異界の門


藤 涼子:3

「姉さん、20日は非番だったよね?」
 夜勤明けの夕方。とりあえず倒れこむように4時間ほど寝て、昼型に戻すために眠い体に鞭打って起き出した藤涼子(ふじ りょうこ)は、弟からの質問に頷く。
 弟の藤英美(ふじ ひでよし)は、部活から帰ってきた顔に満面の笑みを浮かべる。夏休みだし、どこかに出かけようかという提案でもされるのだろうか? うきうきとした涼子の期待とは裏腹に、冷たい言葉が弟の口からは発せられた。
「その日は、部活のみんなでディズニーランドに行くから、姉さんは自分でご飯食べてね?」
 情けない顔をした涼子に英美は苦笑する。
「姉さんだってさ、いい歳した女性なんだから、デートの1つでもしてよ。いっつも休みは家でダラダラしてるだけじゃ、婚期逃しちゃうよ?」
 そうは言うけどさぁと口の中でもごもごいった反論は、完全に黙殺された。英美は笑って念を押す。
「とにかく、ボクは出かけるからね」
 涼子は頷くと、反撃の手段を思いついた。あからさまなからかう表情に、英美は一歩後ずさる。
「ねえねえ、ヒデくん。それってさ、デートなの? 相手は可愛い子? 今度紹介してよ〜」
 英美は一瞬うろたえたようだったが、部活のみんなで行くんだとむきになって否定する。そんな弟の反応が面白くて可愛くて、涼子は後ろから抱きつくように英美に畳み掛ける。
「でも、その中に可愛い子いるんじゃないの?」
「姉さんよりも綺麗?」
「2人ではぐれる予定とかたてなくちゃだめよ?」
 英美は、背中から抱きつかれ左肩に乗っている姉の頭を軽く押しやると、もはやむきになる気力も失せたのか、疲れた顔を見せる。
「ああ、もう、うるさいなぁ〜。それじゃそれでいーです・・・」
「ふぅん、それじゃ、姉さんもその子を見ないわけにはいかないなぁ」
 姉の言葉に、弟の体がビクっと震える。
「ま、まさか、姉さん、ついてくる気じゃ・・・保護者同伴なんてやめてよね!」
 自分の腕の中から逃れでた英美に向かって、涼子は返答せずにニコニコと笑っている。
 それでも、涼子も分かってはいるのだ。わざわざ弟が自分の非番に遊びの予定を入れたことを。弟が自分が働いている間、常に自分の身を案じていることを。
 だから、安心して楽しめる日に、遊びの予定を入れたのだ。そんな彼に恋人を作る心の余裕は、きっとないのだ。だから、せっかく弟に訪れたこういう機会の邪魔をする気はもちろんない。それでも。
 ――ディズニーランドなんて、最後に行ったのいつだったかなぁ。
 行く気だけは満々なのである。弟に言われたことだし、デートでもしようかしら。
 脳裏に浮かんだ顔は既にこの世にいない人。代わりに浮かぶ人はまだいない。
 ――しょうがない。もう一人の弟でも誘いますか。
 自分に好意を抱く同僚の顔も浮かばないでもないが、彼は確か、その日は非番ではないはずだった。

 翌日、出動を待つ事務所で涼子は同じ部隊の田中秀(たなか しゅう)に声をかける。
「秀、20日は非番だったよねぇ?」
 きょとんとした顔で、秀が雑誌から視線を上げる。
「そーだけど?」
「いっしょにさ、ディズニーランドに行こうか」
 その言葉に、秀の顔がぱぁっと輝く。普段から可愛いとは思っているが、こういう顔を見るとホントに可愛い子だなぁと涼子は思う。
「ほんとにっ! 俺、行ったことないんだよ、ディズニーランドっっ」
 椅子から転げ落ちそうな勢いに、どうどうと涼子は秀をなだめる。
「誰の発案? ヒデもイッショにいくんでしょ?」
「んーん、ヒデくんはねぇ、ガッコのコ達と行くんだって」
 首を振る涼子を見て、秀はピンと来た。この姉弟との付き合いはそんなに長くはないが、決して浅くはない。
