異界の門


柏木 啓志:1

 西暦2010年11月。柏木啓志(かしわぎ けいし)は、あまり興が乗らない顔でテレビ画面を眺めていた。
 テレビの中では、剣道の大会が行われていた。日本選手権の決勝戦である。そこには警視庁の同僚――とはいっても、面識がある程度だが――が日本一の座を争って奮戦していた。
「何だ、柏木。やっぱり出たかったのか?」
 背後から上司が声をかけてきた。柏木は「別に」と答えると、やはりつまらなそうな顔でテレビ画面を眺めていた。剣道の大会では分からないが、たとえば路上で斬りあったとしたら、自分には到底敵わないだろう二人の試合は、柏木には何の興も与えなかった。
 結局、延長戦の末、同僚が日本一を決めた。それだけを確認すると、柏木はテレビの前を離れた。自分には縁のない、そして必要のない世界だというのが確認できただけ意味があったのかもしれない、柏木はそう結論づけて業務へと戻っていった。

 早朝。11月ともなれば、朝の冷え込みも少しずつ厳しくなってくる。しかし、板張りの道場の中、裸足に袴姿の柏木は微動だにせず竹刀を構えていた。
 左腰に竹刀を構え、柄に右手を添えたその構えは、居合。柏木は剣道ではなく、居合の達人であった。無論、剣道でも有段者であり、達人の域にまでその剣技は達している。しかし、彼は剣道家ではなく剣術家であった。
 昨日のテレビで見た試合を思い出す。息を整え目を細めた柏木は、眼前に正確な幻影を生じさせ、そして相手の打ち込みに合わせて抜刀する。
 幻影の放った面が打ち込まれる前に、自分の居合からの逆袈裟が右脇から相手を両断せしめたのを確認すると、また納刀の型に戻る。自分の逆袈裟が剣道でいうところの有効部位を捉えていないことは納得している。しかし、真剣であれば、相手を絶命させていることもまた確信している。
 柏木は構えを解くと、つまらなそうに道場を後にする。そろそろ朝稽古が始まる時間だ。その稽古が自分に何ももたらさないことを熟知している柏木は、飽き飽きしていた。
「俺、やっぱり生まれる時代を間違えたかな」
 戦国時代、いや、せめて江戸時代、それよりも幕末に生まれていれば。幼い頃より磨いてきたこの腕を生かす機会もあったろうに。警視庁は自分に活躍の場を与えてくれなかった。竹刀で打ち合うことに、柏木は何の魅力も感じなかったのである。

「高橋さん」
 アクスの本部の通路で、須藤義人(すどう よしと)はアクス室長である高橋誠(たかはし まこと)を呼び止めた。書類に目を落としつつ歩いていた高橋は、呼び止める声に振り返ると相好を崩した。そこには彼が信頼する部下の姿があった。
「高橋さん、また、隊員が死にました。やっぱり、今のやり方でもまだ不充分です。小隊が1つの生物のように動けないとダメですよ。まだ小隊規模の人数が多すぎます」
 駆け寄る須藤の顔には苦渋の表情が浮かんでいる。アクス設立から5年。異生物との戦い方について色々試行錯誤を加えているが、未だに有効な手段は講じることができないでいる。
「君の言いたいことは分かってるつもりだ。ただ、人数を減らすと、それだけ前衛の数も減らすことになる。少ない人数で異生物に対抗できるほど、人材も情報も揃っていない。ようやく育成機関設立に向けて軌道に乗り始めたところだ。今はまだ数で対抗するしかないんだよ」
 高橋の言葉に、須藤は唇を噛む。それは須藤もわかっていることではある。しかし、自分の指示が行き届く前に異生物に急襲され命を落とす隊員を見るのは、須藤には耐えられることではなかった。
「それは分かっています。後衛が被害に遭うことは確かに少なくなってきましたが。ようやっと一人前になった前衛が、こうも命を落とすのでは・・・私の案は、まだ実施できませんか」
「後衛がもっと育たないとダメだな。君の案は、後衛の能力次第だ。それまでは、前衛で壁を作りつつ誘導し、人数をかけた一斉掃射で異生物を屠るしかない。前衛の損害を減らすには、君レベルの能力を持った人間をいかに増やしていくかで対応するしか、今の状態では対策はとれない」
 高橋の言葉に、須藤は悔しそうに下を向く。自分の案が実施できるまで、後どれだけの期間がいるのだろうか。それで劇的に被害が減るとも限らないが、少なくとも今のような状況よりは改善されるはずなのに。それまでに、どれだけの部下が死んでいくのだろうか。訓練で師範代としての顔も持つ須藤としては、弟子が死んでいくのも同然なのだ。
 須藤の落胆ぶりはいつものことだ。高橋はいつもはうなだれて去っていく後姿を見るしかないのだが、今日は別であった。彼の手元には1枚のレポートがあった。
「須藤くん、一人、面白い逸材がいる。もしも彼をリクルートできたら、少しは被害を減らせるかもしれないよ。君同様、武芸の達人だ。どうも生まれる時代を間違えたと思っている節があるらしい。君が教えてやってくれ。この時代に生きたことが正しいのだと」
 須藤の手に渡されたファイルには、つまらなそうな顔の写真と、略歴が載っていた。
 柏木啓志、23歳、所属:警視庁、そして、剣道の有段者かつ居合の有段者。
 ――なるほど、こいつは面白そうな奴だな。
 須藤は高橋に頭を下げると、レポートを読みながら事務所へ戻っていく。さて、早速明日にでも会いに行くかと、呟きながら。

