しのつく雨の夜に



 雨が降っている。どしゃぶりというには、雨粒が小さい。しかし、小雨というには雨足が強い。そんな雨である。サーッという音と共に降っている雨は、霧のように体にまとわりついてくる。傘をさしていても全身濡れそぼってしまう。事実、道には人影が少ない。人通りが多いことで知られるアンモニア・アベニューですら。
 そんな中を、傘もささずに歩く男がいる。フェイトコートと思われるロングコートを、襟を立てて羽織っている。そして頭にはソフト帽。誰がどう見ても探偵の格好である。
 若い男であるらしかった。帽子のつばから覗く顔と、そのしなやかな体つきから見れば。しかし、それにしては老成した表情と態度の持ち主であるらしい。
 雨の通りを無警戒で歩いているように見えるが、その視線は油断なく辺りに注意を配り、口許に浮かぶ自嘲気味な笑みがその若々しい容貌を裏切って、中年の悲哀じみた表情を作り出している。彼の名は龍道晃(りゅうどう あきら)。もっとも今は父親の名を姓にとり、雅晃(みやび あきら)と名乗っている。年は二十歳。探偵歴は4年になる。年の割には長い方だと自分では思っている。今は仕事の帰りである。頼まれた仕事が終わったところなのだ。それも最悪の終わり方で。
 彼の気分は沈みきっていた。家に帰っても、ここ数年ずっとそうであるように、暗い孤独な部屋で、疲れきった今にも擦り切れそうな心の糸を、酒と自嘲と諦めの笑みで寄り合わせ、もう1日もう1日と現実につなぎとめるだけである。彼の精神は、もう限界にきていた。今回の仕事が致命傷になっていた。
 家に帰ると精神が崩壊してしまう――そんな予感があったわけではないだろうが、彼にしては珍しく、この場末の繁華街――アンモニア・アベニューに足を踏み入れたのである。
 ――痛い、痛すぎる。探偵には不必要な感傷が彼の心を捕らえていた。しかし、そんな感情は仕草にはおくびにも出さない。彼は自分が探偵に向いていない、とはじめは思っていた。しかし今では自分ほど探偵に向いている人間はいないと思っている。彼は打算だけでは行動しない。もちろん彼だって探偵だ、打算をするときもある。しかし彼は、いつだって依頼者の身になって物事を考えてしまう。そうして、仕事と自分を割り切ることができずに、苦しんでいるのだ。彼は依頼者を助けてあげる。しかし、彼を助けるものはいない。バランスがとれない。彼の苦しみを和らげてくれる存在――彼が彷徨い探しているのは、それなのかもしれなかった。


 カウンターに座りながら、彼女は誰もいない店内を見回していた。今はもういない母から、休業中だったこの店を引き継いで以来、客は全く来なかった。立地条件が悪いとは言えない。はずれとはいえアンモニア・アベニューである。この1ヶ月で客が何人かは来てもよさそうなものだ。もっとも――と、彼女は考える。この通りの常連の客は入ってはこないだろう。母の死に方が死に方だっただけに……
 妹尾志穂(せのお しほ)。年齢不詳の美人である。見た感じは20代の前半。もしかしたら10代かもしれない。どことなく翳りのある表情は、店の照明ばかりが原因ではない。それはここ何ヶ月かの出来事が原因である。その中で母をなくした彼女は、立ち直りきっていなかった。
 店の雰囲気も、どことなく禍々しさを残している。それは店の外からもどことなく感じられる。だからこそ、客が足を踏み入れないのだろう。しかし、志穂には感じられない。なぜなら、彼女はもっと禍々しい雰囲気を知っていたから。それに比べたら、今の店の雰囲気は余程清浄なものに感じられた。
 彼女は待っていた。何を待っているのか、自分でも分からない。でも、待つ気になっただけでも大した進歩だと思う。待つということは、希望があることだ。このどんぞこの状態から抜け出す期待。自分の力ではこの店を開くのが精一杯。母が残した僅かばかりのお金は、店の内装を綺麗にするだけでなくなってしまった。死臭が漂っていた店内の内装は、思ったよりもお金がかかった。業者が嫌がったこともあるが、長い間放っていたせいで血の跡などがなかなか落ちなかったのである。全面的に改装する必要があったのだ。それでも染み付いた死臭はなかなか落ちない。それは鼻をつく臭いではない。精神に翳を落とす雰囲気そのものだ。普通の精神の持ち主ならばそれを察してしまう。それが分からない志穂は、既に死臭に捕らわれてしまっているのだろう。彼女が待ち望んでいるもの――それはこの死臭を払拭してくれる何か、なのかもしれない。