 ――きっとヒデに邪険にされたんだなぁ。
 その時の二人のやりとりが想像されて、秀は噴出す。最近、ヒデは姉離れをしなくちゃと思い込んだかのように、涼子が近づくと距離を置こうとしている。そのくせ、自分からは涼子へと近づかずにはいられないのだから、やっぱりシスコンだよなぁと思う。
「何が面白いのよぉ」
 口を尖らせた涼子に、秀は慌てて首を振る。
「あ、楽しくなりそうだな〜って」
 それに涼子が何か言い募ろうとした時に、恨めしそうな声が割り込んできた。やはり第一小隊の仲間の井上健二(いのうえ けんじ)の声だった。
「りょうこ〜〜、なぜ俺のことは誘ってくれないんだ〜」
 涼子は、背後におどろ線を背負っていそうな健二に一瞥をくれると、つれない返事を返す。
「だって、健二、その日は仕事でしょ?」
「そーんなもん、今まで使ったこともない有給休暇を消費してだなぁ」
「ほう、お前にとって仕事はそんなものなのか」
 健二の言葉に絶妙のタイミングで須藤義人(すどう よしと)の言葉が割り込む。健二はバツの悪そうな顔で須藤の方に向き直る。
「あ、隊長、いたんですか・・・」
 須藤は書類を手に、顔には笑みをたたえながら頷く。
「いっしょにディズニーランド行こうかってとこからな」
「そ、それじゃあ話は早い。隊長、俺、20日休みます。有給休暇っていうんですか、それ使って」
 勢いこんだ健二の言葉は、しかし須藤の手にあった書類によって防がれた。
「ダメだ。確かに、20日はサポートのシフトだが、お前、20日はサポート部隊のリーダーだろう。その時にやってほしいことがある」
 須藤から書類を渡された健二は、この世の終わりかのような悲しい顔を浮かべると、受け取った書類に目を落とした。そして、そこに20日にサポート部隊相手にしなくてはならない数々の訓練の内容が記載されているのを確認し、さらに肩を落とすのだった。

「あっついなぁ〜」
 後半とはいえ、8月は暑い。もはや残暑というレベルを越えている猛暑である。
 8月20日。舞浜駅で秀は涼子を待っていた。
 ブルージーンズに白いTシャツ。ニューヨークヤンキースの帽子を被ったその格好は健康的な少年を思わせる。また、くりっとした目に幼さの残る童顔も少年の印象を与える。しかし、それらの全てを上回る印象を、彼は周囲の人間に対して与えていた。
 盛り上がり、しかし鋼鉄のように引き締まった筋肉の与える印象というのは強いものだ。Tシャツの袖から覗く腕、Tシャツがはちきれそうなほど発達した胸筋と後背筋。それらは顔の幼さとのミスマッチゆえ、より強い印象となっているようだった。
 秀が照りつける太陽に恨めしい視線を投げていると、後ろから肩を叩かれた。
「おまたせっ」
 涼子の声に振り返ると、秀は愕然とした。想像していたどんな格好ともそれはかけ離れていたからである。
 薄いグレーのカーゴパンツに都市迷彩のTシャツ。同じく都市迷彩のバンダナを額に巻き、長い黒髪は後ろで1つにまとめられている。ご丁寧にアーミーブーツまで履き、指貫の黒い皮グローブにリストバンド。カーキのザックとウェストポーチを装備したその姿は、ディズニーランドに遊びに行くというよりは、市街地戦闘に赴いた兵士といった感じである。
「まぶしいねぇ」
 言いながらかけるサングラスはレイバンである。あまりのハマリ具合に秀は言葉が出ない。
「ねえさん、そーゆぅの似合うんだね・・。」
 ようやっと搾り出した言葉に、涼子は口の端で笑って見せる。そうやっていると、ハリウッド映画に出てくる女兵士のようだった。
 ――っていうか、都市迷彩って。この人、本気でヒデの後を尾行する気じゃないよな?
