異界の門


木下 達樹:2

 2014年元旦。木下達樹(きのした たつき)はアクスでの待機任務を終えると、家路へと着く。
 その心は沈み、足取りは重かった。
 本当なら・・・
 達樹は思う。本当なら、家では最愛の妻と、産まれたばかりの娘と初めての正月を過ごすはずだったのに、と。
 正月早朝の街は静かで、静穏だった。時折行き交う初詣へと向かう人々の顔は明るかった。
 そぐわないなぁ、と半ば他人事のように自分を思う。しかし、このような気分を味わっている人間が自分だけでないことも知っている。異生物による死者は、アクスが懸命に努力しているにも関わらず、なかなか減らない。現れてから赴いて退治するという対症療法のため、被害を0にすることは適わない。そして、街に常に警備として配置するには、東京は広すぎ、また人員が足りなすぎた。
 それでも、明けた今年から、室長の高橋誠(たかはし まこと)の右腕としてアクス内でも人望の厚い須藤義人(すどう よしと)の提唱した小隊制度の導入が決まっている。少ない人員で効果的に異生物に対処するためのその制度は、多くのバックアップ要員を背景にした、少数精鋭による戦術である。そして、その精鋭予備軍の中に達樹はいた。
 待機しながら、連日訓練漬けの日々を送っている。肉体は疲労に悲鳴を上げるが、それでも、体を動かしている時はイヤなことを考えることも、悪夢のフラッシュバックにも襲われることもなく、達樹は歓迎していた。
 だから、一人で家にいることが、彼には一番辛いことであった。思い出の詰まった部屋は、身を置くにはあまりにも切なくて辛く、だが、捨てることはできず、彼を暗い淵へと誘うのであった。

 達樹は家に着くと、まずは冷蔵庫を開けて缶ビールを一気に煽る。そして、体の悲鳴に応えるようにベッドに倒れこむ。ダブルベッドは広く、空いた空間が否が応でも達樹に失ったものの大きさを感じさせる。肉体が要求する睡眠欲に感謝しながら、達樹は眠りに就いた。
 6時間ほど寝ただろうか、達樹は置きだすと居間のテレビをつける。特に見るわけではないが、静けさに耐えられないのだ。静かな部屋に身を置いていると、部屋のそこかしこに妻の幻影を見つけ、そしてかけられた懐かしい言葉の数々を思い出す。もう少し時間がたてば、それは懐かしく嬉しい思い出となるのかもしれないが、今は耐えられないほどの喪失感をもたらすものでしかない。テレビの雑音で自分を誤魔化しながら達樹は買ってきたコンビニ弁当を胃に入れる。
 コンビニ弁当は味気なかった。だが、達樹は自分で料理をする気にはどうしてもなれなかった。そもそも、妻を喪ってから、食事を楽しむという気分はまったく起きなかった。食事は既に栄養補給でしかない。そして、自分が食に対して何の興味も持てなくなっているという自覚も全くなかった。せめて美味しいものを食べたい、そういう気持ちにすら、達樹はなれないでいる。
 達樹も結婚するまでは自炊の一人暮らしだった。それなりに料理にはまった時期もあり、美味しいものを食べたければ自分で作るということだってできなくはない。しかし、達樹は台所に立つ気にはなれなかった。妻のいない台所という空間と、夫婦で料理した記憶もまた、達樹の喪失感を強める。そうして喪失感を味わえば味わうほど、その思いは異生物への恨みへと転じていく。
「何としてでも、隊員に選ばれないと・・・な」
 達樹は呟くと、食べ終わった弁当の容器を無造作にごみ袋へと突っ込む。バックアップ要員になって、退治された異生物を片付けたり、怪我人の搬送を行ったりなどするためにアクスに入ったのではない。妻を喪った憤りを、妻のお腹の中にいた自分の子を喪った悲しみを、全て異生物にぶつけるためにアクスに入ったのだ。
 幸いにも、達樹には優れた身体能力があった。そして、体育大卒業を経て中学の体育教師となった達樹は、それらをいかに有効に使うかという術を学ぶ下地があった。アクスに入って以来3ヶ月以上も訓練に明け暮れているが、その中で達樹は須藤が目を瞠るほどの成長を遂げていた。
