異界の門


藤 英美:1

「あ、ゴメン、みんな。時間だから帰るよ」
 藤英美(ふじ ひでよし)が壁にかかった時計を見ながら言うと、周りからは非難の声があがった。
「ええー、もう? だってまだ5時だよ? これじゃ全然部活にならないじゃん」
「せめて6時まではいてよ〜。せっかくいいとこだったのにぃ」
 英美は困ったように笑うが、それでも気を変えることはないようで、カバンを手に取ると立ち上がる。
「続きはまた明日ね。明日は最後までいられるから」
「はぁ〜、ヒデくんいないんじゃ、これ以上やってもしょうがないかなぁ。みんなも帰る?」
 そう言って同意を求めた少女へ、英美は笑いかける。
「それじゃあまずいでしょ。ボクがいない時に新しい術を見つけて驚かせてよ、部長」
「そうは言うけど・・・ヒデくん以上の魔法の使い手はいないんだから、しょうがない」
 英美は肩をすくめると、「じゃあ、また明日ね」と教室を後にする。扉の向こうからは、カラオケに行こうかお茶しに行こうかとの相談が聞こえてきた。
 どうやら魔法研究部の今日の活動は終わりになったようだ。
「いつものことだけど・・・まあ、大会とかあるわけでもなし。いいとするかぁ」
 半ば後ろ髪ひかれる思いがあるものの、それ以上に強い気持ちで帰路を急ぐ。今日は姉が夜勤の日なのだ。

「ヒデってシスコンだよな」
 とは、親友である田中秀(たなか しゅう)の言葉だ。ただし、この後ろには「気持ちは分かるけど」と続く。英美は、秀が自分の姉である藤涼子(ふじ りょうこ)を実の姉のように思っていることを知っている。それに対して英美は、「ボクの姉さんだぞ」なんて思うこともなく、自分の姉の魅力を知ってくれた友人に対して感謝の気持ちを持っている。それは、姉の強い反対でアクスに入ることができなかった自分の代わりに、親友が姉を守ってくれると言ってくれたからでもある。

 英美が下駄箱で靴を履き替えていると、小走りで級友が追いかけてきた。部活も一緒の彼――桜庭健一は、数少ない英美の家の事情を知っている人間だ。
 アクスの隊員であることは非公開にする・・・それを守っている英美は、姉がアクスの隊員であることは伏せている。ただ、子子家庭であることは告げているし、姉が夜勤・準夜勤の日は家事があるので部活にはきちんと参加できないことを言ってある。むしろ、それを条件に入部したという経緯がある。英美は最初、部活に所属するつもりはなかったのだ。
「まあ、俺が何とか言っとくから、気にするなよ」
 英美の肩を叩きながら桜庭が言う。その気遣いに英美は素直に感謝する。桜庭も姉の信者の一人である。そして、英美にとっては幼馴染だ。だから、英美の家に降りかかった災厄をよく知っている。
 英美が礼を言うと、桜庭は笑う。
「いいんだって。お前ん家には何かと世話になってきたし。おじさんもおばさんも、涼子ねえちゃんも、うちの家族以上に俺のこと可愛がってくれたから。ま、俺にはこんな恩返ししかできないけどな」
 英美は頷く。桜庭も秀と同じ獣返りだ。この学校ができた時、桜庭の両親は彼をこの学校に放り込んで、息子と関わるのを半ば拒絶した。
 思えば、自分は恵まれた家庭にいたのだと英美は思う。
 物心ついた頃から、当たり前のようにマナを感じ、当たり前のようにマナを操っていた自分。周りの人にはどれだけ奇異に映ったことだろう。それでも、父も母も姉も、自分のことを本当に可愛がってくれた。それは卑屈になることが不要な程で。秀や桜庭と付き合うと、自分がどれだけ恵まれていたのかを痛感する。多かれ少なかれ、この学校にいる生徒たちは社会から拒絶された経験を持つ。もちろん英美だって危ないモノを見る目で見られたことがないわけではない。しかし――家族から真に愛されてきたということが、どれだけ得難いものであったのか。
 そして、それを失うことにどれだけ自分が恐怖を抱いているのか。両親を失った自分にとって、無条件に自分を信頼し、愛してくれる存在は、もう姉だけなのだから。