 アンモニア・アベニューのはずれで、晃はふと1つの看板に目をとめた。BAR赤龍。薄暗い灯りに照らし出されたその看板からは、何とも言えない寂寞感が漂っていた。その名前に晃は何となく親近感を覚えた。彼の開いている探偵事務所の名前は昇龍という。今はちっぽけな龍でも、いずれ天まで昇りつめてやる、そう思って開業する時につけた名前である。そんな気持ちは最近は忘れてしまっていた。まだ純真だったあの頃を思い出しながら、彼は誘われるようにその店に足を踏み入れたのだった。
 カランコロンとベルを鳴らしてドアが開いた。志穂にとって開業後初めての客であった。バーテンダーの常として、じっと眺めることもなくその客を観察する。ソフト帽にロングコート。今では珍しいぐらいの探偵の正装である。その苦しんでいるような諦めきった表情に、志穂は親近感を覚えた。
「いらっしゃいませ」と、聞こえるか聞こえないかぐらいの声をかける。その客はストゥールに腰を掛けると、ソフト帽を脱いで志穂を見つめた。その視線にはいやらしいところも、鋭さも、何も感じなかった。ただ、自分がいるということを確認しているだけ、何の値踏みもしていない。志穂にはそれが何となく物足りないような気がした。
 志穂が声もかけずに男の言葉を待っていると、店内を見渡してから晃が口を開いた。
「バーボンのダブルをロックでくれないか」
 志穂はうなずくと、グラスに氷を落としバーボンを注ぐ。
「いい店だな。今の俺にはぴったりの店だ」
 志穂の手つきを眺めながら、晃がぼそっと言う。
「無意味に明るい店は嫌いだ。疲れきった心には、これぐらい暗い店の方がいい」
「それは褒め言葉なんですか?」
 グラスを晃の前に置きながら志穂が訊ねる。晃は初めて見るかのように志穂を見つめると、肩をすくめてうなずいた。
「俺にとっては褒め言葉なんだが、普通の人にとっては違うかもな。暗いと言われて喜ぶ人はいないか」
「そんなことはないです。私の店は苦しんでいる人のためのお店です。それに、私にとっても明るさは心を刺す刃物ですから」
 それからしばらくの間、2人は押し黙ったままだった。晃がグラスを揺らす度に鳴るカランという氷の音だけが店内に響く。
 空になったグラスをカウンターに置くと、志穂がおかわりを注ぐ。既に3杯目だ。それを眺めながら、晃が声をかける。
「なあ、あんた……」
「志穂です」
「なあ、志穂さん。あんたも飲まないか? 俺がおごるからさ。一人酒は飽きちまった。もう客は来ないだろうしさ」
「そうですか? それじゃあ、ご相伴にあずかりましょう」
 そう言って志穂は、もう1つグラスを用意して、そこに晃のと同じバーボンを注ぐ。志穂が自分の酒を用意し終わったのを見て、晃がグラスを掲げる。
「この憂鬱な夜を祝して」
「私の初めてのお客に」
 2人はそうしてグラスを軽く触れ合わせる。キンという澄んだ音が店内に響く。
 飲みながらも、晃に言葉はない。志穂も酔いすぎない程度にグラスを傾けている。お互いに目を見交わしながら、声をかけるきっかけを待っている、そんな雰囲気だ。静寂を破ったのは志穂の方だった。
「あ、あの」
 晃は無言で志穂を見返している。
「名前を訊いてもいいですか?」
「ああ、俺は晃。雅晃だ。蛟竜なんて呼ぶ奴もいる」
 そこで会話が途切れる。話の接ぎ穂が見つからないのだ。その点で言えば、今日の志穂はバーテンダーとしては失敗だったに違いない。しかし、晃は他人の深入りを許さない空気を纏っていた。それを晃が脱がない限り、志穂にはどうしようもなかったのである。
 ――彼は、とげだらけの殻を幾重も張りめぐらし、その中で手足を縮めてうずくまっている少年のように見えるわ。私が無理に殻を破ろうとしても、彼はさらに奥へと隠れてしまうことでしょう。今までどれだけ傷ついてきたのかしら。可哀相――いえ、違うわ。そんな同情を彼は必要としていない。彼は傷つくことを後悔していないもの。でも、傷つきすぎてしまったのね。傷を癒す手段を知らないのだわ、彼は。助けになってあげたい。どうすれば私は、彼の救いの手になれるのかしら。