 秀のいぶかしげな視線に気づくことなく、涼子は明るい声を出す。
「じゃ、行こっか。今日は1日楽しむぞぉ〜」
 先を歩いていく涼子の後姿を慌てて追いかけながら、秀は「夢の国に行く服装じゃないよなぁ」と呟いていた。
 入り口前で手荷物チェックの行列ができている。秀は列の最後に並ぼうとしたが、涼子はさっさと前に歩いていってしまう。
「ねえさん、荷物チェックは?」
「あたしたちには魔法のパスがあるでしょ? それにチェックされても困るのよねぇ」
 秀はその言葉に、さっきから気になっていたがあえて無視していたザックのでっぱりを見つめてしまう。
「・・・それってやっぱり?」
「当然でしょ。非番とはいえ、何かあったら戦うのはアクスの義務よ」
 事も無げにしれっと言う涼子は、そのまま列を追い抜いて手荷物チェックをしている場所へ到着する。いぶかしげに視線を送るディズニーランドの職員に、ウェストポーチからアクスのパスを取り出してみせる。あらゆるセキュリティシステムを潜り抜けるそのカードは、しかし職員からは呆けた反応しか引き出せなかった。涼子は苦笑する。
「えーっと、ここにある通り、アクスの隊員なの。手荷物検査はパスさせてもらうわね?」
「え、ああ、はい。・・・ええ? アクス?」
 涼子の言葉に事態を飲み込めたのか、職員の若い男は驚きの声をあげて、涼子をまじまじと眺める。そこにいるのは、戦争映画から抜け出てきたような女性である。
「あ、あの・・・何か調査とか・・・ですか?」
 おずおずとした言葉に、涼子は口の端で笑ってみせる。すっかりこの格好にはまってしまったらしい。
「非番よ。でも、何かあったときのために一般人には見られたくないものを携帯しているわ。見たければ見せてもいいけれど?」
 その言葉に、職員は首をぶんぶんと横に振る。触らぬ神に祟りなしとでも思っているのだろう。
「じゃ、通るわね。そうそう。この連れも隊員だから」
 秀も涼子にならってパスを提示してみせる。それを確認して、職員は二人へ道をあけた。
「あ、そうだ」
 チェックしている場所を通り抜けて、涼子が職員に振り返る。
「貴方たちのガード部隊に言っておいて。アクスの隊員が二人入場したって」
 職員は慌てて頷くと、内線で連絡をとるのだった。

 秀は、涼子がヒデを探すのじゃないかと内心では思っていたのだが、涼子には全然そんな気はないようだった。まずプーさんのファストパスを取ろう、そしたらポップコーンを買って、あそこのアトラクションに行って・・・と、休む間もなく引き回される。
 30分ほど並んでようやく買った昼食を手に、何とか二人が座れる場所を確保すると、秀はローストチキンにかぶりつきながら、ため息をついた。
「話には聞いてたけど、すごい人ですねー。夏休みだからかなぁ。これじゃ、ヒデたちを探すなんて無理だなぁ」
「あら? ヒデくんと合流したかった?」
「いーえいえ。ねえさんをせっかく独り占めしてるのに、そんなことしないよ。ねえさんがそんなカッコだから、探すツモリなのかなぁって」
 秀の言葉に、涼子は自分の姿を見下ろして笑う。
「ああ、この格好ね。前に映画で見ていいなぁって思って一式そろえてあったのよ。せっかくだから着てみたんだけど。似合ってるでしょ?」
 陽射しよけに迷彩の帽子まで被っている涼子に、秀はにっこり笑って頷く。
「それじゃあ、食べたら次はこれに行こうか」
 涼子が広げたマップに、秀も視線を落とす。とりあえず、秀としてもほとんどのアトラクションは制覇しておきたいと思っているのだった。

 夕方。夏至は過ぎたとはいえ、まだ昼は長い。夕焼け色に染まった空を眺めながら、涼子と秀はトゥモローランドでアトラクションに並んでいた。もうすでに1時間近く並んでおり、ようやく入り口が見えてきたところだった。
