異界の門


藤 涼子:1

 2016年8月。暑い日だった。
 皇居内にあるアクスの本部で、藤涼子はテレビ画面に見入っていた。画面には友人の品田紀子が映っている。彼女はオリンピックで戦っている真っ最中だった。
 自分も紀子と同様にガンサイトを覗いている気分で、涼子は息を詰めている。ライフル射撃の決勝戦だった。この最後の射撃で勝敗は決まる。残り時間がカウントダウンされる中、紀子は慎重に狙いを定めて、優しくトリガーを絞った。遠く離れたターゲットの中心に弾痕が穿たれる。紀子はライフルをおろすと小さく拳を握った。それを見守っていた涼子も、息を吐き出すと全身の力を抜いた。
 画面では「金メダル獲得」のテロップが流れている。涼子は振り返ると、同じく画面を見つめていた同僚の井上健二に声をかけた。
「ね、言った通りでしょ。紀子は絶対に金メダルを取るってさ」
 頬を紅潮させている涼子を、健二は眩しそうに見つめる。
「さすがは涼子のライバルだな。センターはずしたの一射だけか。見事な金メダルだな」
 健二の言葉に、涼子は自分が誉められたかのように嬉しそうに頷くと、慌てて携帯電話を取り出した。
「早速、祝福メールを送らないとね」

 画面では、紀子がインタビューを受けている。
『まず誰にこの喜びを伝えたいですか?』
 お決まりの質問だ。紀子は用意していた答えを返す。
『応援して支えてくれた家族、同僚はもちろんですけど、まずはライバルであり、大親友である女性に伝えたいです』
 そして、カメラ目線。
『やったよ、涼子。貴方には一回も勝てなかったけど、金メダル取れたよ。これで、涼子が世界一だって証明できたよ。貴方が支えてくれたから、貴方が鍛えてくれたから、貴方が守ってくれたから、今のあたしがあるの。ありがとう、涼子。帰ったら、うんとお祝いしてね』
 見守る涼子の目にはみるみる涙が溢れてきた。
 数分後。涼子が瞳を潤ませて録画を眺めていると、携帯が着信を告げる。
「涼子、見ててくれた?」
「紀子、おめでとう! ホントにおめでとう。でも、何よ、あのインタビューは。あたしは何にもしてないよ、全部紀子の実力だって」
 携帯の画面に映る紀子は、ちょっと苦笑した風だった。
「ホントにそう思ってるのぉ? 実際に勝負したら負けないって思ってるくせにぃ」
 それを聞いて、涼子は軽く微笑む。
「そんなことないって。競技だったら、もう紀子には敵わないよ。もっとも、実弾ぶっぱなすんだったら負けないけどね」
 電話の向こうから、楽しげな笑い声が聞こえてきた。
「それじゃあ、これから片付けて引き上げないといけないから。帰ったらお祝いしてよね。あ、店はあたしが選ぶけど。ちゃんと休み取ってよ?」
「もちろん。あ、でも、報道とかつれてこないでよね? あんな目立つことしてくれちゃって。あたしの存在、あまり公にしちゃいけないの知ってるでしょ?」
「だって、涼子が無名なの、悔しかったんだもん」
 憮然とした声。涼子は笑う。
「そうだね、ありがと。嬉しかったよ、泣いちゃった」
 涼子の言葉に、紀子は笑顔で答えた。
「じゃ、またね、日本でね」

「ま、確かに、隊長は怒るだろうな。アクスのメンバーは原則的には一般には非公開という決まりだ」
 健二の言葉に、涼子は少しうんざりした顔をした。
「自分で選んだとはいえ24歳で世をはばかる身分ってのは、過ごしにくいわよねぇ。健二はもう30だからいいけどさ」
 その言葉に、健二は気色ばむ。
「待て、俺は今年でまだ29だぞ。おっさんの仲間入りさせないでくれ」
「おい、俺がおっさんだってのか?」
 後ろから声をかけられて、健二は慌てて振り返る。そこには、いつの間にか隊長の姿があった。アクスこと内閣異生物特別対策室室長にて、第一小隊隊長である須藤義人――今年で35歳――だった。
