異界の門


柏木 啓志:2

 目の前の女性を早足で追い越しつつ、横目で顔を確認すると、柏木啓志(かしわぎ けいし)は内心でため息をついた。それから、そんな自分を恥じる。この数週間というもの、いけないとは分かっていても、つい行ってしまう行動であった。
 身長160cm程度、黒髪の長髪の細身の女性。
 そのような後姿が目に入ってしまうと、心臓が高鳴り、つい早足で顔を確認してしまう。このような街中で、そんな偶然の再会ができるわけがないと分かっているのに、それでも一瞬感じた期待を確認せずにいられないのだ。その後に深い落胆が待っていると知りながら。
「街中で一目惚れした女性を探す中学生か、俺は・・・」
 柏木は内心で呟くと、なるべく周囲の人の姿を目に入れないように視線を上げ、足を早める。180cmを超える身長を持つ柏木は、視線を下げなければほとんど女性の姿など目に入らない。自分の雑念を振り払うかのように、周囲の雑踏を視界から消し去り、アクスの本部へと急ぐのであった。
 自分がこんなにも初心なのだとは、柏木は思ってもみなかった。容姿端麗で運動神経もよい柏木は、昔から女性にもてた。付き合ってきた女性の数も少なくはない。思い出して数を数えられないのだから、むしろ多い方なのだろう。
 しかし、ここまで一人の女性に心を奪われたのは、生まれて初めてであった。
「・・・まさか、俺、これが初恋・・・なのか?」
 雑踏を視界の外に追いやっても、雑念は振り払えず、柏木は眉間に皺を寄せながら早足で歩く。考えて自分でも笑ってしまうが、28歳にもなって初恋だとは、洒落にもならない。しかし、確かに真剣に女性のことを考えるのは、生まれてからこれが初めてであった。今までは、剣の道に没頭してきたのだ。確かに恋愛というものはしてきたのだが、それでも常に第一は剣の修行であり、恋愛というものは息抜き程度でしかなかったのだと思い知る。
「家の場所は知ってるが・・・まさか、会いに行くわけにもいかないしな・・・それに、まだあの家に住んでいるとも限らない、か」
 柏木は呟くが、住んでいない可能性の方が高いことを、彼は無意識に無視していた。柏木も知っているはずなのだ、その家が半焼していることを。なぜなら、その場にいたのだから。

 1ヶ月前の2014年3月9日。その日は天気の良い日曜日であった。
 柏木は第一小隊の仲間と共に、アクスの本部で待機していた。皇居周りの桜も蕾が膨らみかけ、気の早い何本かはこの陽気で咲き始めていた。こういう日は出動などしないに越したことはない。柏木は窓の外に広がる風景を眺めながら、そんなことを考えていた。
 そんな時だった。平穏を打ち破る連絡が入る。連絡を受けた第一小隊のコネクタである柴田郁美(しばた いくみ)が、第一小隊のメンバーに緊張した面持ちで事態を告げる。
「みんな、豊島区千早町で火竜出現。一刻も早く現着しないと!」
 第一小隊のメンバーの顔色が一瞬にして変わる。火竜は異生物の中でも、危険度は特Sクラスである。
「豊島区か、ちょっとあるな・・・郁美、ヘリの用意を急がせろ。佐川、健二は武装Sだ。達樹は火竜は初めてだったな。ポインタの役目はほとんどないから、身を守るのを第一にしろ。みんな準備が整い次第、屋上へ急げ」
 第一小隊の隊長である須藤義人(すどう よしと)がすかさず指示を出す。メンバーは頷くと、すぐに装備を整えて屋上へと急ぐ。柏木もまた、先ほどの平穏な気分など嘘のように、真剣を腰のベルトに捻じ込むと屋上へと急ぐ。
 柏木も、今までに火竜と戦ったことは一度しかなかった。その時は、市民、隊員双方に多くの死者が出た。火竜は車ほどの大きさのある爬虫類によく似た異生物である。そして、何よりもその名の通り、マナを操り火を吐くのである。
 接近戦であれば、たとえ鱗が硬かろうと、柏木は遅れを取るつもりはない。しかし、火を吐かれるとなると話は別だ。生物が根源的に持つ火に対する恐怖に打ち克ったしても、実際に火を避けなければ切っ先の届く位置まで近づけないのだ。そして、火竜の吐く火は広範囲に広がり、なかなか近づくことができないのであった。
