運べない男


 朝、彼は目覚めた。
 素肌に触るシーツの感触が心地よい。右腕に感じる重みもまた、彼にとっては心地よいものだった。
「澄、起きろよ、朝だよ」
 彼は、自分の妻にやさしく声をかけた。
「んーーー」
 澄は、夫の声にのびで答えた。眠そうな目をこすりようやく視界を得ると、暖かい眼差しの夫の瞳がとびこんできた。
「おはよう、良くん」
 そして、彼女は裸の体を起き上がらせると、ベッドからすべるように出た。
 そして、寝る前に脱ぎ散らかした自分の下着を拾い集める。
 彼、来生良は、妻のそうした姿を見るのが好きだった。
 色白の彼女は、グラマーではないがスレンダーで、抱いた時のしなやかな感じが彼は大好きだった。
 カーテンの隙間からもれる朝日の中、最愛の女性の裸を眺めるというのは、かなりおつなものだと良は思っている。
「やだ、あんまりじろじろ見ないでよ、はずかしい」
 頬を赤く染めて、澄は良に眼鏡を渡す。ど近眼というわけではないが、良の視力はあまりいい方とは言えない。
 良は眼鏡を受け取り、それをかけている間に、澄は体の前をバスタオルで隠しながら、部屋を出て行こうとしていた。朝、シャワーを浴びるのは澄の長い間の習慣である。
「二度寝しちゃだめよ」
 言いながら部屋を出ようとする妻の腰に、それを見つけたのはその時だった。

 それは、取っ手、だった。

 間違いなく、取っ手だった。背骨にそってそれはついていた。
 木目調の趣味の良い赤い握りがついていて、澄には似合っているな、と思った。
「あ、おい」
 良が呼び止めようとした時には、澄はすでに部屋を出ていってしまった後だった。
 なんで、あんなところに取っ手をつけてるんだろう。
 良はそう思った。それから、一体、何時の間にあんなところに取っ手をつけたのだろうと考えた。
 昨晩、彼女を抱いた時、確かに腰に取っ手なんてものはついていなかった。それに、寝入ったのは彼女の方が先だったはずだ。
 夜中に起きだして、そんな無意味ないたずらをするような人間じゃない。それは自分が一番よく分かっていた。
 確かめなくちゃいけない。
 そんな思いにかられて、良は半ば無意識で下着をつけると、風呂場へと向かった。
 扉の向こうではシャワーの音が聞こえる。そして、髪の毛を洗っている音。
 良は半ばためらったものの、扉をあけた。
「やだ、どうしたの?」
 顔だけ振り返らせて、澄が声をかけてくる。良はそれには答えずに、目線を腰へと落とした。
 そこには、やっぱり取っ手があった。
 まるで、ずっと昔から、そこにいるかのように、取っ手は自己を主張しているようだった。
 そして、不思議なことに、それはネジや接着剤で取り付けられているのではなく、彼女自身から生えているようだった。その証拠に、まるでつめのように自然に、肌の中から取っ手が伸びているではないか。
「こんなところで二回戦なんてできないわよぉ。時間だってないんだから」
 澄は、笑いながら良に言葉をかける。しかし、良はそれには答えずに、ぽつりと問い掛けた。
「なあ、澄。おまえ、いつから取っ手が生えた?」
 自分の声じゃないみたいだと、良はなんとなく思った。
「や、やだ、いきなり。何で、急にそんなこと聞くのぉ?恥ずかしいじゃない」
 澄は、体中を真っ赤に染めて答えた。まるで、初潮がいつきたか聞かれた中学生のようだ。
「16よ」
 澄は消え入りそうな声でそれだけ答えると、あまりの恥ずかしさに顔から火でも出そうな感じでうつむいて、洗髪を続けだした。
「ありがとう」
 良はそれだけをいうと、扉を閉めた。キツネにでもつままれたような気分だった。


 良は、職場につくと、何とはなしに周りの人達の腰に目をやった。やっぱり、腰の当たりに、取っ手がついてでもいそうな感じの膨らみがあった。
 電車の中でもそうだった。女子高校性のほぼ半数の腰にふくらみがあった。澄の言う通り、高校ぐらいから生え始めるものらしい。
 しかし、確かに昨日までは誰の腰にも取っ手なんてついてはいなかったはずだ。しかし、今日は大人には取っ手が生えている。男にも女にもである。
 ついてないのは自分だけだ。国ぐるみのどっきりにでもあったような気分だった。
 良は、同僚の西村に尋ねてみた。
「なあ、お前って、いつ取っ手が生えた?」
 何ばかなこと言ってるんだ、んなもん生えてるわけないだろう、という答えを期待したが、返ってきたのは違う答えだった。
「お、お前、俺だからいいけど、他の奴にそんなこと聞いてみろ。特に女の子になんか聞かれてみろ。お前、セクハラで訴えられるぞ?」
 やっぱり、取っ手はみんなの腰に生えているらしい。
 なんでこんなことになったのかは分からなかったが、みんなにはあって、自分にはない。
 そのことだけは良にもよく分かった。


 その日の帰り、東急ハンズに良の姿はあった。彼は電動ドリルと、ネジ。
 それに、透明な握りのついた取っ手を1つ購入した。大層趣味のよい取っ手だった。


 澄が職場から帰ってくると、洗面所に夫の姿を発見した。彼は血まみれで倒れていた。腰には取っ手がついており、取っ手のつけ根から血が流れ続けていた。

 澄は救急車を呼んだ。

 かけつけた救急隊員は、大層趣味のよい取っ手をつかむと、良を軽々と担架に乗せた。

終わり


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