 涼子はくすくすと笑っている。もちろん、涼子は須藤の姿を認めて、年齢の話を振ったのだ。
「涼子、お前っ」
「こら、じゃれてる場合か。俺のことをおっさん呼ばわりしたんだ、健二には若いところを見せてもらうぞ。出動だ」
 出動の言葉に、涼子も健二もスイッチが切り替わったかのように表情を改める。
「異生物ですか、どこですか?」
「汐留だ。獅子虫型が暴れてるらしい。巡回中の警察が威嚇してるらしいが、いつまでも止めておけるものでもあるまい。急ぐぞ」
 隊長の言葉に二人は頷くと、部屋を後にした。
 3人は移動用の軽装甲車両に乗り込む。車両にはすでに残りの第一小隊のメンバーがそろっていた。
 隊長は全員を見回すと、メンバーの1人、鈴木緑を促す。コネクタと呼ばれる役割の彼女は、ノートパソコンを叩きながら、状況の説明を開始する。遅れてきた涼子と健二は説明を聞きながら装備を整える。ボディアーマーを装着し、対異生物用の大口径ライフルを手にする。涼子と健二は二人ともアサルトと呼ばれる役割である。アサルトは後衛である。離れた場所からライフルで狙撃するのだ。また、コネクタは戦闘は行わない。コネクタは情報分析や通信などを行うバックアップが主な役割となるのだ。
「今のところ、民間人には被害は出ていません。周辺地域の避難は完了。道路は封鎖済。警察は威嚇射撃のみ行っております」
 緑は喋りながらキーボードを叩いている。車両の天井から引き出したスクリーンに周辺地図と共に状況が映し出される。
「汐留から浜離宮方面へと誘導するのがいいと思われます。くれぐれも銀座方面には逃がさないように」
 緑の言葉に須藤は頷く。須藤はアタッカと呼ばれる役割を担う。アタッカは前衛である。前衛は異生物と接近し、近距離での戦闘を行うのだ。アクスの中で一番死亡者の多い役割である。
 汐留には数分で着いた。車両から降りると、アタッカの田中秀が涼子に声をかけてきた。
「ねえさん、友達は金メダル取ったの?」
 その言葉に、みんながギリギリまで涼子を呼ばないでおいてくれたことを知る。事前の準備は全てみんながやってくれていたのだ。
「ええ、すごかったわよ。だから、あたしたちも負けてられないわね」
 秀は人懐っこい笑みを浮かべると、大きく頷く。
「気をつけてね」
 涼子は秀の頭を撫でて送り出す。秀はまだ17歳。弟と同い年でしかない。それなのに異生物との戦いの日々に身をおくことに不憫さを感じないわけではなかったが、獣返りで社会に阻害されてきた秀が、人の役に立つ仕事をすることで自己を確立していることも理解している。
 涼子ができることは、前衛の仲間がシューティングポイントに追い込んでくれた時に、なるべく早く正確に異生物の急所を射抜くこと、それだけなのだった。
 前衛の3人――須藤と秀とポインタという役割の木下達樹を見送ると、涼子は緑に視線を送る。緑は頷くと、周辺の地図をスクリーンに表示しながら、最適な射撃ポイントの候補を提示する。
「この3つのビルが、ポイントには適していると思います。どうですか?」
「そうね、浜離宮の入り口へといたるT字路をポイントにしましょう。だから、私が北側のビルで、健二が南側のビル。問題ある?」
 健二は首を振って了解の旨を伝える。それを見て、緑はドライバーへ車を出すように告げる。まず、南側のビルの入り口で健二が降りる。彼がビルに入るのを見守ることなく装甲車は発進し、程なく北側のビルの入り口に停車する。
「それじゃあ、行ってくる。何かあったら連絡よろしく」
 緑に声をかけて、涼子は装甲車両後部のハッチから身を躍らせる。
「お願いします、涼子さん。またみんな無事に、戻ってきてくださいね」
