手前の席に座ろうとして、また首をひねる。どうもおかしい。何かが狂っている。
 良は疑問に思うが、どう考えてもその解答は得られなかった。
 それからも、良は自分の行動が少しおかしいと思うことが多かった。家に帰れば、つい「ただいま」と声に出してしまう。
 ご飯を炊くときに、なぜか2合炊いてしまう。以前は1合しか炊かなかったのに。
 何だろう、自分は何か、重要なことを忘れている気がする・・・
 夏が過ぎ、秋になった。良は次第に違和感を忘れていった。朝起きて、仕事に行き、帰って寝るだけという生活が続く。
 秋が過ぎ、冬になった。
 ある日、良が家に帰り、ダイニングの電気をつけようとすると、電気がつかなかった。
「あれ、電球切れたかな?」
 良は呟きながら、奥の部屋へと歩く。ベランダに面した窓のカーテンは開け放たれていた。
「あれ?」
 窓の前に、座り込んで空を見上げている人影が見えたような気がして、良は目をこする。もう一度見直すと、そこには誰もいなかった。
「どんな顔をして、夜空を見てるんだろうって、いつも思ってたんだよな」
 呟いて、良は驚く。一体誰の話をしているのだろう・・・?
「あれ? 彼女と付き合ってたのは、この家に越してくる前だったよなぁ」
 自分に気づいて振り返る顔は、いつもと同じ表情で。だから、どんな顔をしていたのか分からなかったのだ。でも、良にはそのいつもと同じ表情をしている顔が浮かばない。
「待て。ちょっと待て・・・」
 良は、真っ暗な室内で、立ちすくむ。
 忘れないでね、という言葉が脳裏に浮かぶ。思い出さなくてはいけない。それはとても重要な約束。耳に心地よい声だったはず。はにかんだ笑顔。自分の質問をはぐらかす曖昧な笑顔。楽しそうな笑顔。たくさんの笑顔を見たはずだ。だけど、顔が思い出せない。
 いつのことだったろうか。確かに。そう、確かに、大事な誰かが自分の隣にいたはずなのに。
 良は、はっと気づいて、カバンを放ると、ダイニングに戻る。棚のさぼてんを手に取ると、そのとげをそっと指の腹で触れる。
「そう、確かに、僕はここで、彼女と一緒に暮らしていた。そして寝る前に、こうやって覚えようとしてた。いつ壊れるともしれないこの生活を、ちゃんと覚えておけるように」
 とげに触れる指に、少し力を込める。ちくりとした痛みと共に、テーブルについて笑って食事をしている自分が浮かぶ。向かいには彼女が座っている。
 誰だったろう。記憶の中の彼女の顔は紗が降りているように判別できない。
 私のこと、見つけてね。
 彼女の最後の言葉が脳裏に浮かぶ。思い出さなくてはならない。そして、彼女ともう一度会うのだ。良はさぼてんを棚に戻すと、ベランダに面した窓へと向かう。
 見上げた夜空には、冬の星座が浮かんでいる。まだ猶予はあるのだと、理由は分からないが確信があった。約束の夜空には、この正座は浮かんでいないはずであった。
 半年前の違和感を思い出す。そう、あの日、あの時から狂っているのだ。元に戻さなくてはいけない。
 彼女が隣にいた、その時に。
 翌朝。良は目が覚めると、自分の隣に視線を送る。そう、そこには客用の布団が敷いてあった。そこには眠る彼女がいたはずだ。
 仕事に行く。少しでも早く帰るために、仕事に集中する。彼女と過ごす時間を少しでも長くするために。
 職場を出る。携帯を取り出すと、自宅に電話する。もちろん今は誰も出ない。でも、彼女が出ていたはずだ。
 帰宅する。部屋は暗い。「ただいま」と声を出す。今は返事がない。でも、確かに「おかえり」と出迎えてくれた彼女がいたはずだ。そう、彼女は暗い部屋で、夜空を見上げていた。何のために?