 達樹がアクスへと入隊したのは去年の9月のことである。

 達樹は妻と若くして結婚した。体育大を卒業し、中学校の体育教師となった達樹は、教師となって2年目の夏に結婚した。妻の美園とは高校時代からの仲である。もっとも、高校時代にはあまり接点はなかったように思う。確かに高校2〜3年の2年間を同じ教室で過ごしたが、達樹は陸上部での練習に明け暮れていた。だから、大学に進学後、彼女から連絡をもらった時に驚いたことを覚えている。顔は思い出せたけれど、どんな人だったのか印象をまるで持っていなかったのだ。
 付き合うようになって暫くたった頃だろうか、そう美園に打ち明けると、美園は口を尖らせると不満そうな、でも懐かしむような顔をして言ったものだった。
「大会は全部応援しに行ったんだよ? いつか『あのいつも応援にきてくれるコが気になる』って思ってくれると思ったんだけどな。でも、達樹ってば、ぜーんぜん応援席になんか目を向けないんだもん。でもまぁ、そうやって競技に集中してるトコが好きでもあったんだけど」
 一方通行の想いは、彼女の勇気によって通い合う想いへと変わった。自分は今まで、どれだけのことを見逃していたのだろうと、達樹は残念に思った。
「なんだよ、それなら高校の頃に来てくれれば良かったのに。そしたら、部活漬けで終わった泥臭い3年間も、もうちょっと華やかになったのにな」
 言い返す達樹に、美園はため息をつく。
「今は陸上しか目に入らないから、って何人もの告白を断ったって聞いたけど? だから、私も言い出せなかったのに。私が2年になって同じクラスになって、どれぐらい喜んだか。でもさ、放課後は真っ先にグラウンドに飛び出しちゃうし」
「あんなの、半分以上は口実だって。お前だったら、喜んで付き合ったと思うけど」
 達樹はからからと笑う。現に大学に入ってからも、競技を続けながら少ない余暇は美園との時間をすごしている。今できることが、高校の頃にできなかったとは思わない。それに、彼女がほしいとは、常に思っていたことだ。彼女がスタンドで応援してくれたらな、と夢見たことは一度や二度ではなかった。
 800mと1500m走でインターハイに3年間出場した達樹は、学校ではそれなりのスターだった。だから言い寄る女性も少なくはなかったが、その彼女たちが自分ではなく「インターハイ選手」を見ていることが分かったから断ってきた。
 大学に入って暫くたった5月。見知らぬ番号からの着信をもし受けなかったら、どうなっていただろうか。高校の頃に言い寄ってきた女性たちも、大学に入ると誰も声をかけてはこなかった。一人淋しく寮生活を送っていた達樹にとって、美園の存在は潤いそのものだった。
 何よりも、彼女が自分自身を見てくれていると感じられることが、達樹には一番だった。
 達樹は競技を続けていたが、成績は伸び悩んでいた。それでも、美園は必ず応援してくれていた。一人では挫けていたかもしれないと思うこともあった。だが、彼女のおかげで何とか4年間、競技を続けることができ、大学4年の時には念願のインターカレッジに出場することもできた。準決勝で敗退したが、達樹は清々しい気分であった。これで、次の夢に邁進できると思った。頑張れば、それに応じた結果がついてくることが分かったことは、自分にとっては今後の夢にとって重要なことであった。達樹は、学校の先生になりたかったのである。
 大学2年の時、達樹は美園に将来の夢について語ったことがある。もう社会人になって競技を続ける気持ちはないこと、そして、卒業したら学校の先生になりたいこと。だから教職課程を専攻するつもりだと。