「当たり前でしょ。あたしは友達の金メダルのお祝いしなくちゃならないんだから。緑はちゃんとココにいて、みんなに指示だしてよね。あなたがあたしたちの頭脳であり、神経なんだからさ」
 緑が頷いたのを確認すると、涼子は目の前のビルへと入る。東京にあるほぼ全てのセキュリティを通ることのできるアクスのパスで入り口のセキュリティを突破すると、エレベーターで上の階へと向かう。
「緑、あたしの携帯端末に、このビルの見取り図出して。12階で」
 左耳につけたイヤホンから、了解の返事を受ける。左腰のケースから手の平サイズの携帯端末を取り出すと、すでにデータ受信済だった。エレベーターが12階に辿り着くまでに、涼子は目指す場所を把握した。
 エレベーターが到着すると、涼子は非常階段へと走る。扉を開けて階段を駆け下り、11階と12階の間の踊り場に到着する。
「涼子、こっちは配置済。そっちは?」
 イヤホンから健二の声。涼子は対異生物用大口径ライフルを肩からおろし、伏射の姿勢を取りつつ返答する。
「あと2秒で配置完了。マーキングはどっちがする?」
「マーキング弾がチャンバーで待機済だ」
 健二の言葉に涼子は笑う。
「それじゃ、お任せするわ。前衛の皆様、状況は?」
「警察からの引継ぎ完了だ。緑、マーキングの位置を送れ」
 これは須藤の言葉だ。須藤はこの第一小隊の隊長だが、一旦出動すると何か特別な指示を出すということはない。すでにやることは決まっているのだ。余程の不測の事態にならない限り、わざわざ須藤が指示を出す必要はないのだ。後は連携に応じて、須藤も含め各々が指示を出す。そして、そうやって部隊が1つのチームとして機能するのが、この前衛3、後衛2、情報1の6人体制なのであった。11年にわたる異生物との戦いの中で、アクスが辿り着いた戦術でもあった。
「マーキング終了」
 健二は後衛狙撃部隊が狙いを定めているエリアに対して、マーキング弾を撃ちこんだ。特殊塗料が路上に広がっており、これは隊員がかぶっているヘルメットについているアイシールド越しには見ることができる。
「それじゃ、エスコートと行きますか。後衛のみなさま、お姫様に召し上がっていただく毒リンゴの準備はぬかりなくお願いしますよ?」
 達樹が笑いながら、異生物が迷い込んだビルへと向かう。達樹はポインタである。ポインタとは斥候の任務を旨とする。そして、異生物を誘き出すのもポインタの役目でもあった。
「達樹、無理するな。とりあえずビルから誘き出せ」
 達樹がビルの中へと入っていくと、須藤と秀がビルの入り口付近で身構える。

 イヤホンから流れる仲間の言葉を聞きながら、涼子は伏射の姿勢を崩さずに待機する。まだ自分の出番は回ってきていない。イヤホンからは誰かが怪我をしたというような言葉は聞こえてこない。涼子は深呼吸をすると、手を軽く握ったり開いたりしながら、身体に過度な緊張がかからないようにほぐしていく。
「涼子、健二、お城の入り口まであと少し。毒リンゴの用意はいいだろうな?」
 達樹の言葉に、涼子はライフルを構え直す。
「きついのを用意してあるわ」
 涼子は答えると、ガンスコープを覗いた。
 ガンスコープ越しには、マーキングが蛍光塗料のように路上に広がっているのが見える。しかし、広がっているとはいえ、直線距離にして40mは離れている。実際には点のようにしか見えない。ガンスコープは多少の望遠機能を備えているが、あまり望遠に頼ってしまうと、弾道の予測がつきにくい。スコープの十字に必ず弾が当たるとは限らないからだ。
 距離、狙っている角度、重力、風向、風量、貫通した際の跳弾など、長距離の狙撃において考慮にいれなくてはならないことは多い。望遠を強くしてしまうと、対象の場所はよく見えるのだが途中の空間に対する意識が薄れてしまうのだ。だから、涼子はほとんど望遠を入れていない。