 帰宅すると、慌てて食事の支度をする。エプロンを巻きながら、エプロン姿も板についたよなぁと思う。それもそのはずで、両親が死んでからのこの2年。料理は自分の役目だった。最初の頃は姉も作ってくれていたのだが、いかんせん、姉は味音痴である。それは幼少の頃からよく知っている。だから、美味しいものを食べたければ、自分で作るしかないのだ。
「失敗しても文句言われないのには助かったけどさ」
 思い出し笑いしながら料理を作る。姉は舌は鈍感だが匂いには敏感なので、香りで楽しめるような料理を好む。鶏肉を香草と一緒に焼いていると、匂いにつられたのか、姉が起きだしてきた。
「ヒデくん、おはよー。いぃ匂いだね。あぁ、よく寝た」
 その格好を見て、これ見たら姉の信者は減るだろうなぁと思う。腰近くまで伸びた髪の毛はばっさばさだし、顔はむくんでパンパンだし、パジャマ代わりに着ているスウェットはよれよれだし。もっとも、信者たちにとってみれば、これもまたいい、のかもしれない。
「もうちょっと時間かかるから、シャワー浴びてきなよ。姉さん、顔むくんでパンパンだよ?」
 言われて、涼子は鏡を覗き込んで「げっ」とか唸っている。それを背中に聞きながら、英美は料理を続ける。この会話、この雰囲気を忘れないようにしっかりと記憶に焼き付けながら。
 料理がテーブルに並ぶ頃、サッパリとした顔で涼子が風呂場から出てくる。バスローブに身を包み、長い黒髪はバスタオルで頭にまとまっている。
「姉さんさぁ、ボク、もう17だよ? そんな格好で歩きまわらないでよ」
 英美の言葉に涼子は自分の姿を見下ろすと、からかう表情で英美を見る。
「つい最近までイッショにお風呂に入ってたのにねぇ」
「つい最近って、小学生まででしょーに」
 英美の言葉に涼子はにこにこと笑っている。
「ヒデくんがどうしてもイヤだっていうなら着替えてくるけど。制服でご飯食べたくないんだよねぇ」
「はいはい。出かける前に制服汚されるのもなんだし、その格好で結構です」
 ため息とともに英美が答えると、涼子はちょっと遠い目をしたりする。
「これだから男の子はつまらないわよねぇ。ちょっと大きくなると、すぐ煙たがるんだから」
「・・・母さんそっくり」
「そりゃーそうよ。真似したんだから」
 二人は顔を見合わせると、どちらともなく笑い出す。
 ――姉さんも、これが最後の会話になるかもしれないと、思うことがあるんだろうか。
 楽しく笑いながら、英美は思う。だとしたら、英美は切ない。この想いは自分だけが抱えていればいい。生死の境に立つ仕事をしているからこそ、姉には自分の死を感じながら生活してほしくはない。でも。
 ――最後に喧嘩したのはいつだったろう。
 仲は良かったけど、それでも喧嘩ぐらいはしたものだ。お互いに大人になって、お互いを大事にし合っているのは確かだけど。英美は、黙り込んだ自分を怪訝そうに眺める姉に笑顔を返しながら、自分も料理を口に運んだ。
 何気ない会話を交わしながら、英美は思い至る。
 ――ああ、そうだ。最後に喧嘩したのは、進路の話をした時だ。アクスに入りたいと行った時。姉さんは泣いて反対したっけ。
「ヒデくん?」
 心配そうに覗き込んでくる姉に、英美は何でもないと笑って答える。
「そう? 何か、心配事でもあるんじゃないの? もしそうなら、遠慮しないで言うのよ?」
「大丈夫だって。ちょっと今日の味付け失敗したかなって思っただけ。それよりも、姉さん、急がないと時間になるよ」
 英美に言われて、涼子は時計を見ると慌てて立ち上がる。
 化粧っ気の薄い涼子は、ベースのファンデを塗って、眉毛を書くぐらいの化粧しかしない。長い黒髪にブローする姿を、洗面所の入り口から眺めていたら、鏡越しに目があった。
「大丈夫だよ、ヒデくん」
 その目は優しく微笑んでいて、英美は大きく頷く。
「うん、分かってる。姉さん、約束破ったことないもんね」
「だから、留守をお願いね」

 慌しく着替えた涼子を玄関で見送る。涼子は、ドアを閉めるまでこっちを向いている。英美に後姿を見せない。ドアが閉まると、小走りで遠ざかる足音が聞こえる。足音が聞こえなくなったところで、英美はドアに鍵をかける。
 ――姉さんは、自分が死ぬことを考えてはないのかもしれない。ボクが、心配しているから。だから、姉さんはああやって、ボクに気を使ってくれているのかも。

 深夜0時を回って、英美は勉強の手を止める。翌日の準備をすると、両親の写真に手をあわせる。
「父さん、母さん。姉さんを護ってね」
 布団に潜り込んだ途端、電話が鳴った。英美は文字通り飛び上がると、電話へと駆け寄る。
 ――まさか、姉さんに何かあったんじゃ・・・
 表示されたナンバーを見て、胸を撫で下ろすと、英美は受話器を取る。それは級友からの電話であった。
 友人と談笑しながら、英美は思う。
 ――やっぱり、こんな生活耐えられないよ。姉さんがどれだけ反対しても、卒業したらアクスに入って、姉さんと同じチームになれるよう、隊長さんに頼まないと・・・
 以前に姉と口論したことを思い出すと英美はげんなりするが、心配して待っているだけでしかないのがどれだけ辛いのか、姉には分かってもらわないといけない。
 英美は決意を固めるのであった。


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