 それを聞いた美園は大きく頷いて、そして、達樹ならいい先生になれるよ、と言ってくれた。その表情や言葉から、本当に達樹がいい先生になることを信じてくれていることが伝わってきて、達樹は嬉しかった。彼女が競技者の自分を好きなのではなく、達樹自身を好きでいてくれているということが分かったから。確かに彼女は、達樹がまだインターハイに出る前の高校1年の予選会から応援してきてくれたのである。何で自分のことを好きになってくれたのか、達樹は聞いたことはなかったが、聞かなくてもいいと思った。今、彼女が自分を好きでいてくれることには違いはないのだから。
 美園は達樹にとって、最大の理解者であり、協力者であった。教職課程に進むことは、競技を続けている達樹にとってはなかなかに厳しいことでもあったのだ。勉強で分からないところを教えてくれたり、競技と勉強に追われて日常生活がおろそかになりがちだった達樹の生活を支えてくれたのは、美園だった。
 教育実習を終えたある日、達樹は美園に聞いたことがあった。
「美園は、俺のことをすごい支えてくれて、美園がいてくれるからこそ、俺もここまでやってこれた。だけど、美園は? 美園は将来、やりたいこととかないのか? 俺にできることは少ないかもしれないけど、俺も美園の助けになりたい」
 達樹の言葉に、美園ははにかむように笑うと、「やりたいことなら、あるよ」と答える。「でも、それには達樹の協力がないとできないんだけど、ね」と。
 首を傾げた達樹に、美園は頬を染めると、言葉を続ける。
「達樹とね、ずっと一緒にいたい。達樹がやりたいことを思いっきりできるようにしてあげたい。それで、達樹と一緒にいろんなことを経験して、一緒に笑ったり、苦しんだりしたい。私自身が何かをするってわけじゃないけど、でも、達樹がやりたいことを思う存分やっているのを見るのが、私の一番やりたいことなの。これから先もずーっと。ホントにずーっとよ?」
 達樹は、その言葉に真剣な表情で頷く。言葉は出てこなかった、だから、達樹は美園を抱きしめた。力いっぱい。気持ちが伝わるように。自分も、ずっと一緒にいたいのだと。これから先もずっと。

 そして、2013年9月。
 小春日和の日曜日、出産を11月に控えた身重の妻と、達樹は買い物に出かけていた。あの日の記憶はどこか曖昧であり、それでいて映像だけは鮮烈に脳裏に焼きついている。
 車で近くのショッピングモールに出かけた達樹は、なぜ妻を残して車を離れたのかはよく覚えていない。何か買い忘れたものがあり、妻を車に残して自分だけ店に入ったような気もするが、その辺りの詳細ははっきりとしない。ただ、なぜ妻の下を離れたのかという後悔の念だけが強く達樹には残っている。
 店でレジに並んでいると、店の外から悲鳴が聞こえた。複数の人のあげる悲鳴。その中に、よく知った声があることを、聞こえるはずもないのに達樹は聞き分けた。
 手にした商品を投げ捨て、達樹は店の外へと急ぐ。慌てて店の中へと逃げ込んでくる人波を掻き分けながら、焦燥に駆られる。店の入り口はパニックに襲われた群集に占められていた。店の外へ進むどころか、一向に出口に近づけない。1秒が1分にも1時間にも感じられる中、達樹は近くの人を突き飛ばしながら外へと急ぐ。
 何とか店の外に飛び出した達樹は、目の前の光景に愕然とした。店へと急ぐ人の波に突き飛ばされながら、それでも転倒したりせずに立っていられるのは、達樹の足腰が鍛えぬいたものだからである。足腰の弱いものは突き飛ばされ、踏みつけられ、達樹の周りに転がって呻いている。
 そして、その先には赤い世界が広がっていた。
 鮮血が、店の前の駐車場に広がっている。
 達樹はよろめきながら、車を停めた場所へと急ぐ。異生物になぎ払われ、胴のちぎれた人が転がっている。血の海を歩く達樹の靴はすでに血に濡れ、アスファルトに粘りつく。それでも、最愛の妻の姿を求めて、達樹は歩く。
 強烈な血の臭気が鼻を刺激する。その強烈な臭いに頭が朦朧となり、胃が収縮して胃液を吐き出そうとする。達樹は嘔吐感を必死に堪え、異生物の戯れで命を失った人々の脇をすり抜けていく。