「涼子、眉間と首の付け根と、どっちがいい?」
 スコープを覗いてその瞬間を待っていると、健二が喋りかけてきた。
「どちらでも、貴方の好きな方をどうぞ」
 涼子は喋ることで銃口が揺らぐのに眉を顰める。健二は寡黙なスナイパーを目指している割に口数が多いのだ。
「いえ、その瞬間に見えた方を撃つことにしましょう。問題ある?」
「いや、それでいい」
 やれやれ、という想いで涼子は再び構え直す。バット(床尾)をしっかりと肩に固定し、ストック(銃床)は右頬に触れるようにして固定する。左手で銃身を支え、右手で銃把をしっかりと、しかし優しく握る。
 そして、人差し指をトリガーにかける。あとは薄く、深く、規則正しい呼吸を繰り返す。
 狙撃は、一種の禅のようなもの。涼子はいつもそう思う。冷静に思いに囚われることなく雑念を捨てる。心静かにただそのときを待つのだ。当ててやろうなどという気持ちがあってはならない。欲は銃身をぶれさせる。
 スコープの中に、達樹がうつる。彼はショットガンを構えている。その彼に向かって、異生物が突進してきた。獅子虫型と呼ばれているその異生物は、昆虫特有の外殻を持ったライオンのように見える。達樹は異生物の突進をいなすと、その鼻先に向かってショットガンを発射する。
 彼のショットガンは散弾ではなくスラグ弾を発射する。それは過たずに異生物の顔を打ったのだが、異生物はよろめきはするものの、倒れることはない。この獅子虫型を倒すには、外殻のすきまを狙い打つしかないのだ。そして、防御を考えなくてはならない前衛では、それは不可能なことであった。
「達樹、2歩下がれ。秀、右に回りこめ。俺の合図で離れろよ。それまではここにヤツを止め置け」
 須藤の言葉で、3人が異生物を取り囲む。異生物は誰を襲うのか悩むようにぐるぐると回っては、交互に近づく3人に噛み付こうとする。しかし、それを交わしてあしらいつつ、3人はじわじわと包囲の輪を縮める。
「涼子、健二、俺の合図で撃てよ。斜線、跳弾は気にするな。こっちで下がる」
 須藤は後衛に声をかけつつ、機を窺っているようだ。涼子はサイトスコープの中の異生物に照準を合わせたまま、気持ちを落ち着かせる。
 涼子の頭に、ふっと、最後の一射を狙う紀子の顔が浮かんだ。
「今だ!」
 須藤は叫ぶと、水面蹴りで異生物の足を刈り、転倒させる。そして、後ろに跳躍する。達樹も秀も後方に下がっている。
 涼子は、引き金を絞る。彼女はマナを操るような異能は持っていない。だが、彼女には目標に向かって延びる線が見えるのだという。引き金を絞る瞬間に、その線に銃身を重ねてあげればいい。そうすれば、弾丸はその路を辿っていくのだと。
 引き金を絞ってから、銃弾が異生物の眉間に吸い込まれるまでの時間は1秒に満たない。しかし、涼子の目には弾丸がその路を辿っていくのが分かった。そして、肩の力を抜く。反動が残す右肩の痛みに軽く眉を顰めるが、手に残る手応えと充実感が涼子を満たす。
「二人ともご苦労。異生物は沈黙した」
 異生物が死んだことを確認した須藤の声がイヤホンから流れてくる。健二の放った弾丸もまた、首の付け根の外殻の隙間に命中していた。
 引き上げた装甲車の中で、小隊みんなで健闘を称えあう。競技を諦め、アクスに入ってから何年もたつ。自分の胸には金メダルが輝くこともなく、自分の技術に対して世間から賞賛の声が聞かれることもない。だけど、涼子は満足していた。
 金メダルは、わたしの代わりに紀子が取ってくれる。その紀子はわたしのことを分かってくれている。それに。
 自分の技術を信頼し、命を預けてくれる仲間がここにいる。
 それは、自分にとっては何よりの賛辞なのである。


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