 現場へと急行するヘリの窓から眼下を見下ろすと、前方に黒煙が上がっていた。おそらくは火竜の吐く炎によって燃えている家が上げているのだ。怖れももちろんあるが、それ以上に気が急いている。一小隊で倒すことができるかは分からないが、おそらくは隊を増やしても下手に被害が増えるだけなのだろう。
 隊長である須藤が応援を求めないことからも、それが分かる。アクスのエース部隊である自分たちで片付けられないのであれば、おそらくは隊を増やしても意味はないのだ。
「思ったよりも、被害が少ない・・・か?」
 同じように眼下を見下ろしている須藤が呟く。以前に現れた時は多くの家が焼け落ちた。当時は6人1小隊とする部隊再編を行う前であり、多くの人数をかけての戦闘となった。
 銃がほとんど効果をなさず、火竜の移動を防ぐために多くの前衛が命を失った。その中で奮戦したのが須藤と柏木であった。最終的には対戦車ライフルで止めをさしたのだが、動きを封じつつ火竜を移動させ、対戦車ライフルが使える場所に誘導したのが二人であったのだ。
 ヘリが黒煙の上空へと到着した。下からは消防のサイレンが聞こえる。黒煙をたどれば現在の火竜の位置が分かる。消防も火竜近くには行けないが、通り過ぎた後であれば消火活動が行える。
「義人さん、ヘリは着陸できません。なるべく高度を下げるから、ロープで降りてください」
 柴田の言葉に須藤は頷くと、ヘリのハッチを開けさせる。真っ先にロープに飛びついた木下達樹(きのした たつき)に、須藤は「降りたらその場で待機」と申し付ける。
 柴田を除く5人が地上に降り立つと、須藤たちは火の粉が舞う中を進む。路上には人の焼死体が転がっている。心が痛むが、今は被害を最小にとどめることが先決である。心の中で祈りを捧げながら、一行は火竜の姿を求めて先を急ぐ。
「隊長、あのボヤが出てるあの家、あそこじゃないかな」
 ポインタとして一行の先頭を進んでいた達樹が、先にある一軒家を指差す。庭に面したリビングのガラスが大破しており、庭の木々が燃えている。しかし、不思議と1階はボヤ程度であり、火種はあるようなのに、燃え広がっていなかった。そして、その先の家はまだ燃えている様子もない。
「そのようだな。達樹、お前は少し離れてからついて来い。啓志、まずは俺たち二人で踏む込むぞ。佐川と健二は離れて待機。徹甲弾ライフルの準備をしておいてくれ」
 須藤の指示に、他の4人が頷く。柏木は腰から剣を鞘走らせると、燃え盛る庭からではなく、扉が開け放されている玄関から家の中へと入っていく。斜め後ろには須藤が従っている。間合いに勝る柏木が前に立つのは、狭い屋内を進む時の二人の間の暗黙のルールとなっている。
 1階は破壊されていた。小型車が家の中を通過したかのようである。ところどころから火の手が上がっており、消防が到着するころには炎上しているだろうことが予想された。
「1階にはいなさそうですね」
 柏木は後ろの須藤に声をかける。「2階かな」と呟きつつ、柏木は違和感を覚える。2階に火竜がいるにしては上からほとんど物音が聞こえてこないのだ。
「妙だな」
 須藤の呟きが聞こえる。柏木が振り返って先を促すと、須藤は頷いて言葉を続けた。
「いや、もっと燃えていて然るべきなんだが・・・妙に火の広がりが悪い。有難いことではあるのだが」
 言われて、柏木も改めて室内を見渡す。確かに、庭の木の燃え広がり方と比べると、異様に火に勢いがない。それも上に行けば行くほど。普通、火は上に行くほど勢いを増すものではなかったか。
「とにかく、2階に行ってみましょう」
 柏木は前方に見えた階段へと歩を進めた。
 階段に到達すると、散弾の薬莢が転がっていた。そして、階段には2つの焼死体。おそらく、女性と男性の。どちらも散弾銃を手にしている様子はない。だが、散弾銃を収めていたと思われる皮製のケースが、燃えずに投げ捨てられていた。
「・・・豊島区千早町・・・まさか」
 須藤は呟くと、マイクの向こうの柴田に向かって、指示を出す。
「郁美、この家の住所から住人の名前を出してくれ。もしかして、藤涼子の家じゃないのか?」
「あ、はい。今、調べます」
 キータイプの音がイヤホンから流れて数秒、柴田の声は須藤の疑問を裏付けるものであった。
「そうです。勧誘のリストに挙がっていた藤涼子の家に間違いありません」
「やはり、そうか・・・」