 そこには、死が立ち込めていた。倒れ伏している人に、もはや生者はいない。聞こえるはずもなかった妻の悲鳴が耳にこびりついている。最悪の想像を打ち消すように、達樹は車の中にいる妻の姿を想像しながら足を運ぶ。視線の先には、手にかけた人をむさぼり食っている異生物の姿が見える。
 熊のような生物だった。しかし、熊にしては巨大すぎる。その生物までまだ数十メートルの距離はあるはずだ。にもかかわらず、その生物は近くにいるかのような圧迫感を持って存在している。片手に人の上半身を持ち、すでに命を失ったその体にかぶりつき咀嚼している。4m近くはありそうな巨体であった。
 しかし、達樹に怖れはなかった。達樹の意識は全て、妻の下へ向かっていた。その異生物の姿を認めたものの、達樹は何も注意を払わず、自分の車へと足を運ぶ。
 車のもとへ辿りつくと、達樹は「美園!」と叫んで車を覗く。しかし、そこには妻の姿はなかった。絶望で目の前が暗くなる。しかし、達樹は一縷の望みを胸に、周囲に目を配る。車の陰に潜んで隠れているかもしれない。小走りで近くの車の陰を覗いていく。
 しかし、最愛の妻の姿はない。
 どこに・・・と、次の車の陰を目指して歩を進めた達樹の足に、何かが当たった。視線を落とすと、そこには腕があった。色の白い女性の腕が。その薬指に、見覚えのある指輪を見つけ、達樹はすとんと腰が抜けたように座り込む。
「みそ・・・の・・・?」
 腕は二の腕の辺りでちぎれており、その先はなかった。腕を拾い上げた達樹は、自分の右腿の付け根あたりに濡れた感触を覚える。
 座り込んだために、濡れた地面に染みたのだ。視線を落とすと、右側の車のあたりから血が流れてきていた。それが、自分の体にあたって流れがとまり、血溜りになっていく。拾い上げた腕を抱え、這いずるように車を回り込むと、そこに最愛の妻がいた。
 いや、妻の体があった。
 美園の体は、無残にも引き裂かれていた。上半身は左の肩口から右の腰に向かって断たれている。右手が、自分のお腹を押さえていた。腰から下は踏みにじられたようになっており、右足の膝から下は見当たらなかった。
 達樹は妻の体をかき寄せると、妻を抱え込む。血に濡れた綺麗な白い顔を必死に手で拭うが、その手も既に血に濡れていて、一向に綺麗にならない。
「美園・・・美園・・・」
 呟きながら、達樹は、妻と生まれてくるはずだった娘を失ったことを、痛いほど理解していた。
 余りにも深い絶望は、達樹の心を乾かせ、涙も流れなかった。呆けたように達樹は、美園の頭を抱え、血の汚れを拭おうと顔を拭き続けていた。
 どれぐらいそうしていたのだろうか、突然達樹の下に影がさしたが、達樹はそれにも気を止めなかった。彼の視線は妻の顔にのみ注がれ、既に思考は停止していた。
 達樹の背後で金属音が響く。そして、険しい声が達樹の背に浴びせかけられる。
「おい、何してる! 早く逃げろ!」
 それでも、達樹は動かなかった。その言葉も、自分にかけられているものだと理解できていないのである。達樹は現実と遠く離れたところに、自分の身を置いていた。大熊型の異生物が振り下ろした右腕を日本刀で受け止めた男が、達樹に動きがないことを悟ると、「ちっ」と舌打ちする。
「隊長、生存者あり。ただ、動ける様子にない。さすがに守りながらは無理だ」
 日本刀を持った男――柏木啓志(かしわぎ けいし)は、少し離れた場所で隊員たちに指示を出している隊長風の男――須藤義人(すどう よしと)に声をかける。その言葉に、須藤は「すぐ行く」と答えると、柏木の元へと駆け寄った。
「啓志、間合いを空けるぞ、ガード頼む」
 言うや、須藤は柏木の前に身を躍らせると、そのまま大熊型の懐に入り込み、諸手で大熊型の腹を打った。踏み込んだ右足が強く地を打ち、ドズンという音をたてる。その打撃は大熊型をよろめかせ、数歩後退りさせた。
