ドアまで3m

「ちぃっ、ようやくしっぽをつかんだと思ったら、胴体は平泉かよっ」
 良は、憤りの声をあげると、ケーブルを首の後ろのジャックから引きぬいた。
 暗黒の背景と光り輝くグリッドからなるマトリックスの世界から、雑多で散らかり放題の――それでも自分には何処に何があるか分かっているという部屋に戻ってきた格差から、しばらく認識のブラックホールを作りながら、それでも良の思考はめまぐるしく巡っていた。
 来生良はハッカーである。
 WEBにジャックインし、グリッドを走破し、データベースを探査する・・・
 そして、情報を売って暮らしている。
 企業イントラネットであっても、相棒が枝を張り、堤防の一穴から侵入する。
 WEBの世界においては、現実の距離の概念はない。WEBでの距離とは、通信速度と情報解析能力である。歩くことすらままならないほど重度の巻き爪に苦労している良にとって、WEBは快適な世界である。
 たとえ、グリッドにそって移動するしかないとしても、目的地には確実に到達できる――障壁が張り巡らされていようとも。
 しかし、その良でも迂闊に踏み込もうとはしない場所、それが平泉と呼ばれる場所なのであった。

 平泉は、WEB上に存在する治外法権とでも言うべき場所である。
 入り口には関所が設けられており、そこの防備は固い。有数のハッカーがのきなみ撃退され――そのうちのかなりの数が再起不能に陥る羽目になった――国の要請とあっても門戸を開放しない。
 そして、かなり広大だと思われるデータスペースを持っているにも関わらず、関所以外での侵入経路は誰にも発見されていないのだ。
 いつしかその地には平泉という名がつけられた。平氏の権勢にも揺るぐことなく栄えた地方都市に畏怖と敬意を持ってなぞらえて。

「とうとう俺に順番が回ってきたってことか・・・」
 良は不敵な微笑をもらす。しっぽを巻いて逃げ出すようなことはしない。ハッカーというものは、自分の腕に自信を持ち、そして困難に対して挑んでいく人間なのだ。
 そして、良には自分の技術に少なからぬ自負を持っていた。
 だからといって、不用意に突っ込むようなバカな真似はしない。それは足りないヤツのすることである。周到な準備を行い、作戦を練り、そして決行する。それが真のハッカーのすることなのだ。