 柏木が出勤すると、上司が歩み寄ってきた。何だろうと訝しげな顔を向けると、上司は道場へ行けと言う。
「君に客だ。アクスだそうだ」
「アクス?」
 柏木は記憶を探る。そう言えば、異生物相手にどんぱちやっている連中がいると聞いた。それがアクスという名前だったはずだ。警察も半ば強制的に協力をさせられている。アクスが現場に到着するまで市民を守るのは、警察の役目になっているはずだ。
「アクスが俺に何の用ですかね?」
 柏木の問いに、上司は答えを返してくれなかった。とにかく急いで行けと言われて、柏木は道場へと足を運ぶ。しかし、話があると言って、何で道場なのだろうか。
 柏木が道場へと足を踏み入れると、道場の中には一人の男が立っていた。袴姿である。合気道かな、と柏木は値踏みする。
「君が柏木くんかい?」
 落ち着いた声だ。見た目は自分よりも年上のようだ。
「そうですが」
 柏木が答えると、相手はその場で立ったまま、自己紹介を始めた。
「私は須藤義人。武術家です」
 てっきり、アクスであると名乗ると思った柏木は、意表をつかれた。怪訝な顔をする柏木へ、須藤は言葉を続ける。
「ぜひ、お手合わせ願いたい。私は武道家ではなく武術家です。それで分かると思いますが」
 口調は丁寧だが、何てことはない。これは果し合いの申し入れではないか。
 そして、武道ではなく武術ということは、これは試合ではなくて仕合ということだ。警視庁に道場破りにくるとは、柏木は心に湧き立つものを感じた。警視庁に入って2年。こんなに楽しいことは初めてではないだろうか。
「分かりました。私は剣術家です。ご相手しましょう。準備をする時間をいただけますか?」
 柏木の問いに、須藤は頷く。
「勿論です。これは尋常な勝負です。押しかけて準備する時間も与えずに不意打ちするようなことはしたくない」
 その言葉に、柏木は嬉しくなる。まさか、この日本に、未だにこのような考えを持っている人間が自分の他にいるとは。柏木は急いで自分も袴姿に着替えると、木刀を手に道場に戻る。
 道場の中央で、柏木は須藤と対峙する。手にした木刀は自分の身体で隠し、須藤からは見えないように注意する。
「木刀を使わせていただきます。私が打てば、命の保障はありませんが、よろしいですか?」
「結構でしょう。真剣でも構いませんが、私の立場に配慮いただいたことをありがたく思います」
 須藤の言葉に、柏木は苦笑する。別に須藤の身を案じたわけではない。まさか警視庁の道場で、アクスの隊員を真剣で斬り伏せるわけにはいかないというだけだ。木刀であれば、稽古での事故とまだ言い訳がたつ、それだけのことである。
「武術家、須藤義人。尋常に参る」
 須藤は直立したままである。それに呼応して、柏木も名乗る。
「星辰流、柏木啓志。尋常に参る」
 名乗って構えようとしたが、その動きを制するように須藤が右手を挙げる。この期に及んで何をと柏木が見返すと、須藤は苦笑しているようだった。
「何も、お互いの看板を賭けて戦うつもりはありません。私とあなた、個人の戦いとしませんか」
 柏木のきょとんとした顔に、須藤はなおも続ける。
「実際、私は確かに1つの流派をベースにしていますが、そこに色々なものを取り入れてまして。もはやその流派の代表とは名乗れないのですよ」
 嘘だな、とは思ったが、柏木は頷く。確かに、流派の代表という意識は薄い。敢えて言うなら「柏木流」であるとは、自分で確かに思っている。流派に自分を合わせたのではなく、自分に流派を取り込んだという感覚の方が近い。
「そうですね、そうしましょう。その方が私も戦いやすい」
 柏木が頷いたのを見て、須藤は挙げていた手を下ろす。
「では」
 須藤は仕切りなおすが、かといって構えを取るわけではない。相変わらず直立である。それに対して、柏木は右足を前に踏み出すと腰を据える。左腰に木刀を納めると、右手で柄を握る。
 ――ほう、これは凄い。
 柏木の構えを見て、須藤は感嘆する。左腰に構えた木刀は、常に自分の視線上に柄頭が向いている。つまり、須藤の目からは木刀の刀身が全く見えない。須藤は柏木が着替えてから、一度も木刀の刀身を確認できないでいた。つまりは、木刀の長さが分からないのだ。
 ――これだから、居合は嫌いなんだ。まったく間合いが読めないなぁ。
 他人事のように須藤は思う。戦いの行き着く先は、間合いの取り合いである。相手が攻撃できない場所(それは時間的な要素、空間的な要素を含めてのことだ)に身を置き、自分だけは攻撃できる場所を確保する。
 お互いに一撃必倒の攻撃を行える場合、いかにして相手の攻撃をかわして、自分の攻撃をあてるか、ということになる。世に数多ある技というものは、つきつめれば全てそのためにあるといっても過言ではない。
 そこで、この居合である。居合は納刀することで刀身の長さ、つまりは攻撃の有効範囲を相手に悟らせない。そして、自分からは動き回らない。静の中で相手の動を待ち、相手が自分の制空圏に踏み込んだときに、相手の攻撃よりも速く自分の斬撃を与えるのだ。
 いわゆる後の先を突き詰めた剣術と言える。
 ――さて、どうしようか。
 須藤は柏木を眺めながら思案する。相手の目論見は分かった。ただし、剣に比べて圧倒的に間合いが短い徒手空拳である。須藤としても、先に相手の攻撃を出させて、それをかわしてからしか攻撃の手段がない。相手が一流程度の居合だとすれば、それでも相手の予測を超える踏み込みから、相手の斬撃よりも速く攻撃することが可能かもしれないが、どうやら相手は超一流らしい。
 ――結局、一回は空振りさせないとダメだってことか。
 須藤は腹を据えると、身じろぎもしない柏木を再確認する。どうやら、柏木の方で間合いを詰めるという動きはしてこないようだ。伏し目がちの柏木の視線は、自分の足に注がれている。上体を用いたフェイントなどにはひっかからないということである。
 ――間合いを詰めることに関しては、こっちに主導権があるということか。それならそれでやりようはあるな。
 須藤は、構えるでもなく自然体を保ったまま、一歩間合いを詰めた。