 そのとき、ディズニーランド中に警報の音が響き渡った。
 涼子と秀は、いや、ディズニーランドにいる全ての人間が、その警報を聞いた。
 建物の脇などに作られた目立たない職員用の出入り口から、アーマージャケットに身を包んだ男たちが吐き出される。その中で隊長格と思わせる男が、拡声器でがなり始めた。
「異生物が発生しました。大丈夫ですので、皆様は私たちの指示に従ってください」
 次いで、英語と中国語で同じ内容が発せられる。周囲は騒然となった。異生物の発生に慣れている東京近郊の者は、下手にパニックになるほうが危ないとの認識がある。実際に異生物にやられるよりも、逃げようと慌てて怪我をする例の方が多いことは知れ渡っている。
 だから、数多くの人はあまり騒がず、うろたえず、その場で指示を待っている。
 しかし、ディズニーランドには日本全国、そして世界各国からも人が来る。そういうものたちは何事かと騒ぎ出し始めている。
 その喧騒の中、涼子と秀は顔を見合わせると頷きあった。
 秀は獣人へとその身を変貌させると、お姫様抱っこの要領で涼子を抱き上げる。1時間という並んだ時間に未練を一瞬感じたが、秀は一跳びで行列を作る人々を越えて隊長格の者のところへと降り立った。
「アクスよ。異生物を仕留めるのは私たちがやるから、貴方たちはこの人たちの避難と護衛をお願いね」
 涼子は抱きかかえられたまま告げる。隊長が頷くのを確認すると、今度は秀に指示を出す。
「とりあえず、ターゲットを確認しないと。高い建物・・・そうね、お姫様扱いされてることだし、シンデレラ城にお願い」
 秀は笑って頷くと、文字通り跳ぶように走る。人込みはディズニーランド私設のガードマンたちによって、手際よく集まって、ガードマンの作る盾の壁に護られていた。おかげで道が広い。秀は全速力でシンデレラ城の元へと到達すると、そのままの勢いで跳躍する。
 棒高跳びの世界記録ほど飛び上がると、壁を蹴って更に上昇していく。そして、シンデレラ城のテラスに手をかけると、片腕で涼子を抱きかかえたままシンデレラ城の最上部へと身を乗り込ませた 。
「うー、ジェットコースターなんて目じゃないわね」
 涼子は呟きながらも、視線をディズニーランド中に送る。そして、人の流れからその場所を特定した。ザックからプルバック式のアサルトライフルを取り出す。
「このライフル、このサイズにしては威力はあるんだけど・・・さすがに狙撃には向かないのよね」
「え・・・じゃあ?」
 くぐもったような声で秀が涼子の呟きに疑問を投げる。涼子はそれに頷く。
「そう。だから、ここからとか、どっかポイントを決めてのいつものような狙撃は無理。もうちょっと近づかないと、ね。弾丸も非貫通性のものにしないと。秀には要求厳しくなると思うけど」
 涼子はじっと秀を見つめる。勿論、自分にもいつも以上の危険があるのは確かだが、それ以上に一人で異生物の相手をしなくてはならない秀への負担は大きい。秀ができないというようなら、別の手段を考えるつもりだった。だが、秀は何でもないというように笑う。獣人となった秀の言葉は、口の形状が変わったためにくぐもって聞き取りにくいものになっているが、それでもはっきりと言い切った。
「ん、大丈夫。アクスから部隊が来るまで待ってる余裕はないし。やろう!」
 それを聞いて、涼子も笑って頷く。
「ウェスタンランドに移動して。それと、できるだけ早くゆっくりと、ね?」
 矛盾した涼子の注文に、秀は笑う。優しく涼子を抱きかかえると、「じゃあ、一気に飛び降りるのは止めとくね」と呟いて、壁を這い降りて行く。
 涼子は、抱きかかえられたまま、数十メートルはあるこの高さから落ちるのを想像して、顔を青くした。「いや、それ死ぬから」という呟きは、最後の5mほどを飛び降りた際の悲鳴と混ざってしまった。