 良は、ごそごそと自分の周りのゴミの山を崩すと、データカードを取り出す。これには、この時のために以前から用意していたプログラムが入っているのだ。
 良は「虫」というインデックスシールのはられたカードをスロットに差し込むと、プログラムを読み出す。すると、モニター上にワーム(地虫)のようなものが映し出される。次に、「蜘蛛」のカード、「剣」のカードと次々にプログラムを読み出す。
 そして、準備が整うと、良は首のジャックにケーブルを差し込む。慣れた手つきでキーボードをタイプすると、良の五感は切り替わる。現実世界のものから仮想空間のものへと。
 良は、暗黒の空間上に蜘蛛の巣状に這っている光の線の上にいた。正確には線の交わる点の上である。今いるポイントは、自分の端末のノードである。ここから格子上を移動し、平泉まで移動するのである。
 良は既存のネットワークのルータを使用しない。移動経路は自分で定めるのだ。これはハッキングの初歩ともいえる。ルータを使用してネットワーク上に自分の軌跡を残すのが正しい選択ではない。とはいえ、ネットワークに存在する以上、自分の軌跡を完全に隠すことはできないのだが。
 良は、剣を手にとると、地虫と蜘蛛、それから蜂を伴ってグリッドの上を走破していった。
 電話回線・光ファイバー・衛星電波・・・・数々の通信手段を用い、数々のアクセスポイントを経由し、足跡を意図的に残したり隠したりしながら、平泉を目指す。
 そして、良は平泉の前まで到達した。無数のラインが、目の前のポイントに収束している。そして、そのポイントには強固なゲートが待ち受けている。
「さて、関所破りといくか・・・」
 良は呟くと、1つ先のポイントへと移動する。平泉のゲートへと。
 良はキーをタイプする。その動きに合わせて現実の良もタイピングしている。コマンドを受け付けたプログラムは、行動を開始する。
 キラービーと呼ばれたプログラムがまず行動を開始する。ぴたりと閉じられたゲートへと飛んでいくと、ゲートに取りつき、針を突き刺す。
 蜂の毒針からは、0と1の羅列が注入されていく。そして、それにつれてゲートの輪郭がぼやけていく。
「俺が長年かけて作り出した防壁破りのウィルスだ、とくと味わいな」
 良は、透けてしまったゲートを潜り抜ける。しかし、これで終わりだとは良も思ってはいない。ゲートキーパーはすぐに気付くはずだ。そして、この間にここを通過した人間をそのままにしておくわけもない。ゲートの修復にはいくらか時間がかかるだろうが、それまでにすべてを終わらせる必要がある。
 良は、地虫たちを解き放つ。良の足元から次から次へと地虫が湧き出し、グリッドの先へと枝別れしつつ進行していく。こいつらが平泉のネットワーカーたちを錯乱するのだ。そして、最後に蜘蛛を、0と1のカケラと化してしまったゲートに放つ。
 蜘蛛の糸を自分の足元に括ると、良は先へと進んだ。平泉の中へと。
 良は走査しながら、目的の領域を探していく。そこには涎が出るほどの情報が眠っているが、全てを手にすることはできない。目指す情報だけを得る時間しかないのだ。
 良の元には、地虫の残存率が数秒単位に報告されている。突入後数十秒ですでに3割の地虫が退治されている。この地虫も良お手製の逸品である。良は目立ちたがりやとは違う。プロのハッカーである。オモシロ半分に流出させ、自分の手の内を晒すような真似はしない。出来る限り回収し、ウィルスチェッカーに対応を練らせないように考慮もしてきた。
「さすがだな・・・俺の予想よりも2割方処理が速い。まずいな・・・」
 焦りつつも、良は落ち着いて走査を続ける。
 A、B、C、D・・・・・・
 そして、その走査はZに至る前に目標に到達した。
「ふん、エリアV−034ね。よし、移動だ」


 良は目標のエリアに到達すると、データのコピーを行う。コピーを行ってる間にも、地虫達の残存率は下がっていく。
「くそっ、まだか!!」
 地虫の残存率はついに1桁になった。さらに追い討ちをかけるように、蜘蛛の糸が淡く光を発する。
「ゲートも復旧だと! くそっ」
 地虫の残存率がカウントダウンするのに合わせて、ゲート復旧までの予想時間もカウントダウンしていく。ここでゲートが閉ざされたら終わりだ。無事に外に出ることは不可能に近い。よしんば脱出できたとしても、平泉特製の攻性防壁が大挙して押しかけてくるだろう。
 コピー完了までの終了予想時間と、地虫の駆除までの時間、そしてゲート復旧までの時間がもつれあうかのように競争を行っている。それを、焦れた視線で良は見守っていた。そして、数秒を残して、コピーが完了した。
 賭けに勝った気分で、良は蜘蛛の糸を手繰ると、良は一瞬でゲートへと到達していた。今まさに完成するゲートをすり抜けると、手にした剣で糸を切る。蜘蛛は、その場で見事なネットを張る。攻性防壁を食い止める壁にするのだ。
 もって数秒だとは分かってはいるが、その数秒が良には貴重なのである。
 良はグリッドを移動しながら、ポイントポイントで剣を振るう。こうして、自分が移動している足跡を壊しているのだ。それでも、足跡は消しきれない。すぐ背後に攻性防壁が迫っているのを感じながら、自分のノードに戻る。
 断線、データカードを抜く、ジャックを抜く、この動作を遅滞なく良は行った。
 そして、仕事は終わった。

 今、良の前には、何も映し出さないモニターと、煙を噴いているマシンが横たわっている。良は相棒に電話すると、次の隠れ家へ移動する準備を始める。
 高価なモニターとコンピュータ・・・そして、高性能なプログラムを失った。その変わりに良は多額の情報量を手に入れることができるだろう。
 椅子から立ち上がると、足の指が痛んだ。
「まず最初に、巻爪を治療するか」
 データカードを宙に放っては受け止めると、良は苦笑した。
 ここから数m歩くのに比べれば、平泉もなんてた易いことか。


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