 おかしな話ね、と志穂は思った。救いの手を――この泥沼から自分を引き上げてくれる手を求めているのは自分ではなかったのか。それでも、志穂は晃を救ってあげたかったのだ。ふと、志穂は母の顔が脳裏に浮かんだ。母のしていたこと――それはまさに、傷ついた心を持つ人に、救いの手を差し延べることではなかったのか。母と同じ身になった今初めて、志穂は母をとても身近に感じた。母はそうして厄介ごとを持ち込み、結局最後は殺されてしまった。しかし自分は、もっとうまくやろうと思う。その厄介ごとに負けずに、それを打ち破れるようになろう、と。
 そうして暖かい目で晃を眺めているうちに、志穂の顔から暗い翳は一掃されていた。胸に湧き上がる気持ち――母性本能とでも言うべきそれが、彼女の表情を光の下のものへと変貌させていったのである。
 店の主の変貌に、店自体も応えていた。内装を綺麗にしてもどうしてもとれなかった死臭が、嘘のように晴れていたのである。死臭を放っていたのは店ではなく、それを引きずっている志穂自身だったのだろう。薄暗い照明さえ、寂しさや暗さを際立たせるのではなく、優しい暖かい光に感じられる。店の隅にわだかまっていた闇は、ほのかに照らし出されたゆりかごへと変わる。派手すぎない渋好みの調度品の1つ1つが光を放ちはじめる。今まさにこの店が生れ落ちた、そんな感じへと変貌を遂げたのである。
 その変貌に晃も気づいていた。店の雰囲気は暗いものから光輝くものへと変わったが、それでも光は優しく、ささくれた心を突き刺すのではなく、優しく包み込んでくれる。晃は、彼のついぞ知るとこのなかった母親の愛を感じたのである。
「不思議だな。さっきとは別人みたいに見える。この店もそうだ。さっきまでは薄暗いと思ったのに、今では明るく感じる。でも、なぜか心が安らぐ。一体どうしてなんだ?」
「あなたのおかげです。あなたが、私に母の気持ちを分からせてくれた。そのおかげでしょうね、私、今初めて母の死を受け入れられたような気がするわ。こんなに平穏な気持ちになれたのは、本当に久しぶり。そうね、母が死んでからは初めてだと思うわ。それもみんな、あなたが私に会いに来てくれたから」
「会いに来たってわけでもないけどな。ただ名前が気になった。それだけさ」
 肩をすくめて晃はこたえるが、志穂は即座に言葉を続ける。
「それでもいいんです。私のお店に来てくれたということは、私に会いに来てくれたということ。私にとってはそういうことなんです。そして、この1ヶ月というもの、私に会いに来てくれた人は誰もいなかった。きっとここで母が死んだことを知っていたからでしょうね」
 寂しそうに志穂は笑ったが、それでも志穂の顔に暗い翳りはもうなかった。晃はそんな志穂の表情には目もくれず、深々とうなずくと、納得したように声をだした。
「そうなのか。店に入ったときから、なぜか俺にしっくりくる雰囲気の店だと思った。それは、死の臭いだったんだな。確かに俺は、死臭が立ち込めた世界で糧を得ている。だからかもしれないが、普通の華やいだところにいると、追い立てられているような気がして妙に落ち着かなくなる。店に飲みに行くことも滅多にしない。今日はたまたまだったんだ。この店の看板を見なければ、きっと家に帰っていただろうな」
「名前が気になったって言ってたわよね。赤龍っていう名前、そんなに珍しいかしら」
「珍しいかどうかは分からないが、龍っていうのが気にいってね。俺は探偵をやってるんだが、事務所の名前が昇龍っていうのさ。同族だな、と思ってさ」
 志穂は少し考え込んでいたが、ポンと手を打って思い出した。
「昇龍探偵事務所――知っています。最近売出し中の若手が開いた事務所だとか。それでは、あなたがその探偵なのですね」
「売出し中、か。失敗ばかりの冴えない探偵さ、俺は。今回だって――見事に無能だったからな」
 自虐的な笑みを晃はもらす。確かに簡単な依頼はそつなくこなしている。その程度の自負はある。しかし、大事な局面になると、いつもうまくいかない。重大な選択ミスをしたり、一歩遅れることがある。今回だってそうだ。行方不明人の捜索――最も嫌な仕事だ。
 晃は、行方不明になった父親を捜すために探偵になった。そして2年かけてようやく捜し出したとき、父親は物言わぬ骸と成り果てていた。あのときほど自分の不甲斐なさに歯噛みしたことはない。つい1週間前まで父は生きていたのに。今日捜し当てた人も、既に生きていなかった。慎重を期したばっかりに、一足遅れで殺されてしまったのだ。なぜ勇気を持って踏み込めなかったのか。腕っぷしがからっきりな自分に悔しさを感じたのは、何も今日ばかりではない。カブト――護衛を生業とする人たち――の友人だって、いつも手伝ってくれるわけではない。それぐらいは分かっているのだ。それでも――やはり俺の本質はミュージシャンなんだ――そう思わずにはいられない。