 いざ戦うべく須藤と対峙した時、柏木は内心で怯む自分を感じた。構えるでもなく、ただ立っている人間に「隙がない」と感じるなど、所詮は漫画や小説の中だけの話だと思っていたのだ。しかし、その考えを誤りだと認めざるを得なかった。つまりは、漫画などで語られる「達人」という人間なのだ、目の前の男は。
 驚きと、恐怖とともに、歓喜がまた、柏木の身を包んだ。自分よりも強いかもしれない存在と立ち会うということは、既にないものだと思っていた。武芸を究めんとする身において、まだ到達するべき境地がこの先にあるということが分かるというのは、日々の鍛錬に飽いていた身としては、非常な喜びであった。
 しかし、それと勝ち負けとは別である。乱戦などになれば別だが、こうして一対一で対峙した状態で、剣というものが素手に対して持っているアドバンテージは、たとえ相手が達人だとしてもそう易々と覆るものではない。
 一番恐れなくてはならないことは、間合いに勝る自分の攻撃を避けられ、自分の間合いの内に入り込まれることである。そこは、素手である相手の間合いとなる。剣技において接近戦がないというのは誤った認識である。確かに、剣にも接近戦というものはある。切っ先ではなく、剣の根元であっても、体とともに相手にぶつかれば、それで相手を倒すことも可能である。剣技にも肉弾戦はあるのだ。しかし、それはあくまでも、剣を扱うもの同士でのことだ。拳の届く範囲での攻防になったとき、自分はこの達人に軽く捻られるであろうことは、容易に想像ができた。
 だから、柏木は自分のもっとも得意とする勝負を取ることに決めた。多分、予感はあったのだろう、そのために、柏木は細心の注意を払ってきたのだ。木刀を左腰に構えると、右手を柄へと添える。右足を軽く踏み出し重心を落とすと、視線を須藤の足先へと注ぐ。
 居合。自分が練り上げてきた技術の集大成。須藤が自分の間合いの内へと入ったときに、渾身の一撃を見舞う。それしかなかった。もしもかわされて間合いの内へと踏み込まれたら、潔く敗れるしかない。しかし、もしも須藤が後ろへ退いてかわしたのであれば・・・柏木は、居合は刀を抜いたら弱い、という世間に流布している誤った認識を改めるつもりでいた。
 柏木は、心を平静に須藤の足を眺める。自分の必殺の斬撃が届く位置に須藤がくるまで、矢を引き絞った弓のように、その一瞬を待つのである。
 柏木が見つめる先で、須藤の足が、一歩、間合いを詰めた。
 柏木は、自分の一足の間合いが、須藤の一投足の間合いとほぼ同じだろうと予想する。一足とは、足を一歩前に踏み出す幅であり、一投足は大きく後ろ足で蹴って、半ば跳ぶように一歩前に踏み出す幅である。
 剣と拳という攻撃範囲の差が、その間合いの差を生み出すのである。
 おそらく、と柏木は須藤が無造作に一歩を詰めた足に視線を据えたまま考える。
 おそらく、刀身の長さを隠していることで、須藤には一投足の間合いへと詰める最後の10〜15cmが詰められないのではないか、と。
 居合で構えている以上、自分の体勢が大きく崩れるような踏み込みはできない。先を取るつもりなら別だが、後の先を狙っている以上、主導権は相手に渡してある。だから、須藤が自分が攻撃を仕掛ける間合いに踏み込む動きをした時が勝負なのだ。自然体でいる間はまったくの隙が見当たらない相手でも、攻撃しようと動きを起こせば、それだけ自分の動きに対する対処はできなくなるはずである。だからこそ、主導権を渡したのだ。
