異界の門


田中 秀:1

 田中秀(たなか しゅう)はドアの前に立つと、大きく深呼吸した。そして、ノブを回すとドアを開ける。
「ただいま」
 大きな声で挨拶しながら、家に入る。自分の家だというのに、入るときはいつも緊張する。奥から、パタパタとスリッパの音が聞こえてきた。
 秀が靴を脱ぐと、目の前には母親が立っていた。エプロンで手を拭っている。その顔に、自分との再会を喜ぶ表情を認めて、秀は安堵する。

 秀は普段、アクスの寮で生活している。日勤、準夜勤、夜勤とシフトが変わるため、独身者の多くが寮を使用している。また、家族がいる人間であっても、本部近くのマンションにアクスの経費で住んでいる人もいる。税金でまかなわれているアクスにおいて、そのマンションやら寮というのは贅沢だと言われるかもしれない。
 未成年のアクスの隊員は、寮で生活していても、月に数回、実家に戻ることを義務付けられている。だから、あまり乗り気じゃなくても、秀は実家に帰る。
 それでも、家族代わりになってくれている隊員たち、特に心情的に姉と認識してしまっている藤涼子などは、実家に帰ることを喜びなさい、と言う。
 いつ死ぬかしれないアクスという組織上、家族と誼を通じることは重要なのだろう。でも、涼子の言葉は少し違う。「せっかく親がいるのだから、仲良くしなさい」と言う。
 彼女が両親を亡くしていることは聞いている。でも、自分にとって、両親は仲良くする存在ではなかった。自分はいらない子だと思って育てられてきた秀にとって、両親というのは辛い過去と対面せざるを得ない存在だったのだ。
「そこはさ、秀がオトナになんなきゃいけないんじゃない?」
 実家に帰るのイヤだと愚痴ったら、親友の藤英美からはそんなことを言われる。俺、まだ17歳なんだけど? という秀の反問には、俺だってそうさ、という言葉が返ってきただけだった。
 ――たしかにアイツ、年齢以上にオトナっぽいからなぁ。
 そうやって納得させられて、それでも緊張して、いつも実家に戻るのだ。

「元気だった? 身体は大丈夫なの? 今度はいつまでいられるの?」
 矢継ぎ早の母親の質問に、秀は鞄を下ろしながら答える。
「見りゃ分かるだろ? ピンピンしてるよ、明後日に帰るから」
 帰る、という言葉に、母親が複雑な表情をしたのを、秀は気づかない。母親こそが後悔しているのだと、社会から守ってあげられずに母親も苦しんだのだと、秀にはまだそこまで母親を思いやることはできなかった。
 だから、母親の「秀がうちに帰ってきた」と喜ぶ気持ちに、自分が水を差したのだとは気づかない。
「とにかくさ、腹減ったから、何か食べさせてよ」
 秀の言葉に、嬉しそうに台所へ向かう母の後ろ姿を眺める。昔のことを忘れて、こだわりを捨てていければ、どんなにか楽だろう。そうは思っても、胸に去来する想いは秀を苛む。秀本人が、どうにもならない自分の感情に苦しんでいるのかもしれなかった。

 自分の部屋に入って鞄を置く。高校を辞めて以来使っていない学習机に、ハガキが置かれている。表には見たことのある筆跡で自分の名前が書いてあった。なんとなくやるせない気持ちでハガキを裏返すと、暑中見舞いと書かれた下に、差出人の名前が書いてあった。
 ――やっぱり、これって贖罪とかそういうつもりなのかな。
 こうやって暑中見舞いを出したりすることで、本人は幾分か救われた気持ちになるのだろうか。だからといって、そんな自己満足的な贖罪に付き合うつもりは秀にはない。自分の母親も、父親も、かつての友人も・・・本当に自分が辛い時に突き放した人間たちが、今更取り繕おうとしても遅すぎるのだ。それよりも、弟のようにあからさまに煙たい顔をしてくれる方が、秀には理解できるし対応できる。
 ――今更だよ・・・全部遅すぎるんだよ、お前ら。俺がまっとうになったのは、お前らのおかげじゃなくて、仲間のおかげなんだ。
 秀はベッドに横になると、アクスの仲間たちの顔を思い浮かべる。それでも、やっぱり自分はこの社会に向き合わなくてはならないんだろう。
 秀はハガキを取り出すと机に向かう。
 ――まあ、確かにコイツには感謝もしてるんだ。アクスに入るきっかけを作ってくれたヤツだから。結果的に、だけど。

