異界の門


須藤 義人:1

 11年という歳月は、決して短いものではない。振り返ったときに、たとえあっという間だったように感じても。
 新橋の飲み屋で、須藤義人は昨日までの上司と酒を酌み交わしていた。
「悪いが、俺は先にあがらせてもらうぞ」
 上司の口からその言葉を聞いたのは、1ヶ月ほど前であった。すでに内実では須藤がすべてを仕切っていたとはいえ、その言葉は須藤を震撼させた。
 その日から昨日まで、顔を合わせるたびに翻意を促してきたが、上司であった高橋は首を縦に振ることはなかった。
 そして今日。最後に本部に挨拶に来た高橋を誘って、須藤は飲みに来たのだ。
「これで、とうとう私が最古参ですか。ずるいですよ、私は一介の武術家にすぎないのに」
 須藤の言葉に高橋は笑いながら肩を叩く。
「何を言ってる。君が武術家だったのは、最初だけだよ。それ以後は立派にアクスの隊員だったじゃないか」
「それでも、室長なんていうのは、自衛官だった高橋さんのような人がやってくれないと困ります。高橋さんがいたから、私は安心して部隊について切り盛りできたのに」
 須藤は非難する目を高橋に向ける。
「まあ、そう言ってくれるな。私のような古い考えでは、もはや対応できんのだよ。君の進めた部隊編成はうまくいっているじゃないか。何も事務的なことをやれと言うのではないよ。室長といったって、昔ほど何でもかんでもやらないでよくなったんだから。それに、君もそろそろ現場から退く準備をしておいた方がいい」
 須藤は驚いた顔を高橋に向ける。
「須藤くんには思うところもあるだろうが、こういう考えもあるということを覚えておいてほしい」
「私がやれると感じている間は、現場を退くことはありません。そもそも、私はまだ、武術家としては何も掴んでいないのですから」
 須藤はそう言って、杯を空ける。それを見守る高橋は、もう何も言わなかった。退いた人間として、何もいう資格がないことは十分にわかっていたのである。
 高橋は須藤の横顔を眺める。11年前、やはりこうして高橋は須藤の横顔を眺めた。お互いに顔に皺が増え、髪の量が減り、髪の色が薄くなった。しかし、それでもこの横顔は11年前と変わらなかった。

 高橋が須藤と初めて会ったのは、11年前のことだった。アクス設立の準備に向けて奔走していた時期だ。高橋は自衛官の中ではエリートコースにいた男だった。つまり、実戦の先鋒となるのではなく、後方で指示を出す立場になるべき男だった。
 軍としての自衛隊では効果的に異生物に対抗しえないという論調は内外から上がっていた。そこでアクスという異生物専門の組織を作るという動きが起きた時、高橋は真っ先に名乗りを挙げた。
 何がそうさせたのか、自分ではよく覚えていない。いろいろな打算もあったのだとは思う。このまま自衛隊にいて偉い立場になったとしても、その身分に魅力を感じなかったのは確かである。
 生活の糧に選んだ仕事でもあったが、そもそも高橋は国を守るために自衛官になることを選んだ人間であった。そして、自分の出す命令の元、異生物と戦って命を散らす兵たちに後ろめたさがあったのも確かではある。
 アクス設立の構想が実体化を始めたとき、アクスは自衛官、警察官、機動隊出身者を母体とするが、組織としては新たにする必要があると感じていた。下手な属意識は無用である。そして、民間からも有用な人材を集めなくてはならなかった。
 高橋がその道場を訪れたのは、その道場が江戸時代から続くという合気柔術の一流派だったからである。柔道や剣道はスポーツ化してしまっているが、古武術なら実戦を意識しているだろうと思ったのだ。それは、武術に対する淡い信仰かもしれなかったが、高橋の想像は当たっていた。
 『須藤流合気道』という看板のかかった道場に足を踏み入れると、そこには静謐な空気があった。昼前という時間だからだろうか、そこには誰もいなかったが、明らかに何か濃密な気配があった。それは高橋が古武術というものに期待する何かと合致しているかのように感じた。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
 静寂を破るのが惜しい気がしたが、高橋は声を出した。自分の声が思った以上に道場に響いて驚いた。そのとき、道場の奥から現れたのが須藤だった。和服の達人を予想した高橋を裏切って、須藤はどこにでもいそうな若者だった。
「何の御用でしょうか」
 須藤の歩き姿、立ち姿に、高橋は感じ入るものがあった。高橋はエリートとはいえ自衛官である。一応の武術の仕込みぐらいはされている。半素人の自分の目から見ても、この若者が武に秀でていることが分かったのである。
 高橋は名刺を取り出すと、自分が自衛官であり、政府からの要請でやってきたことを告げた。須藤は名刺を受け取ると、「当主に取り次ぎますので」と高橋を応接室へと通した。
 応接室は質素で飾り気がなかったが清潔で、そして壁には看板がかかっていた。そこには『須藤流合気柔術』とあった。合気道というのは世間向きで、本来はこの合気柔術が受け継がれたものなのだろうということは想像できた。時代を感じさせる看板に見入っていると、声をかけられた。低めの落ち着いた、そして威厳に満ちた声であった。
「お座りください、私が当主の須藤秀人です」
 高橋が会釈して座ると、須藤秀人も席についた。遅れて、義人がお茶を持ってやってきた。
「不調法でお茶も出さずに申し訳ない。当主は私だが、今では師範代は息子に継ぎ、道場のことは任せております。義人を同席させても問題ないですかな?」
 高橋は頷くと、秀人の後方につき従って直立している義人を一瞥してから、話を切り出した。

