羽化

 駅のホームの脇に、ミカンの葉が繁っている。
 良くんはお母さんに連れられて駅に来たある初夏の日に、そこに芋虫を発見したのであった。
「ねぇ、お母さん、この虫はなぁに?」
 お母さんは虫は好きではなかったが、悲鳴をあげるほど嫌いでもなかったので、ちょっと眺めてみた。
 黒地に白いラインの入ったソレは、知っている虫だった。
「あぁ、これはね、アゲハ蝶の幼虫よ」
「ちょうちょ?」
 首を傾げる良くん。見かけるアゲハ蝶は立派に羽が生えている。こんな芋虫では全然ないのに。
「おっきくなるとね、ちょうちょになるのよ? 可哀相だから、ちょうちょになるまでここにいさせてあげようね?」
 良くんは、それを聞いて捕まえようとした手を引っ込めた。
「うん。ちょうちょになるの見たい!」
 家で観察する羽目になるのを回避して胸を撫で下ろす母親に手をひかれ、良くんは目を輝かせながらミカンの木を眺めるのであった。

 ある朝、駅のホームに赤いランドセルを背負った女の子が電車を待っている。
 背負うランドセルはおっきくて、後ろにひっくり返ってしまいそうだ。
 私立の小学校に通うその子は、近所の同じ学校に行くおねえちゃんと一緒に電車を待っていた。
 おさげをまとめる白いゴムが黒髪に映えて、よく似合っていた。

 良くんは、駅のホームの脇を通るたびに、ミカンの木にいる幼虫を観察していた。
「ねぇ、おかあさん、あの黒いのいなくなっちゃったよ!」
 ある日、いつも見ていた幼虫がいなくなってしまったので、良くんはがっかりして母親に声をかけた。
 母親が見てみると、幼虫は成長して、黒い幼虫から緑色の幼虫になっていた。胴体の横についている目を模した紋も鮮やかである。
「ほら、良くん、ここに緑色の幼虫がいるでしょう? 大きくなるとこうなるんだよ」
 良くんは目を輝かせる。そこにいるのは、立派な幼虫だったのだ。
 良くんが触ろうと手を伸ばすと、母親はその手をやんわりと抑えた。
「だめよ、良くん。触って怒らせると、とっても臭い角を出すのよ?」
「そうなの? お母さん、ボク、それ見てみたいよ」
 母親は苦笑すると、木の枝を拾って幼虫をつつく。すると、幼虫は真っ赤な角を突き出した。
「すっげー!」
 良くんは感心する。そして、ちょうちょになるのを絶対に見るのだと、また心に誓うのであった。

 ある夕方、駅のホームに私立中学の制服姿の女の子が電車から降り立つ。
 とっても可愛らしい子で、友達と笑いあいながら改札へと消えていく。
 それを眺めていた、やはり中学生ぐらいの男の子が、意を決したように女の子の元へと歩いていく。
 真っ赤になりながら呼び止めて、しどろもどろになりながら、何とか手紙を渡すと、「読んでください」と頭を下げて走り去っていく。
 女の子は困ったように受け取った手紙を眺めるが、友達と何事もなかったかのように帰っていく。
 容姿のよい彼女には、このようなことはよくあることのようであった。
 翌朝。
 駅のホームには、例の男の子がいた。期待と不安の混じった表情をして、改札の方を眺めている。
 そこに、探していた人影を認めると、彼は小走りに近づく。
 少女は頭を下げて、もらった手紙を返している。
 なおも食い下がる少年。
 最初はおとなしく謝っていた少女も、しつこい少年にうんざりしたのか、少年を軽くつきとばすと、逃げるように電車に乗り込んだ。
 少年は、悔しさと愛しさと憎らしさのこもった瞳で、その電車を眺めていた。

 幼虫の成長を楽しみにしていた良くんだが、暑くなってきた夏のある日、またミカンの木に幼虫がいなくなってしまい、母親に声をかけた。
 呼ばれた母親は、ミカンの木を調べると、そこに探しているものを見つけた。
「ほら、良くん、これ、なんだか分かる?」
「なぁに、それ」
「これはね、サナギって言ってね、幼虫さんはこの中でちょうちょに変身しているんだよ。変身が終わったらね、ここからちょうちょになって出てくるの」
「へぇー、すっげー。いつ変わるの?」
「うーん、お母さんもそれはわからないわね」
「じゃあ、ボク、毎日ここに来るよ、いいでしょ、お母さんっ」
 手を握り締めて力説する息子に、母親は優しい目を向ける。
「ええ、もちろんよ、毎日来ましょうね」

 ある晩、高校生となった少女は、駅のホームから改札へ小走りで向かっていた。
 友達とのおしゃべりに夢中になり、すこし遅くなってしまったのだ。
 彼女は門限を破ってしまった言い訳を頭の中で繰り返し考えながら、改札を抜け、家へと向かう。
 その彼女の後姿を、やはり10代後半ぐらいの若者が見つめている。
 ポケットの中に手を入れ、何かを握り締めると、うなずいて、意を決したように彼女の後を追いかけていく。
 小走りの彼女が、自宅へと続く人通りの少ない路地へと曲がっていくと、若者は走る速度を上げる。
 奇声のような声で彼女を呼び止めると、彼女の肩をつかまえて振り向かせ、ポケットの中で握り締めていたナイフを彼女の腹部に突き立てた。
 ナイフが刺さる衝撃に目を見開いた彼女は、信じられないように腹部をおさえると、それからその男性に視線を向ける。
 その目から逃れるように、若者は、血にまみれたナイフを、再び彼女につきたてる。
 ナイフを突き立てられるたびに、反射のように彼女の身体は痙攣するが、すでに彼女には意識はなかった。ずりずりと崩れ落ちていく。
 ひぃひぃと喘ぎながら、若者はナイフを投げ捨てると、走って逃げていく。

 ある朝、駅のホームの脇にあるミカンの木を覗いた良くんは、確かに昨日まであったサナギが見当たらないのを発見した。
「お母さん、サナギ、なくなっちゃったよ!」
「あら、それじゃあ、もうちょうちょになっちゃったのかしら。残念ね、羽化するとこ見れなかったわね」
「ええー、それじゃ、ちょうちょになっちゃったの?」
「そうね、ちょうちょになって飛んでっちゃったみたいね」
「あーあー」
 良くんはがっかりと落ち込む。
 母親は良くんをなだめている。

 ミカンの木の幹には、真っ黒い蟻が這っている。
 蟻は、サナギのあった場所から逃げるように、地面にある巣穴へと幹を這い降りていた。


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