 小さい頃から、自分が普通の人間じゃないことに、自分が一番恐怖を感じていたと思う。気がつくと、腕にみっしりと毛が生えていて、泣き叫んだ記憶もある。
 自分が嫌っているのだから、他人もそれを認めることはないんだと、理解していた。だから、周りの人たちが自分を化け物扱いすることも、理解はできた。
 だが、理解できることと、それで傷つかないかどうかということは別物だ。好きでこう生まれついたわけではない。そして自分ではどうすることもできない。それなのに、周囲の人間は自分をつまはじきにする。悲しくて、苦しくて。
 子供というのは、異端を感じる能力が高いのだと思う。どんなに隠していても、誰かが自分がみんなと違うことを言い当てる。そして、いじめが始まるのだ。
 いじめに対して、暴力に訴えてはいけない。それは何かを終わらせる。その確信が、秀から反抗する術を奪った。いじめは陰湿だった。肉体的にはかなわないことを、子供たちも本能的に察していたのだろう。だから、ぶたれたりとかそういうことはなかった。
 上履きがなくなっていたり、机が汚されていたり、体操着を破かれたり、そういったいじめが何年も続いた。
 だから、秀は不登校になっていった。
 親は、それでも小さい頃は助けてくれていたように思う。かすかな記憶に、周りの大人から罵られ、それでも自分を庇う母の背中がある。だけど、弟が生まれてからは、自分に対して親が何かをしたという記憶はない。
 小・中学校といじめは続き、それでも高校では違うだろうと、期待を持っていた。地元の人間がほとんど行かないような私立の高校を選んだからだ。誰も自分を知らない場所へ行けば――その気持ちを強く持っていた。
 期待に胸を膨らませて教室に入った秀は、そこに見知った顔をみて愕然とした。それは中学時代の同級生であった。
 彼の存在によって、自分が救われたと思った時期も確かにあった。小学校が別で中学から同じ学校になった彼――高桑良成は、中学入学当初は自分に色々と声をかけてくれて、小学校が同じ連中からのいじめにも加わることなく、表立ってではなかったものの、裏では話を聞いてくれたり、理解を示してくれたりしたものだった。
 それが、どれだけの救いになっただろう。自分のことを友人として扱ってくれる人がいる。その事実が秀の心を慰めたし、いじめに屈せずに学校に行くという動機にもなっていた。しかし。
 ある時を境に、高桑は自分を避けるようになった。話し掛けてもこない、他人の目がないところでも、自分が近づくと慌てて逃げる。
 信じていたから、友人だと思っていたからこそ、その高桑の態度はどんないじめよりも秀には堪えた。そして、秀は世の中には自分の味方がいないのだと思い込んだ。

「中学の頃、避けてゴメンな」
 高校からの下校時、高桑が自分に近づいてきて、そう言った。秀は一瞥しただけで、相手にしなかった。もはや、高桑は自分にとっては許せない相手になっていた。
「俺、周りから責められて。なんで田中に話し掛けるんだ、って。いじめられたくなかったんだ、それで」
 申し訳なさそうに謝罪する高桑に対して、秀は怒りが込み上げてきた。結局、みんな自分が可愛い。それは分かる。だったら、何で今ごろ、自分の前に現れたのか。
「それで? 俺が分かったよと許すとでも思ってるのか?」
 冷たく突き放した秀の言葉に、高桑が心底傷ついた顔をする。ふざけるなと秀は思う。傷ついたのは、俺なのに。
「お前がしたのは、他の連中が俺にしたのとイッショだよ。俺の中では、お前は俺をいじめてきたあいつ等以上に、許せない。お前が俺を避けた時に、俺はお前と縁を切ったんだ。俺はここで過去を捨てて生活したい。俺の前に出てくるなよ」
 立ち尽くす高桑を見ることもせず、秀は歩を速める。だから、自責の念に顔を歪め、泣き出しそうな高桑の顔を見ることはなかった。

 それ以降、高桑は秀の傍に寄ってくることはなかった。ただ、ちょっと離れた場所から秀のことを見つめていた。その辛そうな、淋しそうな視線に秀は気づいたが、無視した。
 ――今更、なんだっていうんだ。どうせ、また、何かあったら俺のこと見捨てるに違いないんだ。
 自分が辛いとき、手を差し伸べておいて、つかもうとしたら引っ込めた。その事実が秀の心を頑なにしていた。手を引っ込めた側が傷ついたって、そんなのは自分の知らないことだ。そんなに苦しいなら、苦しめばいい・・・秀は、復讐のような気分で、高桑の存在を無視しつづけていた。
 実際、高校ともなると、社会に魔法使いや獣返りなどの異能を持つ子供たちが受け入れられ始めたこともあるのだろうが、小・中学ほどのいじめというのは存在しないようだった。また、秀も自分の異質さを出さないように、細心の注意を払っていた。そして、ようやく得た友人たちとの学校生活というものに、秀は満足していた。