 自分はスターだった父の血を継いでいる。雅という名のバンドは、一世を風靡した。そのベースを晃は務めていた。父はボーカルでありギタリストだった。そして、母の顔を知らない晃にとって、唯一人の肉親だったのだ。父のエンジニアとしての手腕は、結局父から音楽を奪うことになった。父の考案した音楽装置は今では広く普及している。晃が大事にしているエフェクターも、父の形見だ。
 そして今、探偵としての自分がミュージシャンたろうとする自分を殺している。しかし、晃は探偵であることをやめるわけにはいかない。父を捜すことが動機であったとはいえ、彼は探偵として生きることを決めたのだ。音楽を捨てたわけではない。しかし、余裕ができるまでは音楽をやることはできない。今ここで音楽に手を出してしまったなら、俺は探偵である自分から逃げ出してしまう。そういう恐れがある。その間はできない。全てのことに正面から立ち向かう。逃げることはしない。それは父に教えられた唯一のこと。父が作る歌詞は、全てが戦うものだった。彼は父とともに、彼のファンにそれを示してきたのだ。いまさら自分だけが逃げるわけにはいかない。それはファンに対する裏切りだ。今でも多くの人が雅の歌を聞いているのだ。
 それゆえに、晃は傷ついていく。振り返らず、前へと進んではいるが、1歩ごとに彼の心には傷が増えていく。足取りは重くなるが、それでも引きずるように彼は前進を続けている。晃には休息が必要だった。しかし、何かに追い立てられるかのように、晃は歩むことをやめようとはしない。一時の休養が必要なはずだった。そうしなければ、いつか彼は倒れてしまうだろう。そのことに晃は気づけない。しかし、志穂はそれを見て取った。だからこそ志穂は、彼の救いの手になりたいと思ったのだろう。
 晃の受けている傷は、彼の罪によるものではない。この歪んだ社会の流す汚れた血だ。それを身に浴びて、彼は平然としていられない。純潔を望む汚れた曇りガラス。それが彼の心だった。晃はその人々を助けられなかったことに罪を感じているのか。それは晃自身もわからない。ただ彼は、人の愛というものを知らなすぎた。彼に無償の愛を注いでくれた存在は、今では物言わぬ骸だ。それも自分の無能さ故に……寂しいのではない。虚しくもない。生き甲斐を感じない訳でもない。ただ諦めだけが彼の心に去来しているのかもしれない。彼は自嘲の笑みを漏らす。何を今更、だ。そんなものは糞の役にも立ちゃしない。ただ戦うのみ、だ。それが俺に残された唯一の道……俺は退くことはできない。それは裏切りだ。彼を信頼した人への。信頼? では信頼とは何だ? 人と人との間に成り立つ信頼関係がいかに脆いか。愛情というものがいかに冷めやすいものか。晃はそれを知っている。まさにその世界で生きているのだから。今の晃には愛を歌うことはできないだろう。そんな感情は薄れきっている。他人の愛情を信じるなんて無駄なことだ。裏切りは起きる。現に自分は、自分可愛さにあんなに愛していた父を見捨てたではないか。
 チチヲミステタデハナイカ――チチヲミステタデハナイカ――チチヲミステタデハナイカ――チチヲ……
 彼が寝ようとすると起こる悪夢のようなリフレイン。これにももう慣れてしまった。そうだ、その通りだ。俺は自分が一番可愛い。だが、お前らはどうだ? みんなそうじゃないか。行方不明の肉親を捜せ? なぜ俺に頼む。そんなに愛しているなら、お前の全てを懸けて、お前が捜せ。そんな目で俺を見るな。なぜ俺に憎悪を向ける。やめろ。言うな。
「オマエガシッカリシテレバ、アニハシナズニスンダ」
 やめてくれ。俺のせいじゃない。
「イイヤ、オマエノセイダ」
 俺だって精一杯やったんだ。
「イイヤ、オマエノセイダ」
 あれ以上に、どうやりようがあったんだ。俺はあれで精一杯だったんだ。
「イイヤ、オマエノセイダ」
「イイヤ、オマエノセイダ」
「イイヤ、オマエノセイダ」
「いいえ、あなたのせいではないわ」
 突然の肉声。彼ははっと我に返った。
 眼前にあるのは、限りない慈愛のこもった潤んだ瞳。
「あなたのせいじゃないのよ」
 ふるえ声。なぜ彼女は泣いている? 彼女は俺の何を知っているというのだ。何も知りはしない。なのに何故、彼女は泣いている?