 須藤は無造作に一歩間合いを詰めたが、眼前の柏木に対して、感嘆していた。発射寸前の大砲の前に立たされているようなこのプレッシャーは、撫でられただけで体の半分が持っていかれる異生物のプレッシャーに相当する。いや、むしろ、それ以上ですらあった。  自分が攻撃できる間合いに入るまで、更におよそ足1つ分ぐらいの踏み込みが必要である。今は下手に構えることをせずに、自然体で対応する姿勢を取っているが、主導権が自分に渡されている以上、間合いを詰める役割は自分に託されている。自然体で立っていればこそ、完璧な身体のバランスを保ち、全ての方向への対応を可能としているが、それが前に一歩踏み出すだけでも、確実に対応できない部分というものが生まれてしまう。
 思えば、自分が構えというものを捨てたのは、異生物と戦うようになってからだったと、戦いの最中にも関わらず、須藤は思い出す。
 構えというものは、ある特定の局面に対して特化した姿勢である。それは、その特定の局面しか起こりえない戦いであれば優位に働くが、何が起こるか分からない場合には、不利に働くことすらある。たとえば、ボクシングの構えは腰から上を拳で殴りあうという特定の局面には非常に有利に働くが、組みうちありのスタイルや、腰から下の攻撃には対応ができない。また、その構えからスムーズに行うことができる攻撃というのも、構えから容易に想像ができるのである。
 何が起こるか分からない異生物との戦いの中で、須藤は自然と構えを捨てるようになった。それよりも、リラックスした状態でバランスを保つことで、何が起きても対応できることこそが重要なのだと気づいたのだ。つまり、この自然体というスタイルこそ、須藤が行き着いた構えであった。
 ――とにかく、いつも通りにやるだけだな。
 残りの足1つ分の距離。それも、自分では正確につかめてすらいない相手の制空圏を、須藤はまったく自然に踏み越えた。
 須藤は、歩を進めた瞬間にまるで空気自体に粘性でもあるかのような感覚を覚えた。これは、異生物と戦うようになって会得した体感である。この粘性を感じる空間こそが、相手の攻撃可能な間合い――つまりは、相手の制空圏である。
 異生物以外が相手でもこの感覚を覚えるかどうか、半信半疑ではあった。もしも分からなくても、それはそれで良いというぐらいではあったが、須藤はこの感覚に正直に感謝した。
 須藤は粘性を感じた刹那、後ろ足となった右足で床を強く踏み込むと、左斜め前方に体を射ち出した。柏木の剣は左腰にある。つまり、須藤にとって、剣は右側から襲いかかってくる。少しでも剣撃の到着を遅らせるには、左側に踏み込むしかないのである。
 柏木は、あまりにも無造作に最後の一歩を詰めた須藤に、驚嘆していた。容易い予想などは、通用しないのだと思い知った。最後の間合いの詰めはもっとじりじりと行われるのだと思っていたのだ。
 しかし、内心の驚きとは別に、鍛え上げられた柏木の体と技は、反射的に――自動的に最短の道のりを通り、最速の動きで、そして最強の力をこめて、木刀を須藤へと浴びせんとしていた。