 しかし、そんな生活も数ヶ月とはもたなかった。

 夏休みを控えた初夏のことだった。期末テスト目前でピリピリした雰囲気ではあったが、それでもその後に控える夏休みへの期待も大きい。秀も初めて迎えられるであろう級友と遊ぶ夏休みに心を躍らせていた。しかし、彼にはその夏休みはやってこなかった。

 最初の悲鳴は、校庭から聞こえた。

 すぐに全校放送が流れる。異生物の出現・・・誰しもが恐れる災害である。東京に住むものにとって、異生物に遭遇することは天災と同じであった。そこには何の意思もない。ただ運が悪かっただけ。人々にできることは、他の誰かが犠牲になっている間に、逃げることしかないのである。
 校内はすぐにパニック状態になった。誰もが一目散に外へと走る。秀は窓から校庭を見下ろす。そして、見なければ良かったと後悔した。そこに広がっているのは、惨劇であったから。
 学校の正門から外に出るためには、一度校庭を通らなくてはならない。裏門へと到る通用口は狭く、大勢が通り抜けるには向いていない。
 階下から聞こえる怒号や絶叫で、すでに通用口は通れないことが秀には分かった。最悪、転倒し踏まれ命を落としているものがいるかもしれない。
 同じ様にパニックに陥って廊下に駆け出そうとする級友を、秀は制した。
「待って、みんな。今は下にいかない方がいい。まだ怪物は校庭にいるし、下はきっと身動きできなくなってる。そこに怪物が襲ってきたら、逃げることもできないよ」
 秀の言葉に、級友たちは一瞬動きを止めるが、それでも彼らは学校の外に出ることを選ぶ。必死で制止する秀の言葉を聞かず、彼らは廊下へと駆け出していく。
 クラスに残ったのは、秀と高桑の二人だけとなった。
「お前は、何で行かないんだ?」
「行かない方が安全なんだろ?」
 秀の言葉に、高桑は当たり前のように答える。
 更に正面玄関の方から悲鳴が聞こえる。どうやら、異生物が校内へと侵入し、通用口を諦めた集団に襲いかかったようだ。
 秀は苦笑する。自分の言葉を唯一信じたのが、高桑だとは。結局、自分の本音を知らせずに付き合ってきた人間とは、真の友情を築けないのだろうか。
「どうだかな。結局、外に出ないことには安全じゃないけどな」
 秀の言葉に頷いた後、高桑はじっと何かを考えている風だったが、意を決したように口を開く。
「田中は、みんなを助けられないのか?」
 秀は、耳を疑った。こいつは何を言ってるのだ?
「田中は、ほら、アクスで戦ってるような人たちと同類なんだろ? ニュースとかで言ってるじゃないか。田中は、みんなを助けられないのか?」
「俺は、確かに化け物の仲間だけど・・・でも、戦ったことなんかない。それに、俺にみんなの前で化け物の姿を晒せって言うのか?」
「でも、みんなも助けてくれたのが田中だって知れば」
「お前は異質を排除する人間の本質が分かってないんだっ!」
 秀は悲鳴を上げるように叫ぶ。それで高桑は押し黙ったが、視線では訴え続けている。秀は疎ましげにその視線から目を逸らす。
 その間も、校内放送では狂ったように落ち着いて教室に戻れという放送が続けられている。しかし、その効果はないようだ。階下では悲鳴が移動している。
「アクスが来る前に、皆殺しになるかもな」
 高桑のもらした呟きに、秀は頭を掻き毟る。
「分かったよ! やればいいんだろ、やれば! アクスがくるまでの時間稼ぎでも何でもやってやるよ! それで、俺は転校すりゃーいーんだろっ。畜生っ、せっかくまともな生活送れてたのに。何だってんだよ」
 秀は窓を開けると、身を乗り出す。
「お、おい、田中?」
 慌てて駆け寄る高桑に、秀は一瞥を送る。
「じゃーな」
 そして、秀は飛び降りる。3階から地上までの一瞬で、すでに秀は獣人へと変貌を遂げている。しなやかなバネで衝撃を受け止めると、猫科の猛獣の動きで正面玄関へと走っていく。
 正面玄関へと走っていくと、怪物から逃れ正門へと向かう生徒たちが慌てたように道を開ける。別の異生物が現れたのだと思っているのだろうか、悲鳴を上げて逃げていく。