「あれ? 怖かった?」
 覗き込む秀の顔は、ライオンめいたものになっているが、本気で心配している顔だった。それで怒るに怒れなくなった涼子は、「いいから急ぎなさい」とウェスタンランドを指差す。それから、急に思い出した。自分がとても大事なことを忘れていることに。
「ちょっと、ヒデくんはどこにいるのよ!」
 秀に抱きかかえられながら器用に携帯を取り出すと、英美に電話をかける。普通の携帯であれば混線してかかりにくいのかもしれないが、これはアクス特用の一品である。使用する電波帯はアクス専用チャンネルとなっている。数コールもすると、愛する弟の声が聞こえてきた。
「あ、姉さん。連絡しようかどうしようか迷ってたんだ」
「状況分かってるのね? 今、どこにいるの?」
 緊張した涼子の声に反して、英美の声はどことなく落ち着きが感じられる。
「ウェスタンランドからファンタジーランドに向かう途中だよ。異生物が近くにいるらしいけど、ここからは姿は見えないね。さすがだね、ディズニーランド。今は警備の人が作った盾の壁の後ろに逃げ込んだところ」
 冷静な言葉に、涼子は肩の力を抜く。まあ、弟も確かに修羅場を潜ってはいるのだ。1回だけれど。2年前に。
「そう、それじゃ、無茶はしないのよ? 部活の友達はみんな一緒にいるのね?」
「うん。いるよ」
 それを聞いて、涼子は数秒思案する。逡巡が一瞬顔をよぎるが、「非常事態だし」という思いでそれを打ち消した。
「ヒデくん、部活の友達は魔法使えるのよね? 風を起こして壁を作るやつ、アレ、友達と協力しておっきぃの作れないかな。みんなの避難が終わったら、それで異生物のいる辺りのエリアを囲ってほしいんだけど」
 涼子の言葉に、秀は少し考えたが、「うん、できると思う」と答える。
「だけど、そんなに大きい範囲は無理だよ? 直径100mぐらいがせいぜいだと思うけど」
「十分。あたしと秀で異生物を仕留めるまで、逃げ場を封じてほしいだけだから」
「! ちょっと待って、姉さん。もしかして、戦う気? アクス来るまで待つんじゃないの? ほら、ここには警備の部隊もいるし、任せてもいいんじゃないの?」
 慌てた英美の声にも、涼子は譲らない。
「そんなの待ってたら被害者が出ちゃうかもしれないでしょ。いくら非番で人数が少なくても、居合わせたら対応するのがアクスってものよ。それに、いくら異生物を想定した警備員だと言っても、実戦は初めてでしょうしね。ほら、そんなこと言ってる間に、ウェスタンランドに着いたわよ! じゃあ、壁の方、よろしくね。合図したら、私を中心に100m。オーケー? 信用して、信頼して任せるからね!」
 そして、返事を聞くのもそこそこに携帯を切る。確かに、涼子の目には警備員が作るジェラルミンの盾の列に逃げ込んでくる人々の姿が映っていた。
「秀、ちゃんと話を通しておくわ。あそこの指揮をとってる人のところに行ってちょうだい」
 涼子の言葉に了解の頷きを返すと、秀は走る速度を上げてから一気に跳躍した。
 足の下を逃げ込んだ人々が通りすぎていく。着地の衝撃は全て秀の柔らかい足腰のバネが受け止めたようで、衝撃はビッグサンダーマウンテンと比べても少ないものだった。

 東京ディズニーランド所属のウェスタンランド警備隊長である岩木は、緊張した面持ちでウェスタンランドの方を睨み据えていた。異生物が現れたことを想定して作られた警備隊を任されて数年になる。確かに訓練も欠かさずに行ってきた。機動隊出身である岩木は、デモとの衝突など、実戦と呼ばれるもの――それは戦争や異生物との戦いといった命のやりとりがないものであるが――も経験はしている。しかし、やはり初めての実戦は、彼にとって不安ばかりが募るものだった。