 柄頭が伸びたようにしか、須藤の目には見えなかった。それほど速い抜刀であった。そして、おそらくは逆袈裟であろうと思うのに、その木刀の切っ先はまったく迂回することなく、柏木の左腰から自分の右胸へと真っ直ぐ迫りきていた。
 踏み込んだ須藤の左足が床についた。刹那、踏み込みの勢いを受け止めたその足は、柔軟な足首によってその勢いの方向を転じていた。まるでレーシングカーがドリフトを行うかのように、須藤の体は勢いに身を任せたまま左へと回転していく。
 物凄く速いはずの斬撃が、まるでスローモーションかのように須藤の目に見え始めた。極限まで高められた集中力により、脳の認識力がフル回転し、わずかコンマ数秒の映像を数倍以上の体感として須藤へと提供しているのだ。
 だからといって、須藤の体自身もコンマ数秒で数倍以上の動きができるわけではない。左へと回転する動きによって右肩がひかれ、須藤の体は半身となろうとしている。退いていく右半身の動きにあわせるかのように、木刀の切っ先が迫り来る。歯がゆい思いで自分の体と切っ先の距離が縮まっていくのを見守りながら、須藤はさらに姿勢を変えるべく、体幹へと指令を送る。
 須藤の腹筋が指令を受けて締まる。それにより、須藤の体は前屈みの姿勢へと移行していく。そのとき、須藤の右脇で衝撃が爆発した。しかし、致命傷にはならない。あの粘性を感じた瞬間に行動に移したその一瞬が、命ではなく、右腕を差し出すだけに止めたのであった。