 須藤の声が若干沈んでいる。柏木は注意して階段を上りながら、「誰ですか?」と訊ねる。
「ライフル射撃の選手だ。腕は健二以上かもしれない。誘おうかと思ったが、この間の大会を見てやめたんだ。彼女はオリンピックで金メダルを狙っていて、それだけの実力が備わっていると分かったからな。表舞台に立てる人は、表舞台に立った方がいい」
 なるほど、と柏木は頷くと、階段の中腹に倒れている焼死体の脇を抜ける。おそらくは父親であろうその焼死体は、焼ける苦しさにもだえたような形跡はなく、必死に上に上がろうとしていたことが見て取れた。階段の下に倒れていた、おそらくは母親であろう女性の焼死体もまた、同じような姿勢で倒れていた。
「上に、まだ住人がいそうですね。しかし、物音がしませんね。急ぎましょう」
 柏木は階段の最後の数段を早足で上ると、剣を青眼に構え、廊下の先へ身構える。
 廊下にも散弾の薬莢が転がっていた。あまり広くはないが、狭くもない廊下には何者の姿もない。廊下に面する扉は3つ。そのうちの1つ、階段に一番近い扉は破壊されていた。
 用心しつつも、柏木はすり足で扉へと急ぐ。扉に達した瞬間に襲われてもいいように、備えは忘れない。もっとも、すでに柏木もその辺りは意識せずともできるようになっている。
 扉から中を窺うと、まさに小説や漫画などで登場するような竜がいた。以前に倒したものよりも一回りぐらいサイズは小さそうである。見るからに硬質な鱗に身をよろっている。赤茶色の鱗の光沢が、部屋でくすぶっている炎に揺らめいている。火竜は突然現れた柏木には目もくれず――いや、気づいてすらいないようであった。
 そして、火竜は大きく息を吸い込み、今まさに火を吐かんとするところであった。
 柏木は、慌てて飛び掛ろうとするが、火竜までは2mほどの距離があった。一足飛びに斬りかかっても間に合わないだろう。飛び掛ろうとしたが果たせず、柏木は業火に包まれる部屋の姿を想像した。
 しかし、予想した炎による熱気は生じなかった。火竜が吐いた炎は、火竜の口から漏れるやいなや、まるで炎など最初から存在しなかったかのように霧散したのである。
 その光景はまるで魔法のようで、柏木は呆然とその光景を見つめていた。
「柏木、どうした」
 背後からの須藤の声で、柏木は我に返る。未だ前線では戦わせていないものの、アクスにも魔法を使える少年が加入し始めているという話は、他ならぬ須藤から聞いている。であるからには、この魔法のような光景は、まさに魔法なのだろう。この家に踏み込んでから感じていた違和感も、全て魔法ということであれば納得がいく。
 柏木は一歩踏み出して須藤が踏み込むスペースを空けながら、火竜の向いている先に視線を転じた。
 奥の部屋へと通じる扉を背に、女性が銃を構えて、火竜を睨み据えていた。全ての意識を火竜に向けているようで、柏木や須藤には気づいていないようであった。
 女性の背後の扉は開いており、女性の後ろには、細面の美少年が守られていた。薄目で俯いたその顔は、瞑想をしているかのように現実感がない。おそらく、この少年が魔法使いなんだろうと、柏木は思い至る。そして。
 改めて前に立つ女性の姿に視線を合わせた柏木は、視線を外せなくなった。
 色の白い女性だった。長いストレートの黒髪が火の照り返しを受けている。整った顔立ちの中、勁い力の篭った瞳が目の前の火竜を睨み据えていた。
 静かだが、それでいて烈しい気の満ちたその表情は火竜を射竦めているが、同時に柏木の心をもまた、射止めていた。
 火竜がその眼光に押されたように、じりっと部屋の隅へと引き下がる。彼女の視線は常に火竜に注がれており、火竜の動きにあわせて、手にした銃口が移動している。
 そこで、初めて柏木は気がついた。彼女が手にしているのは散弾銃ではなく、ライフル銃であった。彼女の足元には散弾銃が転がっている。散弾銃では火竜の鱗を破ることはできない。そして、普通のライフルでもまた、火竜の鱗を破ることはできない。しかし、柏木が火竜に視線を転じると、火竜の片目が潰れていた。
 火竜を前にすることは、死を前にすることと半ば等しい。戦いに慣れ、一般人を遥かに凌駕する戦闘力を持つ柏木でさえ、火竜と戦うとなれば死というものを意識せざるを得ない。その状況の中、おそらくは初めて異生物と戦うであろう女性が、火竜の大きくはない眼を撃ち抜いたということに、感嘆する思いだった。