 客の避難は順調だった。客がパニックに陥らないように最新の注意を払い、いかに自分たちが頼もしく見えるか。少なくともこの盾の内側に逃げれば安全なのだと理解させ、そして殿(しんがり)を隊員が守っているという安心感を与えるように腐心する。それらは全て奏功していた。
 それでも岩木の胸には重い不安が澱のように積もって晴れない。もし・・・もしも、こちらに逃げ込んでくる人々の後ろに、迫りくる異生物の姿が見えたら。それを怖れ、また、それが見えないことを望みながら先を睨みつける。しかし、彼の手は腰のホルスターに収められた銃をまさぐることを止めようとはしない。
 そこに、突然、眼前に人影が現れた。空間を切り裂いて現れたかのような唐突さに、岩木はホルスターから銃を抜いた。現れた人影に銃を向けようとした手は、しかし、上げられることなく押さえられていた。自分の腕を押さえているのは紛れもない人間の手。色白でほっそりすらしているその腕を辿っていくと、そこに迷彩服に身を包んだ女性の身体がつながっていた。
「あなたが隊長さんかしら?」
 落ち着いた、よく澄んだ声が聞こえて、岩木は我にかえる。銃をホルスターに収めると、朝に連絡があった事例を思い出す。
「あ、あなたがアクスの方ですか?」
 女性は頷くと、抱きかかえられていた獣人のもとから、地面へと降り立った。お姫様抱っこされていた花嫁が、ベッドの脇に立たせてもらうような印象を、岩木は覚える。
「びっくりさせたみたいでごめんなさい。かきわけて通るには時間がかかりそうだったので、飛び越えたのよね。まあ、撃たれなかったからよしとするわ」
 涼子のその落ち着いた言葉に、岩木も緊張がいくらかほぐれるような心持になった。プロであるアクスの隊員が、こういう話ができるぐらいの状況だということだ。
「さすがに手際がいいわね。客の避難状況はどう? 異生物と相対するの初めてでしょ? 仕留めるのは私たちでやるから、あなた方は客の安全を確保して」
「え、ええ。ほとんどの客が避難を済ませています。殿を守っている隊員からの連絡では、異生物はビッグサンダーマウンテンの乗り場付近をうろついているようです」
「ふむ。ってことは、異生物はパニックを起こしてないってことね。それなら大分やりやすいわね」
 涼子は頷くと、秀に振り返る。
「さて、それじゃやりましょうか。ディズニーだけに美女と野獣ってことで。まあ、美女の格好がドレスじゃなくてGIジェーンってのが、イマイチ様にならないけど」
「野獣はないでしょ、ひどいなぁ。まあ、最後に人間に戻してくれるならいーけどさ」
 秀の言葉に涼子は一瞬意表をつかれた顔をするが、すぐに楽しそうな顔に変わる。
「・・・秀も言うようになったわねぇ。そんな健二みたいなコト言ってると、すぐに老けるわよ」
 くすくすと笑って歩き出す涼子。
「あ、うー。健二さんに伝えておきます・・・」
 秀は言葉に詰まったが、歩調を速めて涼子を追い抜いていく。腕も立つが口も立つのが第一小隊の身上ではあるのだが、秀はまだ17歳。確かに、最後にキスを要求するのなんかは健二の役割で、秀が言うような類のものではない。
「まあ、無事に終わったら、みんなにナイショでしてあげるよ」
 後ろから、からかうような口調が聞こえてきた。秀は聞こえないフリをして歩を速める。実際にされたら一番困るのが秀自身であることなんて、涼子にはとっくに見抜かれているのだ。遅れないようについてくる涼子からは、相変わらずからかいの波動が届いてくる。
 ――聞こえないフリしたのもバレてるな、これは。
 最後に心の中で苦笑して、秀は雑念を取り払う。
 そう、いつもよりも4人も少ないのだ。なんとしてでも、涼子のことだけは守らなくてはならない。秀は気を引き締めると、異生物の姿を求めて走り出した。