 秀は獣人になったからといって、背が大きくなったりといったことにはならない。ただ、体が毛皮に覆われ、筋肉が盛り上がり、鋭い鉤爪が生える。顔は人間の面影を残しつつライオンやトラめいたものになるのだ。
 玄関から中に入る際に鏡に映った自分の姿を目にして、秀は苦々しく思う。どうせなら、もっと化け物になってしまえばいいのに。高校の制服に身を包んだその姿は、わかる奴が見れば間違いなく自分で。これで、この学校にはいられなくなったのだと、秀は悟る。
 血を流して倒れている学友を辿り、悲鳴の上がる先へと秀は逃げ惑う生徒をかき分けて進む。倒れている生徒も、思いのほか生きている者が多い。異生物も戸惑っているのかもしれない。異生物にしても、ここは見知らぬ土地なのだから。
 ようやっと異生物の背中が見えた。そこにはエビやカニのような殻を背負った小型の熊のような生物がいた。足元には逃げる背中を鉤爪で薙ぎ払われて倒れる学友たち。
 ――あんなのに敵うんだろうか?
 一瞬恐怖心が襲うが、ここで二の足を踏んでは化け物の姿を晒した意味がない。秀は自分に喝を入れるように吼えると、異生物の背中めがけて鉤爪を振り下ろした。
 渾身の一撃だった。だが、手には軽い痺れが残り、その一撃はむなしく殻に弾き返された。
 戦ったことなんてない。しかも獣人の姿で思いっきり動いたことすらない。秀は自分で自分がどれぐらいの力を発揮できるのかまるで知らない。
 ――まあ、こんなもんだろうとは思ったけどさ。
 自嘲気味にそんなことを考え、それから用心深く身構えた。今の一撃で、異生物の気をひいたのは間違いないからであった。
 異生物は女子高生に振り下ろそうとした手――前足を止めると、ゆっくりと秀の方に振り返った。秀はその異生物の眼光に、異生物が興奮していることを知る。異生物もまたパニックに陥っているのだ。
 ――これなら、何とか時間稼ぎぐらいはできるかもしれない。
 秀は異生物の一挙手一投足に注意を配る。自分の鉤爪は相手の殻を通ることはなかったが、相手の鉤爪は自分の毛皮を通り抜けるだろう。
 低い唸り声をあげながら突進してくる異生物をいなすと、注意をひくように軽く後頭部を殴る。異生物が変わらずに自分に向かってくるのを確認すると、秀は空き教室へと異生物を誘導する。周りに生徒たちがいるのでは、邪魔でしょうがない。異生物が秀に誘われて教室に入ったのを見て、廊下で逃げ惑っていた生徒たちは歓声をあげて外へと走っていく。
 ――まあ、とりあえずこれで目的は果たせたってことか。あとは、こいつをアクスが来るまでここに足止めしとけばいいんだろ。
 言うほど簡単じゃないのは、実際に異生物に対峙している秀には痛いほどわかった。ちゃんとした訓練を受けているなら別だろうが、かろうじて肉体的ポテンシャルでは異生物と互角、もしくはそれ以上だろうが、自分はどうやって戦えばいいのかがまるで分からないのだ。
 とにかく、自分の動体視力と反射神経を頼りに攻撃をかわすことしかできない。ときたま隙をみては自分から攻撃をしかけてみるものの、動く相手の殻の隙間を狙うなどという芸当はできない。鉤爪はむなしく殻にかすかなひっかき傷を残すだけだ。
「痛ぅ」
 秀の口から痛みがもれる。かわしたと思った相手の爪が、学生服ごと自分の毛皮を切り裂いていた。
 かわしたはずなのに、という思いが秀を焦らせる。より大きな動きでかわすことは更なる疲労を呼び、それが動きを悪くし、そしてまた手傷を負う。秀は悪循環に囚われかかったが、大きく後にとび間合いを開けると、一つ深呼吸した。
 ――自分がどれぐらい動けるか把握しながら、それでかわしていこう。アクスが来るまで生き残っていれば俺の勝ちなんだ。
 秀は自分の胸を見下ろす。切り裂かれた学生服から覗く毛皮は赤く血に塗れているが、すでに傷口はふさがり始めている。自分の化け物さに半ば呆れつつ、秀は異生物へと向かっていく。