 そして、おそらくは可能であるのに、もう一方の目を潰していないことにもまた、柏木は感嘆した。両目が潰されれば、火竜は見境なく暴れたことだろう。しかし、目の前の女性は片目を残しておくことで、その危険を回避しているのである。
 今、火竜は明らかに女性に気圧されていた。そして、一番の難物である炎は、彼女の背後に守られている少年が抑えてくれている。しかし、火竜がいつ捨て身の逆襲に出るとも限らない。柏木は真剣を腰だめに構えると、音のない動きで滑るように火竜へと間合いを詰めた。
 火竜が近づく柏木に意識を向けた時、すでに柏木は十分な間合いに到達していた。恐竜を思わせる長く伸びた首を目掛け、柏木の左腰から閃光が煌いた。
 キン、という澄んだ音を立てて、刀が鞘に納まる。と、同時に、火竜の頭が重力に引かれ、床へと落ちていく。遅れること数秒。頭を失った胴体が、先に落ちた頭の上へと倒れ伏す。
 倒れた火竜が死んだことを確認していると、後方からドサっという音が聞こえ、柏木は慌てて扉の方へ顔を向ける。緊張の糸が解けたのだろう、女性が床に倒れていた。
「姉さん?!」
 少年が、倒れた女性に覆いかぶさるようにして、必死に呼びかけている。柏木が近寄ろうとすると、それに先んじて、須藤が女性と少年の元に歩み寄った。
 須藤は女性の首筋に手を触れ脈を調べ、それから息をしていることを確認すると、大丈夫だというように少年の肩に手を置いた。
「大丈夫、張り詰めていたものがほどけて、気を失っただけだ」
 それでも懇願するような視線の少年に、須藤は笑みを浮かべる。
「すぐに救急も到着する。お姉さんのことは心配ないから、君は火を止めてくれるかな? できるんだろう?」
 須藤の言葉に、少年は頷く。そういえば、燻ぶっていた火に勢いがついている。
 少年がまた瞑想を始め、火が鎮火していくのを確認してから、須藤は柏木に声をかける。
「ご苦労。さすがだな。火さえ吐かなければ一刀か」
「あれだけ動きが封じられていればね。硬いだけなら造作もない」
 答えながら、柏木は倒れた女性から目を離せないでいる。目を閉じ、薄く規則正しい呼吸を繰り返す女性からは、先ほどの覇気は微塵も感じられない。しかし、この女性の気迫こそが、火竜の動きを封じたのは間違いないのだ。
「切り伏せたのは俺だけど、この女性が倒したようなものかな。さっきの姿はヴァルキリーみたいだったけど、こうして寝てる顔は、普通の可愛い女の子だなぁ」
「ヴァルキリー?」  須藤の反問に、視線を上げて柏木は笑う。
「隊長は漫画読んだりゲームしたりしないクチでしたっけ。西洋の精霊ですよ。戦いの精霊」
 そして、また、視線を女性へと戻す。
「戦乙女に愛されたら、そりゃー戦士は強くなるだろうなぁ」
 呟きは声にならず、だから、誰からも返答はなかった。須藤の指示により救急に女性が運ばれるまで、柏木はその姿を見つめていた。

 柏木がアクスの事務所に入ると、奥の室長席の前に女性の後姿があった。室長席には高橋が座っており、その横には須藤が立っている。須藤の顔は、どことなく残念そうな顔であった。
 腰まで届きそうなストレートの黒髪はうなじのところで結わえられており、のぞくうなじの白さに柏木はドキリとする。女性は紺のスーツに身を包んでおり、気をつけの姿勢がとても綺麗であった。
 身長は160cmぐらいだろうか、記憶に残る姿と余りにも一致するその姿は柏木の鼓動を早める。顔を確認したい衝動にかられるが、まさか室長や隊長の前でできるわけもない。耳をダンボのようにそばだてながら、自分の席に座る。
「うん、私に依存はないよ」
 室長の落ち着いた声が聞こえる。「君は?」との高橋の言葉に須藤は頷くと、柏木に声をかけた。
「柏木、そんなところでそわそわしてないで、お前もこっちに来い」
 突然呼びかけられて、柏木は慌てて立ち上がる。その際に机に膝を打ちつけてしまい呻いていると、楽しそうな笑い声が聞こえた。視線を上げると、口元に手を当てて笑っている女性と目があった。静かで穏やかだが勁い意思の感じられる目だった。
 柏木は女性の視線を感じながら、錆びたロボットのようにギクシャクと歩くと、須藤の隣に並ぶ。