 初めて剣を握ってからこの瞬間まで、柏木は数え切れないほど剣を振るってきた。何万とか何十万とかいう数字を遥かに凌駕する回数の中で、この一撃ほど速く、正確で、強烈なものはなかった。今まで行った全ての事柄の積み重ねが凝縮された一撃であった。
 勝った、と思った。自分が鞘走らせた瞬間に、目の前の男が身をよじったのは見て取った。しかし、それでもなお、この一撃はかわされることがないであろうという実感が剣を振る右手から伝わってきたのだ。
 逃げていく須藤の右半身を追うように、切っ先が伸びていく。そして、剣から衝撃が伝わった。しかし、その瞬間、柏木は仕損じたことを悟った。脳裏に思い描かれた勝利の瞬間よりほんのわずか遅れて伝わってきた衝撃は、脳裏に描かれた手応えと比べると絶望的なほど小さかった。
 次の瞬間、柏木の視線は、右腕を犠牲に自分の間合いのうちへと入り込む須藤の体を捉えていた。そして、それと同時に、柏木の顎の下に、鉄の塊のような須藤の左拳が存在していた。
 それを、不思議と晴々とした気持ちで、柏木は見つめていた。

「紙一重でしたね」
 剣を下ろした柏木に対し、須藤が静かに語りかけてきた。
「いえ、私の完敗です。しかし、不思議ですね、少しも悔しくはない。むしろ、嬉しさすら感じている」
 柏木は呟くと、それから、我に返ったかのように、須藤の右腕へと視線を送る。
「右腕はどうですか? 少なくとも折れてはいると思うのですが」
「ええ、綺麗に折れてますよ。でも、綺麗に折れているから、早く治るでしょう。あなたの剣筋が綺麗だったお陰です」
 須藤は軽く自分の右腕をおさえると、それから、真摯な視線を柏木へと向けた。
「実は、私はズルをしました。おそらく、それがなければ、私はここに立ってはいられなかったでしょう。しかし、そのズルこそが、私を護り、私の武を一段上へと引き上げました。もしもあなたが私と同じズルをしたなら、結果は逆になっていたかもしれない」
「ズル・・・ですか?」
 柏木は反問する。対峙している中で、卑怯な行いがあったとは思わなかった。また、もしもあったところで、仕合である以上、文句を言うつもりもない。
「私もそのズルというのを会得できるということですか?」
 おそらく、と柏木は考える。おそらく、そのズルこそが、自分が今よりも高みへと上るために必要なことなのであろう。それは、多分、道場では得られない何かではないのか。
「会得できるかどうかはあなた次第ですが、可能性がないとは言えません。そうですね、ズルというのは、少し表現が悪いかもしれない。しかし、私とあなたは同一の条件ではなかった。あなたは真の意味で実戦を経験していない。しかし、私は実戦を経験している。そして、その中で、私には通常の人にはない能力が備わった」
 須藤の言葉に、柏木には思い至ることがあった。須藤の攻撃をかわす動き。その動き始めのタイミングがあまりにも絶妙すぎたのだ。
 一瞬でも早ければ、自分の剣は逃げる先へと向かっただろう。
 一瞬でも遅ければ、自分の剣は逃げる前に須藤の体をとらえていただろう。
 柏木が先ほどの戦いを反芻しているのを見て取ると、須藤は言葉を続ける。
「実は、私にはですね、相手の制空権がわかるんですよ。相手が攻撃をする瞬間がわかるんです。そして、それが異生物との戦いの中で、幾たびも私の命を救ってきたのです」
「ああ、やはり。だからこそ、あれほど無造作に間合いを詰めることができたのですね?」
 柏木の言葉に、須藤は頷く。
「異生物以外を相手にして、わかるかどうかは賭けでしたが。その場合は、よくて相打ちだったかもしれません。おそらく、私とあなたの技は匹敵している。しかし、それ以外の部分が勝敗を分けた」
 それから、須藤は動く左手で、柏木の手を取った。
「どうだろう、柏木くん。あなたの技を生かしてみないか。せっかくこの時代に生きた武術家だ。存分に自分の力を発揮してみたくはないですか?」
 握ってくる須藤の左手の力に、柏木は彼の期待の大きさを知る思いだった。
「入団テストには合格というわけですか」
 冗談めかした柏木の言葉に、須藤も笑う。
「ドラフト1位を確約するよ。いや。この場合はFAになるのかな」
 それから、須藤は表情を改める。
「もちろん、戦ってみるまでもなく、君のような逸材は喉から手が出るほどほしい。アクスは常に人材不足でね。ようやっと一人前に育てても、生き残るものは数少ない。私が君と手合わせしたのは、アクスにくることが君の利にもなるということを示したかったからです。本当に私が君に勝てるのかも賭けではあった。しかし、技を極めても武術家として伸び悩んでいた私が、アクスで戦うことによって得たものを、君にも感じ取ってほしかった」
 須藤の言葉に、柏木も頷く。それはまさしく、柏木自身でも感じていたことだったのだ。
 柏木は、自分の手を握る須藤の左手を、力強く握り返した。
「私のような若輩者の剣でよければ、いつでもあなたに差し出しましょう。私は、この時代に自分の居場所を見出すことができなかった。しかし、それも今日で終わりです。あなたが来てくれてよかった。もしもあなた以外の人が来たのであれば、私はアクスに入る気も起こさず、生涯かけて身に付けた技を振るう場所がなかったことを嘆きながら、年老いて死んだに違いありません」
 それから、さげていた木刀を掲げると、須藤に対して礼を執る。
「たとえ、道半ばにして倒れるとも、後悔はいたしません。武士として生きることを至上の喜びとし、必ずや期待に応えましょう」
 その言葉に、須藤は真面目に頷くと、胸の前で右拳を左手で包み込み、礼を執った。右腕の痛みは気にならなかった。
「同輩として、お迎えする。お互いに士道を貫きましょう」

 そして翌年、2011年4月。皇居にあるアクス本部に、柏木の姿があった。
 以降、柏木は須藤の右腕として、活躍することになる。


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