「あなたの苦しみは、あなたの罪ではないわ」
「何がわかる……お前に何がわかるというんだ」
 呟くような声で晃が言う。そして激したように声が大きくなっていく。
「簡単に言うな。俺の何がお前にわかるんだ。わかりはしない。何も。俺のことがわかるのは俺だけだ。勝手に俺に入ってくるな。俺の痛みは俺だけのものだ。俺が傷ついたんだ。わかるか? 俺が傷ついたんだ!」
 潤んだ瞳から、涙が頬に零れ落ちる。
「わかるの。ただわかるの。感じるのよ。あなたも感じているはずよ。私を感じない? 感じたからこそ、貴方は私に会いに来たのよ。それが私にはわかるわ」
 晃にはわかっていた。多分、ここに来たときから。一目志穂を見たときから、無感動な、否、多感すぎる心で。お互いがお互いを求め合っている、と。
 酔って、うわ言の中で吐露したうつろな告白。誰にも漏らさないはずだった。彼の生きている証。告白がなくても、彼女はわかっていた、否、知っていただろう。多分、自分を見た瞬間に。
 認めるのが怖いのだ。繰り返すのが怖いのだ。裏切るのは自分。求め合い、充足したら、残っているのは裏切り。もうイヤなのだ、裏切るのは。俺は卑怯な俺を知っている。だから。
「あなたの罪ではないわ」
 彼女は繰り返した。
「私の罪よ」
 そうか。そういうことか。俺の罪を背負うというのか。そんなことはさせない。俺から俺を奪うことは許さない。
「貴方を独りにした私の罪よ」
 この女は何を言っているのだ? 今まで、会ったこともなかったのに。
 疑問、そして、突然の理解。闇夜の閃光のように。俺はこの女性を愛してもいいのだ。これからもう、俺は独りにはならない。
 彼の顔がみにくく歪む。今にも泣きそうな顔だ。最愛の人に見捨てられた幼い顔。周りに張りめぐらされていた殻は壊れた。剥き出しになったのは4年前の自分。
 晃は初めて飲むかのように酒をなめる。アルコールが、心の高鳴りと共に身体中を駆け巡る。
「いいのかい?」
 確認。する必要もないことだが。
 志穂がうなずく。それは女性のみが持ちうる無償の愛。
 晃は知らないと思っていた。でも知っていたのだ。彼も十月十日、一身にこの愛を受けていたのだから。母の子宮への邂逅。恥ずべきことじゃない。男なら誰でも女性に母性を見出すのだから。それに、自分は救われるのじゃない。共に歩むのだ。お互いをお互いで癒しながら。俺の罪は俺のもの。肩代わりは誰にもできない。彼女の哀しみも彼女のもの。でも、共に感じることができる。共に苦しむことも。
 お前は俺と共にこの道を行くというのだね?
 晃の目は語る。その目に志穂の微笑が答える。
 貴方をもう独りにしないわ。
 俺もお前を独りにしない。
 それは誓い。とても神聖な。口にしなくてもわかる。感じる。
 今日、共に生まれ変わったのだ。ならば共に歩もう。自分からお前が生まれ、お前から自分が生まれた。お前は俺、俺はお前。今なら信じられる。4年前のあのときまでそうだったように。父も、俺のことを許してくれているはずだ。
 もう傷は痛まない。傷ついたことは忘れない。これからも傷つくだろう。その時は痛むに違いない、それでも。俺はようやくまともな人間になれたのだろう。
 晃の表情は、二十歳の青年だけが持ち得るものになっていた。生命力に満ち、未来への期待と渇望、そして生きていることの苦しみ。しかし、自虐めいた自嘲の笑みはもうしない。そんなものは必要ない。
 俺はようやくまともな人間になれたのかもしれない。
 志穂を見つめて晃は思う。彼女がいれば、俺は苦しみを乗り越えられる。
 貴方がいれば、哀しみを乗り越えられる。
 私の苦しみなど、貴方の苦しみに比べれば何でもなかったのね。ただ私は泣いていただけ。貴方に会わなければ、いつまでも泣いていたでしょうね。でも私はやっと笑えるわ。共に歩んでいくわ、貴方の道を。
 2人は見つめ合うと、どちらともなくグラスを掲げた。
「父と、そして貴方のために」
「母と、そして貴方のために」
 グラスの鳴らす澄んだ音は、まるで教会の鐘の音のように、2人の心に響いたのだった。


―― 了 ――



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