 テーブルの上には彼女が用意した夕食が並ぶ。キッチンには彼女が買った料理の本。確か、彼女は最初、料理もできなかったような気がする。
 そうして、日々、良は彼女の存在を思い描きながら生活を続けていた。彼女のことを思い出そうとする度に、脳裏にはさぼてんと、さぼてんのとげがもたらす痛みが浮かぶ。
 そうして、冬が過ぎ、春が来た。
 良は、彼女の存在を疑うことなく信じていた。日常のあちこちに、彼女の痕跡が刻まれている。
 そして、梅雨空の夜。
 仕事の帰りに食材を買い込んだ良は、左手に買い物袋をぶらさげ、右手でちゃりちゃりと鍵をまわして、自宅前の廊下を歩く。
 そして、自分の部屋の扉の前に、座り込む女性の影を見つけた。
「ああ、そうだ」
 良は、立ち止まる。そこには、誰もいない。でも、良の目には、あの時の彼女の姿が映っていた。
「誰?」
 良はかすれる声で呟く。目に映る彼女は、組んでいた膝の間に埋めていた顔を上げる。こちらを向いた顔は、どうしても思い出せなかった彼女の顔。
「え? どうしてここに?」
 嗚咽がこみ上げてきて、声が揺らぐ。目に映る彼女は、曖昧な笑みを浮かべている。そして、くるるるぅぅという音が耳に届く。
「あ、もしかして、お腹空いてるの?」
 もはや、声はほとんど音をなさない。それでも、目に映る彼女は、恥ずかしそうに俯いた。腹の虫をおさめるためにお腹を両手で押さえているが、きゅぅという音が、途切れ途切れに良の脳裏に響く。
『実は、昨日から何も食べてないの・・・』
 かすれたような彼女の声が聞こえる。ああ、懐かしい声。聞きたくてどうにかなりそうだった声の響き。
『本当は、見ず知らずの貴方に頼ってはいけないって思ったんだけど・・・お金、持ってなくて。迷惑でしたら、帰りますけど』
 目に映る彼女は、小首を傾げて良を見上げている。良は首を横に振る。
「いやいや、迷惑なんてことないよ。ちょうどいいや。ヤケ食いしようと思って、いっぱい材料買ってきたんだ。すぐにご飯作るから、中に入って」
 そして、良は鍵を開ける。
「あ、でも・・・男の一人暮らしなんで、イヤだったらアレだけど」
 振り返った良の目に、ぶんぶんと音がしそうな勢いで首を横に振る彼女が映る。
 良は扉を開け、部屋に入ると、あふれる涙をこらえもせずに、その場で自分の肩を抱いた。中に、彼女がいるかのように。
「おかえり、澄。ようやっと、思い出したよ。もう忘れないよ」
 良は、全てを思い出していた。そして、良は、自分が間に合ったことを知ったのだった。

 約束の日が来るまで、良は落ち着かない日を過ごしていた。どうしても浮ついた心持になってしまう。
 だけど、思い出した自分はまだいい。その日を楽しみにしていられるのだから。
 でも、澄は? 良は、今の澄の気持ちを思うと、胸が痛む。澄はきっと不安でいるに違いない。本当に思い出してもらえるのか、心配と不安で胸が締めつけられる時もあるだろう。
 良は、家に帰ると、暗い部屋で窓の前に座り、じっと夜空を眺めていた。きっと、澄も同じ夜空を眺めているに違いない。約束の日にこっちで会うということは、澄はすでに半年前にはこっちの世界に来ているはずだ。
 そして、とうとう約束の日がやってきた。
 良は、落ち着かない気分で仕事をこなすと、職場を後にする。もしかしたら、近いうちに辞めることになるかもしれないと思うと、少し淋しさに似た想いが浮かぶが、ようやく澄に会えるという想いがすぐにそれを打ち消す。
 澄と一緒にいられるならば、全てを捨てても構わないという決心があった。
 良は、急く気持ちを抑えるように、ゆっくりと歩く。彼女と出会ったのは、21時過ぎ。ならば、再会するのも同じ時間に違いない。
 時間までは決めてなかったはずだが、でも、確信がある。きっと彼女も同じ時間にやってくるに違いない。イッショに過ごした期間は半年だったが、彼女もそう思っていることを確信できる程度の濃密な付き合いではあったという自信がある。
 二人が再会するときは、昼でも夕方でもなく、やはり夜なのだと。空に星が輝く時間なのだと。
 21時過ぎ。
 職場から駅へと向かう途中にある繁華街を、良は歩く。ゆっくりと、だが確実に、一歩また一歩と彼女との再会の地へ、自分を運ぶ。
 酔客が吐き出される飲み屋には目もくれず、良は約束の場所へ。そう、彼女が現れたのは、あの路地から。
 歩きながら路地を見つめていると、路地に人影が現れた。
 ああ、澄だ。間違いない、澄だ・・・
 良は早足になり、そして、ついには駆け出した。
 路地に現れた人影も、早足になり、そして自分に向かって駆けてくる。
「澄!!」
「良くん!!」
 二人はお互いの名前を呼び合うと、抱きしめあった。
「澄、もう二度と話さない。たとえ全てを捨てても、僕は君といるよ。どこにいるかなんて問題じゃないんだ。隣に澄がいることが重要なんだ。これから、一生。僕は澄とイッショにいることを誓うよ」
 良の言葉に、澄は良の顔を見上げると、嬉しそうに微笑む。
「ありがとう、良くん。思い出してくれて。忘れないでくれて。私も、良くんと一緒にいるわ。この先、どんな苦労が待ち受けていたとしても、この1年の辛さに比べれば耐えられる。良くんさえいてくれれば、私こそ、何を捨てても構わない」
 抱擁し合い、お互いを見つめあう二人に、通りを歩く人々が好奇の視線を向ける。しかし、二人は周りのことなど気にならなかった。
 空では、星が流れ始める。
「ほら、澄。流れ星だよ」
 良は夜空を見上げる。澄も、同じように夜空を見上げる。二人が見守る中、また1つ、星が流れる。
「うん、綺麗だね」
 二人は星の流れる空の下、手を握り合い歩き出す。
 この先、たとえどんなことが起ころうとも、二人の手が離れることはないに違いない。
 満天の星は、二人の将来を祝福するかのように、降るように流れるのだった。



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