 異生物の動きに集中し、自分の状態に気を配るにつれ、秀は余計なことを一切考えなくなっていた。外の喧騒も遠のき、ただ、相対する異生物と自分だけを知覚する。異生物の動きが手にとるようにわかり、それをよけるだけの動きを自分の体に命じる。一瞬前に脳裏に描いた映像通りに自分の体が動くことを確認すると、また相手の動きに注意を向ける。
 だから、その時が来たことに、秀は気づかなかった。
 自分の斜め後ろから滑るような動きで異生物の元へと近寄る男を視界の隅に捉え、秀は一瞬動きを止める。
 その男は左腰に日本刀を構え、右手は柄を握り、左手は鞘に当てられていた。
 抜刀。しかし、それは秀の目には見えなかった。一瞬光が煌いたかと思うと、刀はすでに鞘に納まっていた。
 ず・・・と異生物の首から上がずれたかと思うと、異生物は倒れ伏した。
 その映像を見て、初めて秀はアクスが到着したのだと知った。
「隊長、終わりましたよ。この坊やが疲れさせてくれてたから、造作もなかった」
 今、剣の絶技を見せた男が、秀の背後に声をかける。秀が振り向くと、そこには落ち着いた顔をした大人の男がいた。
「君は、ここの生徒かな?」
 男の言葉に秀は頷くと、変身を解く。毛皮が人の肌にとって変わり、鉤爪は消え、獅子を思わせる顔は完全に人のものへと変わる。
「君のお陰で、被害は最小限ですんだようだね。駆けつけるのが遅くなって悪かった。礼を言うよ」
 頭を下げられて、秀は慌てて首を振る。
「い、いえ、自分が助かるためだから」
 その言葉に、男は微笑を浮かべると、秀の肩を優しく叩いた。
 ――よくやった。
 肩を叩く手からその想いが伝わってきて、秀は下唇を噛んだ。こんな風に人に誉められたのは、生まれて初めてだった。泣きそうになるのを堪えていると、男の背後から女性の声が聞こえた。
「隊長、救急も到着しましたよ。あたしもざっと見て回ったけど。校内のコたちは命に別状ないのが多いみたい。どっちかっていうと、熊虫型にやられたのより、逃げるコたちに踏まれたりした方が被害が多そう」
 その女性は、隊長と呼ばれる男に報告を済ませると、秀へと視線を転じた。
「あ、君ね。戦ってくれてたコって。大丈夫? 怪我はない?」
 言ってから、秀の切り裂かれた制服に気づいたのだろう。慌てて駆け寄ると「何で早く治療してあげないの」と隊長を叱り飛ばす。
「あ、いや、大丈夫です。もう傷は塞がってます。俺、化け物だから」
 秀が慌てて手を振ると、女性はきっと顔を上げた。その顔があまりに綺麗で。だから、自分の左頬でパァンという音がしても、自分が叩かれたのだとは気づかなかった。
「何てこと言うのっ。ばかっ。あなたは化け物なんかじゃない。化け物なんかじゃないのよ」
 自分を睨みつけていた視線がふっと緩む。目の端に涙すら浮かべている。どうしてこの人は、自分なんかのために、泣いて怒っているのだろう?
「おいおい、涼子。協力してくれた少年を引っぱたいてどうするんだ?」
 変わらぬ落ち着いた調子で、隊長と呼ばれた男が、涼子と呼ばれた女性をたしなめる。それで、女性――涼子は、はっとした顔になる。
「ご、ごめんなさいっ。あたしったら。痛かった? 大丈夫?」
 心配そうな顔に、秀は何だか笑いがこみ上げてきた。何なんだろう、この人は。異生物みたいな化け物に切り裂かれても傷が癒えている自分に対して、女性の平手打ちが効くはずもないのに。そう、この反応はまるで・・・まるで、15歳の少年に対する態度で・・・
 そう思ったら、途端に秀の目に涙が溢れてきた。そう、自分はまだ15歳の少年でしかないんだ。死ぬかと思った。怖かった・・・
 ふわっと頭を優しく抱きかかえられた。頭を優しく撫でる感触に、秀の心がほどけていく。
「怖かったよね。もう、大丈夫よ。頑張ったね。もう、安心していいんだよ」
 優しい声が耳から心に染み渡っていく。秀は涼子に抱きかかえられるまま、涼子の肩口に顔を押し当てると、声を押し殺して泣いた。涼子はやさしく頭を撫でながら、ずっと抱きかかえていてくれた。
 どれぐらいそうしていただろうか。ようやく落ち着いて涙も止まると、「こら」と頭を小突かれた。顔を上げると、剣士の男がからかうような顔で秀を見ていた。
「泣き止んだんなら、涼子から離れなさい。コレはうちのアイドルでね。お前みたいな若造には本来なら触らせてもやらんのだ。お前が頑張ったご褒美にお目こぼししてやったが、これ以上は許すわけにはいかないなぁ」
 秀は慌てて涼子から離れる。と、足元に転がった椅子につまづいて、派手に尻餅をついてしまった。それを見て3人が笑う。秀も笑った。晴れやかだった。こんな風に笑ったのは初めてだったかもしれない。