「藤さん、紹介しよう。こいつは柏木といいます。1ヶ月前に火竜を切り伏せたのがこいつです。柏木、この方は藤涼子さんだ」
 須藤が紹介すると、女性――藤涼子が柏木に会釈する。柏木は真面目くさって敬礼を返す。自分でも不思議なほどあがっていた。
「それじゃあ、本題に戻ろうか。もちろん、私にも依存はない」
 須藤が話を切り出すと、柏木に注がれていた視線が須藤へと移動する。柏木はそれを残念に思ったが、それよりも須藤の話に注意を向けた。彼女が何のためにここにいるのか、それが気になったのである。
「しかし、本当にいいのかい?」
 須藤の言葉に、涼子は頷く。それを認めても、なお、須藤は残念そうな声を出した。
「貴女は、2年後のオリンピックで金メダルを目指していたのではないですか? そして、それだけの力が十分にある。私はね、藤さん。こういう場所で働いているからかもしれないが、表舞台に立てる人は、表舞台に立ってほしい。それを支えることこそが、この仕事を続ける原動力の1つでもあるのです」
 須藤の言葉に、涼子の目に篭る力が強まった。引き締まったその顔は、火竜を前にした時のように真剣で思い詰めたものになる。
「両親が亡くなって、1ヶ月が経ちました。オリンピックで金メダルを取りたいという思いが消え去ったわけではありません。でも、それ以上に・・・」
 そこで、涼子は何かを堪えるように俯くと、一回頷いてから、また顔を上げる。
「私は、両親も、生まれてから育ってきた家も失いました。でも、私にはまだ、弟がいます。私に残された、ただ1人の弟です。私は、弟を守りたいんです。私がいない間に、両親は亡くなりました。同じように弟を失いたくないんです。幸いなことに、私には弟を守るための力が多少なりともあります。ですが、オリンピックを目指すとなると、弟を守ることを諦める時間ができてしまいます。四六時中一緒にいるわけにはいきませんが、それでもアクスに入ることが、弟を守る一番の道だと、私には思えます」
 それに、と涼子は言葉を続ける。
「それに、生活のこともあります。競技を続けるとなると、いろいろとお金もかかりますし、両親がいない今、私が自分と弟を養わなくてはなりません。確かに、仕事をして、弟と二人で暮らしながら、オリンピックを目指す道だってあると思います。でも・・・」
 涼子はぎゅっと拳を握る。脳裏には火に包まれて全身を焼かれながら、弟の身を案じて、涼子に弟を託して息を引き取った父母の姿が浮かぶ。
「でも・・・私には許せないんです。異生物が。異生物に大事な人を殺されることが。そして、私と同じような目に、私の友人たちが遭うことが。そう、多分、それが一番なんです。許せないんです、異生物によって死ぬ人がいるってことが。今までは、どこか他人事でした。ニュースや噂で聞いてたけど、やっぱり他人事でした。でも、もう他人事とは思えません。私には戦うだけの力があるのに、戦うことをせずに、今までみたいに夢を追うことはできません」
「後悔は、しないか?」
 須藤の言葉に、涼子は強く頷く。それを見て、須藤も頷くと、右手を差し出した。
「貴女がオリンピックで金メダルを取るところを見れないのは残念だが、仲間となってくれることはとても嬉しい。これから色々とつらいことや大変なこともあるだろうが、一緒に戦っていきましょう」
 その言葉に、涼子は晴れやかに笑うと、須藤の手を握り返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。きっとお役に立ちますから」
 涼子の笑顔が須藤に向けられていることに、柏木は軽い嫉妬心を覚える。そんな自分に内心で苦笑しながら、柏木は須藤の前に身を乗り出すと、自分も右手を差し出す。
「これからよろしく。優秀な後衛は大歓迎。それも、美人なら尚更だ」
 柏木の言葉に、涼子ははにかんだような笑顔を浮かべると、柏木の手を握り返した。
 ――ま、焦ることはない、これからこれから。
 握手している右手の感触を楽しみつつ、柏木は思う。
 これでもう、街中で女性を早足で追い越す必要はないなぁ、と。


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