「確かに、異生物の噂については聞いております。ここいらではまだ現れたという話は聞かないが、都心の方では自衛隊の方々が戦っている、と」
 秀人の言葉に、高橋は頷いた。そして、政府が近々異生物についての発表を行うこと、そして異生物に対する特別な機関を設立すべく、今準備をしていることを告げた。
「なるほど。で、我らには何をお求めかな」
「異生物に対する機関に、ご助力を要請したいのです。できうるならば、共に戦っていただきたい」
 高橋の言葉に、秀人は静かに目を閉じて考え込んだが、やがて決心したように口を開いた。
「すでに私は現役を退いた身。その役目、息子の義人にやらせましょう。ただ、義人も若輩者ゆえ、技はたつが武術の真髄を見出してはいません。ご迷惑はおかけすると思いますが、それでもよければ助力いたしましょう」
 高橋は、後ろにたつ義人の表情を見た。義人は明らかに不服な顔をしていた。この役目というよりも、いまだ若輩者扱いされていることに反発している、そういう表情に見えた。
「義人殿の方で依存がなければ、ぜひにもお願いしたい」
「当主が決めたことであれば、私に依存はありません。若輩者ではありますが、できる限りのお力添えはいたしましょう」
 そして、義人はアクスの一員となったのであった。

 須藤義人が初めて皇居内にあるアクス本部となる予定のビルへと来た時、高橋は握手をして出迎えた。他にも数人の民間人を登用したが、その中でも須藤義人という人間は群を抜いていたのだ。高橋としては、彼に期待するところが大きかった。
「この間、お父上が武術の真髄とおっしゃっていたが、どのようなことですか?」
 興味本位で高橋は聞いてみた。答えてくれなければそれでいい、というぐらいの質問だった。
 しかし、須藤は苦虫を噛み潰したような表情ではあったが真摯に答えてくれた。
「私の父や祖父は、達人なのです。おそらく肉体的な強さ、技の巧みさでは私の方が上でしょう。若いですし、自惚れでなく私には充分な武術の才があると思いますから。それでも、祖父や父は私の強さは道場の強さだと。見せ掛けの強さだと言うのです。確かに私は、組み手や乱取りでも負けたことはありませんし、父や祖父の勇名に惹かれてやってくる他門の武術家にも負けたことはありません。試合をしたら、こいつには敵わないと思うような人間にも、あったことはありません。ですが、父や祖父から見たら、私はまだまだなのでしょう。助言を求めてはみたのですが、自分で見出せの一点張りでした。ただ、この役目で真髄をしることができるだろう、と」
「ああ、成る程。須藤さんは自分より強いかもしれない相手と、本当に戦ったことがないのですね? 勝てると分かってる勝負をいくらやっても真の強さは確かに得られないかもしれない。素人の考えで悪いですが」
 高橋の言葉に、須藤は分かっているというように頷いた。須藤の想像しているところも、結局はその辺りなのだろう。
「ということですので、よろしくお願いします」
 律儀に頭を下げる須藤を見て、高橋は死なずに生き残ってくれさえすれば、この男はかなり有用な人材になるのではないか、との思いを新たにしたのだった。