 ビッグサンダーマウンテンの入り口付近へと辿り着くと、まだ何人かの警備員が残っていた。涼子はアクスが対応するから下がるように伝えると、秀に目配せしてから、自分はビッグサンダーマウンテンへ移動する。ビッグサンダーマウンテンの乗り場は高台にあるため、入り口からは若干の登りになる。高い位置に上がった方が射線が取れるし、異生物にも襲われにくくなる。秀には自分のことを守るという意識をもたせている余裕がないだろうという判断からだった。
 秀は、異生物を確認したが、まだ近寄らないでいる。異生物は鰐猿型。ワニを思わせる爬虫類の皮膚と頭を持った二足歩行する生物である。人ほどではないが猿ほどの知識は持っているようで、こちらに迷い込んでも、パニックを起こさずに様々なものに興味を示すことが多い。
 里に下りてきた熊を処分することに良心が痛むように、この異生物を退治するときには若干の罪悪感が生じる。しかし、異生物は全処分というのは決定事項なのだ。飼うこともできないし、元の世界に戻したことで、こちらの世界に対応されても困る。それは、逆もまたしかりである。あちらに迷いこんだこちらの世界の生物もまた、異界人たちによって駆除されているのだ。
 ――鰐猿型が人を襲ったケースだって、ないわけじゃなし。可愛そうだけど、不運と思って諦めてくれ。
 秀は、じりじりと鰐猿型へと間合いを詰めながら涼子の合図を待つ。自分は捕まえて引き出して押さえつければいい。後は涼子の下す鉄槌が、この鰐猿型に終焉を与えるはずである。
 涼子はビッグサンダーマウンテンの乗り場を上ると、警備員たちが下がっていった方を眺める。そして、警備員たちが盾の列に加わったのを確認すると、携帯を取り出して英美と連絡を取る。
「ヒデくん、ビッグサンダーマウンテンの乗り場付近を中心にして、半径50mぐらいで風の壁作れるかな?」
「姉さんの位置も補足してるよ? 姉さん中心でいいかな。だったらすぐにでも。半径50mね、分かったとにかくやってみる」
 英美は涼子の位置を感覚的に捉えることができる。距離が離れるとさすがに分からないのだが、これぐらいの距離だと、大体どの辺りにいるのか、マナの波動を通して感じることができるのである。
「ん、お願いね。お礼に今度の非番はヒデくんの好きなところでデートしてあげるから」
 疲れていることを理由に英美の誘いを断ることも多い涼子としては、大判振る舞いのつもりだったが、一瞬間を置いて帰ってきた言葉は、つれない返事だった。
「じゃあ、家で掃除だなぁ」
「ひどっ」
 嫌いというよりも、苦手で掃除ができない涼子は、一瞬で涙目になる。それを察したのか、受話器の向こうからは軽い口調が続く。
「冗談だよ。じゃ、姉さん、くれぐれも無茶しないでね」
 切れた受話器を見つめながら、涼子は「こんな可愛げのないこと言うコじゃなかったのに・・・」などと呟いていたが、気を取り直して顔を上げる。
「秀、仰向けに倒して。一瞬で十分だから。倒したらすぐに離れること。オーケー?」
 涼子の言葉に、秀は待ってましたとばかりに頷くと、了解の印に鋭い鉤爪のついた親指を天に突き上げてみせる。それを確認すると、涼子はアサルトライフルを脇に抱える。
 しっかりと小脇に抱えて、銃把を握る右手と銃身を支える左手でテンションを加え、銃を安定させる。いつものように伏射の姿勢を取ることはできないが、立射であってももちろん、涼子の腕は狙いを外すことはない。右手人差し指を引き金に軽く触れさせたまま、銃口を鰐猿型に追尾させる。
 涼子が銃を構えた気配を感じると、秀は鰐猿型へと間合いを詰める。
 その瞬間、秀は周囲に風がうごめくのを感じた。軽く周囲に目をやると、木々が風によってはためいているのが分かる。おそらくはドーム状に作られたその風の壁を見て、秀は心強く思える。