 そのまま、次は左足を踏み出しつつ左拳で追い打ちをかける。よろめきつつも反撃した大熊型の振り下ろした鉤爪は、柏木が刀で受け止める。
 たたらを踏んだ大熊型はさらに数歩後退した。
「隊長、後ろの、頼みます。これだけ間合いがあれば、何とかなります」
 柏木が須藤を追い越して大熊型へと間合いを詰める。
「頼む、啓志。この状況じゃ銃撃は無理だ。仕止めてくれ」
 須藤の言葉に柏木は頷くと、刀を左腰の鞘に納める。
 柏木が居合いで仕止めるべく大熊型との間合いを詰めるのを、須藤は達樹の前に立ちはだかりつつ見つめていた。大熊型は巨大で力も強く、分厚い毛皮と筋肉が小口径の銃弾なら防ぐほどの強敵でもあるが、柏木の剣技の前では問題にはならない。その鉤爪にさえ気をつけていれば、間違いは起こらないだろう。
 腰だめに刀を構えた柏木は、襲い来る鉤爪を必要最小限の動きでかわし、すれ違い様に刀を一閃した。十分な間合いから繰り出された必殺の斬撃は、大熊型の右足を付け根から両断していた。
 柏木は、ズズゥンと音を立てて倒れた大熊型に足早に駆け寄ると、上段から刀を振り下ろした。須藤が見守る前で大熊型の頭部が胴体と別れを告げる。
 反射的にビクンビクンと痙攣を繰り返した大熊型の胴体が動きを止めたのを確認すると、須藤は「ご苦労」と柏木に声をかけてから、背後の達樹に振り返った。
「もう、大丈夫だ」
 須藤が達樹の肩に手を置いて語りかける。それでも達樹は振り返ることはない。
「別に、守ってくれなくてもよかったのに・・・」
 達樹の呟きはかすかであったが、それでも須藤の耳には届いた。須藤は達樹の襟首をつかむと、強引に立ち上がらせた。その勢いで達樹は美園の体を放してしまい、慌てて抱え直そうとする。しかし、須藤がつかんでいるため屈むことができず、視線だけが地に倒れた美園の姿の上をさまよっている。
「すまんが、死なせてやるわけにはいかん」
 呟くと、須藤は達樹の頬を張る。パアンという音が駐車場に響く。それで、うつろに彷徨っていた達樹の視線が、須藤へと注がれた。
「これは、俺たちの自己満足にすぎんが」
 前置きしてから、須藤は達樹に語りかける。
「あれは、お前の妻か。俺は、妻の分も生きろだとか、そういうことは言わん。だが、俺たちの目に止まった以上、お前はここで異生物によって死なすわけにはいかん。俺たちは、1人でも多くの人を異生物から救うために戦っている。本当は1人でも死なせたくはない。だが、申し訳ないが俺たちにも限界はある。だが、だからこそ、助けられる人は絶対に助ける。だから、ここでお前を死なせることは、俺たちにはできない。それでも、どうしても死にたかったら、ここから無事に帰って、それから自分で死んでくれ」
 そして、須藤は達樹から手を離すと、しゃがんで美園の遺体の前に膝をついた。
「すまん・・・俺たちがもう少し早く着いていれば」
 美園に対して手を合わせる須藤の後姿を、達樹は黙って見下ろす。美園のお腹の辺りに目をやった須藤の肩が小刻みに震えているのを、不思議な思いで見下ろしていた。
 達樹が見守る中、須藤は立ち上がると、再び達樹へと振り返った。
「お前の妻と子を助けられなかったことを、憎んでもかまわない。だが、やはり死んでくれるな。俺たちは、多くの人を救えないが、それでも救えた少ない人に、精一杯生きてほしい。俺たちの勝手な言い分なのは分かっているが」
 その真面目くさった顔が、嘘偽りなく本音を喋っているということを物語っていて、達樹は共感を覚えた。彼ら――アクスのことを憎む気持ちは少しもおきなかった。本当に美園を助けなくてはならなかったのは、彼らではなく自分だったのだから。そして達樹は、自分が助けられなかったことを棚に上げてアクスを憎むような人間ではなかった。