 須藤は、アクス設立の準備に負われる高橋とはなかなか会う機会がなかったが、同じように集められた人たちと話をしたりしていた。使命感に燃えているものもいれば、復讐のために志願したものもいた。自衛官や警官が圧倒的に多い中、民間人である須藤は多少の居心地の悪さを感じていた。
 そして、とうとう出動の時が来た。異生物が現れたのである。
 アクスの隊員となることが決まっている者たちがブリーフィングルームに集められる。壇上には自衛隊の指揮官と思われる人間が数人立っており、その中に高橋の姿もあった。
 戦術の確認が行われた。基本的には銃器によって異生物に攻撃を仕掛ける。しかし、異生物によっては頑丈な外殻を持つものや、強靭な筋肉で弾丸を通さないものもいる。隊員たちはいくつかの隊に分けられた。10人で1つの隊であり、5人の狙撃手と5人の前衛に分かれる。狙撃手が攻撃を行い、前衛の人間は狙撃手を守るのが役目とのことだった。須藤は当然のことだが、前衛になった。
 自衛隊の装甲車で現場へと急行する。小隊長の指示で各隊とも散開していく。須藤も小隊長に従って持ち場へと走る。
「狙撃手、構え」
 小隊長の命令で5人の狙撃手が通路の先に狙いを定める。前衛である須藤は、射撃の邪魔にならないように脇に待機していた。自分の横にはジェラルミンの盾を持った機動隊員が同じように待機している。
 無線で異生物の位置が知らされてくる。そして、自分のいる通路へと異生物は追い立てられてきた。固唾を飲んで須藤は通路の先を見つめる。重たい空気の中、通路の先に黒い影が現れた。それは2mはあろうかという生き物だった。須藤は熊を連想した。
「撃てっ」
 小隊長の号令で狙撃手が自動小銃を乱射する。初めて耳にする射撃音に鼓膜を打たれながら、須藤は異生物を見つめていた。自動小銃のマガジンが空になるまで撃ち尽くされた。銃声は止んだが、銃声の余韻で耳が痺れる。まだ銃声が鳴っているように感じる。異生物が倒れる姿を須藤は想像したが、異生物は倒れなかった。敵愾心を剥き出しにした咆哮が銃声以上の音量で須藤の鼓膜を打つ。
「狙撃手下がれ、次の地点へ移動。前衛、足止めしろ」
 小隊長の命令に、前衛が狙撃手の前へと並ぶが、須藤は一瞬呆けたように立ち竦んだ。多少の訓練を受けたとはいえ、須藤は集団戦闘には不慣れだった。しかし、その一瞬が皮肉にも須藤の命を救った。
 異生物が想像以上の速度で前衛へと突っ込んできた。ジェラルミンの盾はあっけなく薙ぎ払われた。通路の脇で立ち竦む須藤へと、生暖かいものが降り注ぐ。
「何してる、退け」
 前衛の内の1人に腕をつかまれて、須藤は我に返った。機動隊員の血と肉片にまみれながら、須藤は転がるようにして走る。
 振り返ると、異生物は死んだ隊員をむさぼっていた。死んだ隊員を憐れんだり、自分の力のなさを恥じたりする前に、須藤は自分じゃなくて良かったと思った。死なずに済んで良かったと思った。そして、死にたくないと思った。だから、異生物が仲間を食べている間に、追いつかれないように走った。ただ、走った。