 その後、他の隊員だろうか、沢山の人がやってきて異生物を片付けたり、怪我人を運び出したりしていった。それを見守る隊長の背中を後ろから眺めて、秀はなかなか声をかけられないでいた。もう決心は固めていた。この生活と別離するのにためらいはない。
 また、新しい場所で自分の素性を隠して嘘の生活をするよりも、さっきみたいに泣いたり笑ったりしたい。
 そして、その気持ちは、異生物を片付けにやってきた人の中に、自分とさほど歳の変わらない少年がいたことで強くなる。そう、アクスでは、自分のような獣返りは重宝されているのだというではないか。
 声をかけようかどうしようか逡巡しているうちに、他の隊員たちが隊長に報告をして去っていく。そして、隊長を含め6人が残ったところで、隊長は秀の方へ振り向いた。
「田中くん、君のお陰で被害が少なかった。本当に助かったよ、ありがとう」
「い、いえ・・・」
 秀は俯いて返事をしたが、唾を飲み込むと顔を上げ、隊長の目を正面から見つめる。
「お、お願いがありますっ。俺・・・私を、アクスに入れてください」
 そして、頭を下げる。
 やっぱこうなると思ったよ、と剣士の顔が言っている。隊長が口を開く前に、涼子が1歩前に歩み出る。
「田中くん、こちら側に来てしまうと、もう、普通の生活はできないよ。友達と話したり、遊んだり、家族と一緒に過ごすことも、安心して日々過ごすことも」
 その言葉に、秀は顔を上げると、真っ直ぐに涼子の顔を見る。秀の顔は苦渋に満ちている。
「普通の暮らしって何ですか。僕には友達なんかいません。上辺だけの友人はもういりません。ずっと化け物だと言われて暮らしてきました。家族は僕になんか見向きもしません。毎日苦しかった。何でこんな風に生まれたんだって。でも、さっき思ったんです。こんな僕を化け物じゃないって言ってくれて。よくやったって誉めてくれて。頭を小突いて冗談を言ってくれて。相手の顔色を窺わずに、ビクビクしないでいられて。そして、自分にもできることがあって。後悔はしません。だから、僕をアクスに入れてください」
 その真剣な言葉に涼子は頷くと、隊長に振り返る。
「分かった。アクスは適正のある人物に対して、常に門戸を開いている。ただし、君は未成年だ。まずは親御さんを説得しなさい。そして、アクスの本部に来なさい。それが、君のスタートだよ」
 秀は頷く。そして、去っていく6人を見送って、自分もあの中に入るのだと誓った。

 そして、今。
 自分は、あの中にいる。化け物じゃないと言ってくれた涼子は、自分に弟の姿を重ねていたことを知っているし、頭を小突いて笑った剣士はもういない。隊長は室長になった。
 自分は、自分らしく生きている。
 ――アクスでいる時のように、ここでもしていればいいのかもしれない。
 秀は、机の上の葉書にペンを走らせる。
 そうだ、まずはこいつを友人と思うことから始めよう。こいつは、俺が化け物だと知っても変わらずにこうやって連絡をくれるんじゃないか。
 親友の英美に対して手紙を書くように。彼はかつての友人へ、手紙を書く。

暑中お見舞い申し上げます。
暑い中、勉強ごくろうさん。こっちは毎日戦ってるよ。
お前が無事に生活できるのも、俺のお陰なんだから感謝するように。
感謝の意をこめて、獣人でも平気な可愛いコを紹介しなさい。
俺は出会いに飢えているのだ!

 文章を読み返し、秀は想像する。これを読んで、高桑はどう思うだろう。喜ぶだろうか。
 高桑の喜ぶ顔を想像して、秀は満足そうに頷いた。それは、高桑の辛そうな顔を見るよりも、よっぽど気分が良いことだったのである。


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