 黙って見つめる達樹の前で、須藤は再度深く礼をすると、指揮を執るべく歩き出した。その後ろ姿を眺めながら、達樹は何か言おうと思った。だが、何を言うべき分からなかった。
「あの」
 それでも、達樹は須藤を呼び止めた。自分でも不思議だった。
 須藤が立ち止まって振り返る。その顔を見て、達樹は自然と言葉を発した。自分でも何でそう言ったのか、分からなかった。
「俺、あんたらと戦いたい」
 言ってしまってから、それでも達樹は、それが今の偽らざる気持ちなのだと思った。その根底にあるのは怒りだった。妻と子の命を奪い、自分から幸せを奪ったものへの怒り。異生物によって命を失う人がいるという理不尽な現実への怒りだった。
 須藤はその言葉に驚いたように目を開くが、すぐに笑うような顔になった。
「帰って、落ち着いて考えてくれ。これが――と、周囲を指し示し――これが俺たちの生きる場所だ。それでも、もし、俺たちとこの状況を何とかしたいと思ってくれたなら、アクスの事務所を訪ねてくれ。俺たちは仲間を歓迎する」
 そして、須藤は今度こそ指揮を執りに足早に立ちさった。その後姿を眺め、達樹は助けてくれたことに頭を下げた。これから先、美園のいない日々に耐えられるかは分からない。喪った者の大きさを思うと、膝が抜けそうにもなる。だが。
 達樹はしゃがみこみ、美園を抱き上げる。
 だが、やはり自分は生きていってやろうと思う。美園と一緒に死んでしまいたいという気持ちも本音ではある。だけど、この許せない思いを晴らすまで、石にかじりついても生きてやろう、と。
「美園、先生はやめだ。お前の仇を討つまで、俺は戦って、生きていってやる。だから、見守ってくれよ、な?」
 達樹は美園の骸を力いっぱい抱きしめる。返事はない。返ってくるのは、絶望的にまで冷たい肌の感触だけだった。
 そして1週間後、妻の葬儀を終えた達樹は、親族の制止を振り切って学校を辞めると、アクスの事務所へと足を運んだのである。
 それから3ヶ月間というもの、待機中は訓練に明け暮れ、異生物が現れると戦闘後に現場へと赴き、怪我人の搬送と異生物の死体の処理を行うのが日課となっていた。そうして、2013年は暮れていったのである。

 ゴトン、と郵便受けが音を立てる。達樹は扉を振り返ると、面倒そうに立ち上がる。喪中である自分には、年賀状が届くはずもない。何かと思って郵便受けを開けると、そこには紙袋が入っていた。
 部屋に戻りつつ紙袋を開けると、そこには手紙や葉書が詰まっていた。一まとめに括っている紙には、「木下先生へ」と書かれていた。座って1つ1つ葉書や手紙を見る。そこに書かれた名前は、教え子たちの名前だった。自分が担任した生徒と、陸上部の生徒たちの名前。中には担任した生徒以外の名前も見受けられたが、それらは自分を慕ってくれた生徒たちの名前であった。
 2年半の教員生活の中で、担任として受け持った生徒は100人ほどだろうか。最後に受け持った生徒たちは今年受験のはずであった。大事な中学3年の時期に、担任が変わるということは生徒たちに与える影響も小さくはないだろう。しかし、今まで、達樹は生徒たちのことをほとんど考えてこなかった自分に気づく。学校を辞める際にも、残される生徒たちのことを考えはしなかったのだ。
 ――どんな内容が書いてあるのだろうか・・・
 優しい、可愛い生徒たちだった。だから、まさか恨み節が書いてあることはないだろう。アクスに入隊することは告げずに辞めたが、生徒たちは、今、自分がどうしていると思っているのだろうか。
 達樹はおそるおそると手紙の封を開ける。一番上の手紙は、達樹が最も信頼していた学級委員の男子のものだった。
『木下先生へ
 先生が辞めて半年ぐらいたちました。僕が先生に手紙を出したいと言ったら、みんなも手紙を出したいって言ってくれて、陸上部の人や他にも体育の授業で先生にお世話になったからっていう他のクラスの人も手紙を出したいって言ってくれて、だからみんなで手紙を書きました。』