 どうやって異生物が退治されたのか、須藤は結局分からなかった。本部に戻った後、聞かされたと思うのだが、覚えていなかった。被害は3名とのことだった。指揮官の「比較的少ない被害でよかった」という言葉だけが、やけに耳に残っていた。
 須藤はシャワーを浴びて血を拭い、本部の食堂で座っていた。何も考えられなかった。
 コト、と目の前に珈琲のカップが置かれて、須藤は初めて隣に誰かが座ったのに気づいた。のろのろと首を向けると、高橋の顔があった。
「無事でよかった」
 高橋の言葉に、須藤は泣いているような、笑っているような顔をした。
「まあ、飲みなさい」
 高橋に勧められるまま、須藤は珈琲を口に運ぶ。ほんのりと苦い味が口に広がった。
「何も、できませんでした」
 須藤の言葉に、高橋は頷いた。
「死んだ機動隊の人よりも、私の方が間違いなく強かった。それでも、私は立ち竦み命を長らえ、彼は殺されました。私だったらかわせたかもしれなかったのに」
「そうだな」
「私の武術は何も役に立ちませんでした。私が生き残ったのは、強いからじゃなく、臆病だったからです。私はただ、立っていただけでした」
 高橋は何も言わない。ただ黙って頷いている。
「私は本当に強くなかった。技はあっても、それを使うことができなかった。使えない技はないも同然です。本当に私は強くなかった・・・」
 高橋は須藤の横顔を眺めていた。須藤は珈琲のカップを空にすると、テーブルに置いた。
「この珈琲、美味しくないですね」
 須藤は、空になったカップを見つめている。
「それでも、なくなった彼はこれを味わうことすらできないんだな・・・」
「そうだな。でも、生き残った我々は、戦うことをやめるわけにはいかない。私は安全なところで命令を出しているだけだ。だからこそ、少ない犠牲で異生物を退治できるように、組織を作りあげなくてはならない。誰も殺さずに済む方法を模索しながら進まねばならない。今回は3名の犠牲者が出た。以前はもっと犠牲者を出していた。犠牲者は減った。でも、犠牲者を出さない方法を考えなくてはならない。須藤くんは今回が初陣だったな。初陣は生き残ればいいと、戦国時代では言われていなかったかな。今回須藤くんが立ち竦んで助かったのだとしたら、それは須藤くんが生き残るために選択した戦い方だったのだよ。そう思いたまえ。そして、死んだ人たちのためにも、戦えるうちは戦わなくてはならない。私はそう思っているよ」
 高橋は席を立つ。もしも、須藤がこれでアクスを抜けるのであれば、しょうがないことと思った。嫌がる人間に命を投げ出せとは、誰もいえないのだから。
「高橋さん」
 須藤は高橋の後姿に声をかける。
「私はやめませんよ。死んだ人や、異生物に襲われる人たちのためというのもありますが、私は自分のためにやめません。私は今までの自分自身を捨てることはできませんから。武術家である自分を捨てられませんから。それに」
 立ち止まった高橋に、須藤は言葉を続ける。
「犠牲者を出さずに戦うために高橋さんが戦うのなら、私はそれの手助けをしたい。私の技はまだ必要ですか?」
「勿論だとも」
 須藤の言葉に、高橋は大きく頷いたのだった。

「私は、高橋さんの助けになりましたか?」
 須藤は横顔を高橋に向けたまま、問う。戦いの日々の中で年齢以上に老齢した感のある須藤の横顔に、11年前の若々しい苦渋に満ちた横顔が一瞬だぶった。
 高橋は何を当たり前のことを聞くのかと言うように笑う。
「だから、私はアクスをやめるのだよ。私の仕事は終わったんだ。これからは、須藤くんが先に進んでくれ。そして、私のためでなく、自分のために仕事をしてくれ。そして、君が引退する時に、酒を奢らせてくれ」
 須藤は高橋を見ると、杯を掲げた。
「それは、随分先のことになりそうですね。それまで、高橋さんも健康に気をつけてくださいよ、もう若くないんだから」

 立ち去ることを選んだ男と、残ることを選んだ男。二人の道は別れたが、戦友は共に笑いあい、杯を触れ合わせるのであった。


戻る