 ――少なくとも、逃げる敵に回り込む必要はないわけだ。
 この変化は、目の前の鰐猿型も感じたようだった。その鰐のような顔は辺りを見回している。
 ――俺相手に、よそ見してる余裕はないっ。
 心の中で叫ぶと、すり足で鰐猿型との間合いを一気に詰める。それは猫科の猛獣が獲物へと飛び掛る様を思い起こさせた。
 裂帛の気合の声は、無言だった。しかし、その叫びは間違いなく空気を震わした。
 涼子は見た。秀の姿が一瞬縮むように屈んだかと思うと、突如伸び上がり、一瞬の内に鰐猿型を宙に浮かせたのを。
 秀の下から突き上げる掌打は、鰐猿型の喉を捉え、そして、その軽くはない身体を宙へと舞い上がらせていた。秀の掌に残る手応えには、鰐猿型の喉を潰した実感があった。おそらくは放っておいても死ぬだろう。
 ――苦痛を長引かせるのも可哀想だ。それに、手負いの獣は恐ろしいしな。
 その思いで、倒れ伏した鰐猿型に躍りかかると組み伏せていく。仰向かせ、相手の重心を制する位置に跨ぎかかり、巧みに膝と手を使って相手の腕を封じる。鋭い牙が並ぶ顎を押さえ込もうとして、秀は動きを止める。
 ピィっという、鋭い口笛の音が聞こえたのだ。そして、秀の見ている前で、鰐猿型の目が潰れ、そして眉間に穴が空いた。涼子の放った銃弾は3発とも、過たずに鰐猿型の急所を捉えていた。
 がくんと力が抜け、急速に生気を失っていくのを跨いだ身体から感じながら、秀は涼子の方を振り仰ぐ。
「秀、お疲れ」
 変わらずに銃身を鰐猿型に据えた涼子から、ねぎらいの声が降ってきた。秀は完全に鰐猿型が死んだのを確認すると、それに答えながら立ち上がった。
「さすがだね、ねえさん。コイツ、もう死んだよ」
 秀の言葉に、涼子は微笑んで銃を降ろす。それから、小走りでビッグサンダーマウンテンから降りると、背負っていたザックからタオルを取り出して、秀に放る。
 秀がそのタオルで身体を拭こうとすると、涼子は慌てて制止の声をあげる。
「あー、秀、違う違う。いや、汗拭いてからでもいいけど、鰐猿の弾痕をそのタオルで塞いでよ。せっかく貫通力の低い銃弾使ったのに、傷口から出た血でココを汚したくないのよ」
 人間の姿に戻った秀は、汗を軽く拭ってから苦笑して涼子の言われた通りにする。そして、新たに涼子の腕に賛辞を送る気分になった。鰐猿型の皮膚は、殻を背負った奴らほど堅くはないが、それでも十分に堅い。しかし、眉間の鱗の隙間と、両目を撃ち抜いてしまえば、弾丸の貫通力はさほど必要とされない。前衛の少ないあの状況で、ディズニーランドを血で汚さない気配りまで行えるのだ。
 黒く穴の穿たれた眼窩と額をタオルで覆い、流れる血を止める。地面には一滴の血痕さえついていなかった。

「後は、これからやってくるアクスのサポート隊と、ここのガードマンに任せましょ」
「ああ、それじゃあ、健二さんは、念願のディズニーランドに来れるわけですね」
 秀の言葉に、涼子は笑う。
「そうだったわね。捕まると厄介だし。あたしたちは並び直しましょうか」
「また1時間?」
 げんなりした顔で秀が答えると、涼子は愉快そうな顔で首を振った。
「そこはそれ。退治したお礼ということで、並ばないで済むように掛け合いましょう」

 その後、涼子は英美の部活の仲間に紹介され――事ここに到って、英美は姉がアクスであることを隠すことを断念した――そして、アクスの部隊が到着する頃には、お目当てのアトラクションを楽しんでいた。
 この日のディズニーランドの客が、獣人とGIジェーンの美女と野獣の物語を土産話にしたことは、言うまでもない。


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