 達樹は頷きながら読んでいる。彼の書く日誌を読んでいた日々を思い出す。
「要点はまとめろってあれだけ言ったのになぁ」
 達樹は呟いて続きに目を通す。
『先生が辞めた理由も聞きました。奥さんと、生まれてくるお子さんについて、あれだけ嬉しそうに話していた先生だから、今の先生がどれだけ辛い思いをしているのだろうと思います。僕には、それがどれだけ辛いことか全然分かりません。だけど、先生のことだから、きっと元気にしているんじゃないだろうかと思います。
 僕たちには新しい担任の先生がつきました。山下先生です。勘弁してほしいってみんなで言ってますけど、山下先生も進路の相談に乗ってくれたり、色々してくれてます。でも、先生、耳が遠いから、うちのクラスはみんな大声になっちゃって大変です』
 ――そうか、山下先生が受け持ってくれたのか。俺もかなりお世話になった先生だし、経験豊富な先生だから、大丈夫だろう。
 達樹は少し安心する。山下は大ベテランの先生で、今年で定年ということもあり担任にはついていなかったが、達樹が教員になった時から色々とアドバイスをしてもらっていた先生である。確かに少し耳が遠いところがあったなと、達樹は懐かしく微笑する。
『先生が心配しないように、僕たちはみんなで目標をたてました。みんなが自分の希望通りの進路に進むことです。僕たちも頑張るから、先生も僕たちのことは心配しないで、元気を出して頑張ってください。
 だから、卒業式の日には、ぜひ僕たちに会いにきてください。先生のお子さんの代わりにはなれないけど、僕たちはみんな先生が大好きです』
 読み終えて、達樹は胸が熱くなった。こみ上げるものを押さえながら、次の手紙を手に取る。
『先生、ガンバレ』
 便箋に汚い字ででかでかと書かれたその手紙は、クラス1のやんちゃ坊主のものだった。所謂不良というレッテルを貼られた生徒だったが、実は情に厚い子であることを知った達樹は、何かと目をかけた生徒でもある。不器用なその字に、その子の気持ちが現れていて、達樹の目には涙があふれた。
 次々と担任した生徒たちの手紙を読み進めていく。手紙を読みながら、達樹は学校を思い出していた。生徒たち一人一人の顔が浮かぶ。文章には生徒たちの個性が表れていて、懐かしかった。
 それから、陸上部の生徒たちの手紙を手に取る。大会での成績のことや、感謝の言葉、それから自分への励ましが並んでいた。
 達樹は、涙を流しながら、それらの手紙を読みふけった。そして、どうして今まで、この子たちのことを考えてこなかったのだろうと、自分を不甲斐なく思った。
 先生を辞めたという選択が間違っていたとは思えない。現に、今だって彼らの先生としてやっていける自信はない。
 だけど。
 だけど、自分が戦うということは、自分の怒りや憤り、復讐心をおさめるためだけにするものではないのだ。この戦いは、彼らの未来を守るということなのだ。
 達樹はテレビを消すと、手紙をまとめて仏壇へと歩く。仏壇に手紙を置くと、美園の遺影へと話しかける。
「見てくれ、美園。あの子たちが、みんなで手紙をくれたよ。俺が、俺たちが可愛がったあの子達は真っ直ぐで、優しい子たちだよ。俺は、これから、あの子たちのために、戦おうと思う。もちろん、俺のこの怒りがなくなったりはしないんだけど、でも、俺は、あの子たちのために戦おうと思う。あの子たちの誰も、お前みたいに死ぬことがないように。そして、あの子たちの誰も、俺みたいに最愛の人を失わないように」
 目を伏せ、手を合わせる達樹の脳裏に、美園の言葉が響く。
 達樹は、自分のやりたいことを思いっきりやって。私は、それを傍で見ているから。ずっと一緒に。
 ――ずっと一緒だ。
 達樹の頬に涙が一筋零れ落ちる。達樹はそれを拭うと、顔を上げる。その顔には、新たな決意が宿っていた。
 これから訪れる戦いの日々への、新たな決意が。


戻る